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ねんねんころりよ
つれづればなhttp://turezurebana2009.blog62.fc2.com/blog-entry-64.htmlより転載
- 2011/11/28(Mon) -
二歳の娘は放っておいても勝手に寝てくれる子だ。それでもある時、めずらしく子守唄を唄ってやったことがある。
ねんねんころりよ おころりよ
短調の、悲しいしらべ。
するとどうしたことか、娘の唇は震えだし目に涙をためた。
驚いて唄うのをやめたら、もっと唄えとせがまれた。
そんなわけはないと思うが美声に感動したのだろうか?
それとも、こんな小さい子でも曲調の悲しさがわかるのだろうか?
背中をトントンと叩きながら、続けて唄った。
日本の調べは西洋音楽で言うところの「短調」なのだから、なんとなく「悲しい」のかもしれない。旋律が人のこころに何かを訴えるのには違いないだろう、なぜかはわからないが。
筆者がこの子と同じ齢のころ母はまだ学生だった。いつも傍にいてくれたのは母の祖母、筆者のひいおばあちゃんで、「ねんねんころり」を聴いた記憶は祖祖母へと繋がる。明治の生まれで、いつも着物をきていた。
祖祖母は孤高の人といおうか、技術者であった夫と死別した後は再婚することもなく祖母とその弟を育て上げた。資産もあったのだろう、戦時中に祖母を東京の女学校にまでやることが出来たのだ。が、そこで戦況が悪化し、祖母は女子挺身隊の一員として電話交換手として働いた。
戦後すぐに祖母は挺身隊時代の監督員(?)だった兵士に求婚され一緒になった。会ったことはないが筆者の実の祖父に当たる人である。「男前だったけどとんだ貧乏くじだったね」と、祖母は述懐する。
喘息もちでちっとも働かなかったそうだ。ある時点で祖母は二人の娘を連れて夫を見限り京都へ。そこで知り合った料理人と再婚した。シベリア帰還兵だった。
二人の娘、すなわち筆者の母と叔母は別々に養女に出された。戦後を生き抜くための選択だったのだろうが、まずかった。何度も引き取りなおしては、また別の家に遣ったりしたのだ。母とその妹はそのまま生き別れた。
しかし最後に縁組した先が母の人生を決めたのだった。長唄のお師匠さんであった。
母は義母に弟子入りした。
そういう時代だったのか、筆者の父の両親はその親から無理やり離婚させられたという。父もまた、当たり前の家庭で育つことが出来なかった。実の母親に会うことは許されなかったという。父とその弟がだいぶ大きくなったころ祖父はようやく再婚、さらに二人の男子が生まれる。
父の実家は京都にあって、祖父はお囃子という世界の人間だ。鼓や太鼓の奏者である。祖父の養父(これまた養子縁組)から続く流派で、父はその後継、筆者の弟もその道を進んでいる。
そんな父と母が出会ったのは東京の音楽学校。それぞれの境遇を知ってか知らずか、とにかく惹かれあった。父には婚約者があった。それを破談にしてまでの恋愛だった。
まず怒り狂ったのは母方の祖母であった。
「河原こじきの端くれに大事な娘をやれるもんか」そう言ったそうな。滅茶苦茶な言い分もあったものだ。だいいち河原こじきは役者に対する蔑称で奏者にはつかわない。
「そない言われてまで嫁にもらう筋合いなどないわ!」というのが父方の祖父。それでも一緒になりたいという父、「好きにさらせ」とその場で勘当をうける。
二人は学校のそばのアパートで一緒に暮らし始める。仕送りは当然なくなったので、すでに舞台に立っていた父は僅かな演奏料と日雇いの賃金でなんとか暮らしを立てることになった。死体洗いのバイトはさすがに一日で逃げたという。
見かねた祖祖母は孫である母を自分の籍にいれて養女にした。
「この娘の責任は全部私にあります。もう母親とは縁を切っておりますんで、どうか仕切りなおしてやってくださいまし」
祖祖母がそう頭を下げたことで全ては丸く収まった。すでに私が母の胎内にいた。父は勘当を解かれ、二人は晴れて式を挙げた。
母は出産と育児のために休学し、その後復学した。昼間はずっと祖祖母がそばに居てくれた。散歩をしたり、絵を書いたり、いろんな話をしたり、子守唄で寝かしつけてくれたのも祖祖母だった。母の子守唄を覚えていないことに気がついたのはずいぶんと後になってからだった。
母親というものは大昔から忙しかったに違いない。田畑で働き、飯を炊き、はたを織り、赤子なんぞは背中におぶわれっぱなしで勝手に眠っただろう。そうでなければ「ねえや」か「ばあや」にもりをされていたのだろう。ならばどうやら、子守唄なるものは母親が自らの子のために唄ったものではなさそうだ。
ねんねんころりよ おころりよ
ぼうやのおもりは どこいった
昨日までぼうやのお守りをしていたばあやは帰らぬ旅に出たのだろうか、それともねえやは嫁にでも行ったか、奉公に出たか、逆に、でんでん太鼓と笙の笛を買って帰ると約束した、故郷のおさない兄弟を思って唄うのか。
筆者が生まれるころには母の両親は日本にいなかった。ニューヨークの日本人街で仕事を見つけたのだ。
戦後、焼け野原に佇んでいた自分たちの目の前に現れた足の長い進駐軍たちの颯爽とした立ち居ぶるまいに密かに憧れていたという祖母は、夢をアメリカに見出した。カーネギーホールでオペラを鑑賞し、ブルーミングテールズで買い物をし、黒人のタクシー運転手からマダムとよばれる。それが祖母の至福の時であった。あのころでは誰も持っていないような靴や服、おもちゃがアメリカからの船便で送られてきたのを憶えている。
そんな羽振りのいい暮らしをすれば経済難に陥るのは目に見えていたのだが案の定、あちこち逃げ回った挙句に日本に舞い戻り、夫婦して娘夫婦の家に転がり込む。
「河原こじき」と罵った父の元にである。
つづく
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