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つれづればな 脱原発と江戸明け暮れ考 「衣の巻」 より転載
http://turezurebana2009.blog62.fc2.com/blog-entry-54.html
「原発をなくして江戸時代の生活に戻れとでもいうのか」という脱原発反対派の声をネット上でしばしば見つけることができる。
電気の使用量をへらす事が生活の後退を意味するという、原発産業界の人間が一般市民になりすまして声をあげているかに見えないこともないが、この発言に筆者の眉がピクリとうごいた。
それじゃあ何ですかい?お前さんは江戸のくらしをよっくご存知だと、そう言いてえんでござんすかい?
原発をなくすと東京が江戸になるのかという物理的な問題はさておき少なくともこういった意見は文献をとおして江戸の生活を知る者から出たとは考えられない。おおよそ悪代官が越後屋から小判のはいった菓子箱を受け取って「そのほうも悪い奴じゃのう」とか言ってる時代劇の場面ぐらいしか想像できない連中にちがいないし、じつはそんな付き合いは今でもなんら変わらない。
江戸はどんな都市だったのか、ブログで紹介するにはたかが知れているがちょいとだけ記しておきたい。
衣―言うまでもなく着物の生活だった。体の動きが激しい農民や職人は股引き、侍は袴をつけるが普通は一枚仕立ての着物を帯で締めるだけである。
洋裁をされる方ならお判りであろう、シャツやズボンは立体裁断といって生地を曲線で切る。立体である身体を立体的に包む洋装の特徴である。しかし直線で切り縫う和裁と比べると恐ろしく複雑であり、生地の無駄もおおい。アイロンも面倒である。また、すこし太ったりすると着れなくなってしまうという屈辱的な欠点がある。
着物の前あわせは男女とも右前と決まっているのは右手を懐に入れやすいからとよく言われているが本当の理由はそうではない。あわせが右前であれば帯も当然右巻きになる(そうでなくては解けてしまう)が、これは「気」の道を整える役に立っている。逆に体を左に巻いてしまうと体内の「気」の巡りを妨げてしまい体調を崩す原因となる。死装束を左前とするのも生きた人間と区別する為だけではなく、細胞の分解という別の生命活動(=気)の道を妨げて腐敗を少し遅らせるためであった。
洋服の場合女性の前合わせはなぜ左前かと言うと、そのほうが男が女の服を脱がせやすいからだそうな。さすがはじぇんとるめんの文化である。
衣料の流通はさまざまであった。一番の贅沢は新品の反物を買ってあつらえるというもの、その次は新品でも「つるし」という仕立て上がりを買うこと、それ以降は「古着」だが、これが流通の殆どを占めていた。一枚の着物が何度でも市場に出るのだ。糸を抜いてばらし別々に洗いまた縫い直す(洗い張り)、傷みやすい襟はたびたびかけ代えられ、裏地も打ちなおせる。裾や袖の丈を調節し、むやみに切ったりしないのは古着として売買するためである。当時は縫い物のできない女房などいなかったことと、我が国の織物が堅牢であったからこそ成立したのだが。着れないほど傷んだ着物は小さく切り分けられて袋物や子供の玩具、おしめ、鼻緒、針山と、何度でも姿を変えて生き続けた。
家々を回って古着を集めそれを店に卸す業者がいた。彼らは幕府が抱えるの隠密組織のひとつであり、市井の情報収集を行っていた。
鋳鉄製の柄杓におき炭をいれて使う「火伸し」という道具で衣服の皺を伸ばしていた。絹の織物には炭ではなく熱湯を使ったのではないかと思う。
下駄、草履、わらじ、どれも鼻緒を足指ではさんで履く。現代人が気にもしないことだが、実は足の裏や指は実は手とさほど変わらないほど感覚が鋭く、例えば何かを踏んづけたときもそれが何だかは見なくでも判るし、少し練習すれば字を書くのも難しくないほど器用だ。ちっともうれしくないが筆者の足で書いた文字は手で書いたよりも上手いとよくいわれる。日本の履物は足を自在に操りながら歩きこなすためにあるのだ。引き換え西洋の靴は足に鎧を着せているようなものだ。靴に自由を奪われた足はおのずと痛み、それがさまざまな病の源となるのは言うまでもない。
日本人が着物から離れていった理由は幾つもある。まず着物で会社に行けない。学校も。これは仕方ないが何よりもべらぼうに高い。この責任は着物業者にある。「日本の伝統」だの「文化遺産」だの余計なな付加価値をうそぶいて自らの首を絞めたのだ。伝統だろうが遺産だろうが着物など生活具のひとつに他ならない。そんなに文化遺産が売りたければツタンカーメンのフンドシでも売ればいい。
「着物姿の女は美しい」という幻想もいけない。女は着物を着ると淑やかに振舞うべき、という思い込みがいつの頃から男女ともに浸み込んでおり、それが女から動くことを奪ってしまった。かつて女たちは着物姿で田畑を耕し、野菜を売り歩いたではないか。裾をからげて蜆をとり、襷をかけて薪を割り、胸をはだけて赤子に乳をやったではないか。着物が今のように不便な装束であったならば女たちは働けず、江戸の経済などまるで成り立たなかったことになる。見た目の美しさを追いかけるあまり働くことを拒否した挙句に着物は拘禁服でしかなくなってしまったのだ。
明治新政府の欧化政策によって華族などの裕福な人々に洋装は取り入れられたものの巷に浸透するには至らなかった。日本に洋服がなだれ込み着物が駆逐されるのは第二次大戦後である。敗戦によって破壊された製造業と市場をGHQが一から組み立てなおす折に衣料部門は洋装一色に塗り替えられた。よその国の習慣を不合理だの野蛮だの揶揄するのが西洋人のお家芸だから仕方がないが、市場も生活も叩き壊した上で別のものを押し付ける遣り方は穢すぎる。そして世論を操作して西欧化がいかに素晴らしいかを人々の意識に刷り込むという彼らの常套手段にいまだに気づかない日本人も救いがたいところがある。豊かさを取り戻した日本人は着物のよさを見直すように努めたが「高級品」として復活させたのが失敗だったのは先に書いたとおりである。
今、人の体は、ベルトに、ネクタイに、ジーンズに、ブラジャーに、ストッキングに、ガードルに、ハイヒールに、ブーツに締め付けられている。裸になって鏡を見れば身体じゅう痕だらけ、色気などあったものではない。体に毒で、気の毒だ。
次号「食の巻」に続く
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