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http://miyazakimanabu.com/2011/07/26/1097/
3.11の少し前、私は沖縄の近現代史と取り組んでいた。
何故、「沖縄」だったのかというと、本土と比較にならない広大な米軍基地の存在等、その歴史に見られる事実を直視するとヤマトの対応の歴史の中に強烈な「差別」が見えてくるからである。同時に、この圧倒的な差別にも関わらず、沖縄の民は、生きる営みそのものが「闘い」という歴史を歩んで来た。
私は、この沖縄の民衆の精神の源泉に触れたかった。そのためには、沖縄の近代現代史を捉え直す必要があった。さてその「総論」は研究者に任せるとして、私として関心のある各論からアプローチすることとした。
その関心の第一は、明治維新以降の日本のアジアの植民地「経営」の中で沖縄をヤマトはどのような位置に立たせたかということである。
第二点は、近代史における漢民族と琉球の民との関係史が沖縄の民衆の意識にどのような影響を与えたかということである。
第三点は1972年の「沖縄返還」とは何だったのかを、沖縄人民党と日本共産党の合流の際に、この合流を拒否した人民党の人たちの精神がどのようなものだったのか、その精神の足跡を辿ることによって捉え直したい。3.11の前に私が沖縄について考えていたのは、以上のようなことであった。
こうしたことを考え、取り組んでいる時に3.11が発生した。
ところが3.11で見えて来たこの国の姿たるものは、ヤマトが沖縄の民衆に担わせたのと同質の十字架を原発がつくられ稼働している地域の民衆に課したという歴史の実相であった。
これはあきらかに差別である。
太平洋戦争の際の「沖縄を本土防衛の捨て石」にした意識と、原発を基幹産業として、発展させるためには、集中する大都市圏の経済圏から取り残された地域の民衆に、「仕事」と「金」を与えておけば言いなりになるとするヤマトのエリートの意識、ここには、3.11で私に見えて来たこの国を歴史的に貫く差別の思想があった。
そして3.11に遭遇した後、ある友人が私に次のような感想を語った。
「この国の歴史の中で、今回の3.11のようなことが何回かあった。1945年の敗戦がそうだったし、バブルの崩壊も自分には同質の衝撃だった。人の身体に例えれば、傷口のカサブタ取れ、身体の中味が見えたという感じだ。」そしてこう続けた。「今回も、これまでと同じように、カサブタができて、中味が見えないかたちで収斂してしまうのかなあ」と。
実に同感である。
「がんばろうニッポン」と言う、サッカーの応援のような軽いスローガンが羅列される平準化された社会の中では「人の痛み」には鈍い空気が充満している。
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