http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/529.html
Tweet |
----
お盆である。
兄弟3人、三田で飲んだ。慶応大学の近く。
飲んだ場所は中華店だった。
この店の近くに、39年前、兄弟3人で働いた印刷所があった。
NEC本社ビルの近くでもある。
慶応振興どおりの商店街はなつかしがこみあげてくる。
そのときわたしは20歳だった。印刷工だった。
高野悦子はなぜ東京の大学を選択せず、京都の大学を選択したのだろうかという謎が、まだ解けない。那須一族に関係しているのだろうか。
高野悦子のふるさとは西那須野であった。おそらく京都では、栃木県北特有の言語イントネーションである「なまり」に悩んだに違いない。1千年の都である京都で生存するためには、東京よりも生存の力が必要とされる。栃木県と東京は関東という共通項がある。しかし京都とはすでに異国である。
なぜ高野悦子は西日本の都である異国で学ぶことを選択したのだろうか?
わたしにとっては今も謎である。
高野悦子は宇都宮女子高校出身である。京都への修学旅行で大きなインパクトを受けたのだろうか?
おそらく文学へのあこがれであったと思う。
高野悦子は西那須野駅から宇都宮駅におり、宇都宮女子高校に通学していた。
わたしのふるさとである矢板駅を行き帰りの電車で通過していた。
高野悦子にとって矢板とはどのように見えていたのだろうか? 謎でもある。
京都とはコンパクトな鎌倉では比較できないほどの巨大な都である。
巨大な若者たちのエネルギーの時代、そして巨大な1千年の都、そこで高野悦子は
孤独を選択して「二十歳の原点」を、同時代に問いかけたのであろう。
高野悦子「二十歳の原点」その問いかけは、今も、死滅はしていない。
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。