28. 2011年7月12日 17:22:10: cLrP7cmtAM
kuboakoru.web.fc2.com/lamanamahalisi.doc「私はブラフマンである」(久保注:私はブラフマンであると言明すること)は単なる想念にすぎない 誰がそれを言うのであろうか? それ自体(ブラフマン・真我)がそう言うわけではない。 それが(ブラフマン・真我)がそれを言う必要が有るだろうか? 真の「私」(久保注:真我・観照者)もそういうことは出来ない。 なぜなら、「私」(久保注:真我・観照者)はつねにブラフマンとして在るからである。 それを口に出して(または瞑想で)言うことは単なる想念にすぎない。 それはだれの想念なのか? 全ての想念は偽りの「私」(久保注:真我からの根本第一想念)、つまり「私」という想念から立ち現れる。 考えることなしにとどまりなさい。 想念が有る限り恐怖もそこにあるだろう。(久保注:第一想念=恐怖=私) 私と言う想念が起こると共に恐怖も起こる。 「私はブラフマンである」は、他の想念を払い除ける集中のための一つの助けである。
一つの想念だけが優勢なときにそれが誰の想念なのかを見極めなさい。 それは「私」から起こった想念だと知られるであろう。 その「私」という想念はどこからやってきたのだろうか? その中へと探り入りなさい。 するとその想念は消え去る。 そして至高の真我がそれ自身で輝き始めるだろう。 それから先は何の努力も必要ない。 一者である真の「私」だけが残ったとき、それが「私はブラフマンである」とは言わないであろう。 そこにはその実在性を疑う他者は存在せず、 それゆえ、「私はブラフマンである」と繰り返す必要はないのである。 熟睡の中には分離がない、
つまり分離限定は心によって現れたのだ。 熟睡の中には心は存在していない 心は存在していなくとも真我は存在している。 自我(エゴ)を探り出すこと。 つまりその源を探求することで、自我(エゴ)は消滅し、後は真我だけが残る。 真我探求とは、あなたが、いまだに真我実現されていないと考えさせる、その障害を取り除き、それによって真我 実現へと導くのである。 瞑想とは自分の本性(久保注:無思考・非対象の私)から、決してそれることなく(久保注:それるとは分離の状態で、想念が我は神なりとおもうこと)、しかも自分が瞑想しているという感覚などないままに真我にとどまることである。 瞑想は想念が遠ざけられるという消極的な効果しか持っていない。 われわれは真我を忘れて身体と心を真の自己だと想像してしまう、(久保注:その忘れて想像しているわれわれとは第一想念という実体であり真我から生まれた想念である) 本来の姿であり至福が自然に現れ出でる前に、それらが(久保注:自分の出てきた本源を忘れ果てている無知である第一想念・自我であるそれらが、思考や感情や願望という第二想念や第一想念であるものが)立ち去れねばならない。 もしあなたが、身体の中の一カ所(久保注:松果体)に注意を固定させたとすれば、意識の座に関するいろんな意見も理論的なものとなってしまう。
あなたはあなた自身を主体あるいは見るものと見なし(久保注:見るものが現れたときには自動的に見られるもの・対象が現れてしまう、真の私は客体を伴った主体ではない、この対象を持っている主体とは第二想念を使用している第一想念である)あなたが注意を固定させた場所(久保注:松果体などは)は対象となる。 是では単なるパーヴァーナ(精神的イメージ)にすぎなくなってしまう。だがもし反対に、もし見る人自身を見れば(久保注:非対象・無思考の私を対象としてではなく、見る者という第二想念である思考を使わずに第一想念の出てきた源を見れば、観照者を見ればと言う意味)、あなたは融合しそれと一つになる。それがハートである。(久保注:真の至高なるお方は非対象・無思考の状態の中に真の私であり対象の神とはならない) 誰もが「私は在る」ということに気がついている。
この自覚を脇にのけて、人は神を探し回る。 眉間に注意を集中させることが何の役に立つというのであろう? 神が眉間にいるということは全く愚かなことである。 このようなアドヴァイスの目的は精神集中を助けることにある。 どのセンターにあなたが集中しようと、それは問題ではない。 何故なら本当のハートはどのセンターにも、そして身体の外にさえも存在しているからである。 身体のどの部分にあなたが集中しようとも、あるいは外側のいかなる対象物に集中しようとも、 ハートはそこに在る。 感覚器官によって知覚された対象物は直接的知識(プラティヤクシャ)と呼ばれる。
だが、感覚器官の助けもなく、常に体験される真我ほど直接的なものが他にあるだろうか? 感覚的知覚は間接的知識でしかなく、直接的知識ではありえない。 自己の覚醒のみが直接的知識であって、それは全ての人に共通した体験である。 自分自身の真我を知るためにはいかなる助けも必要とされないからである。 あなたとは誰か? そして運命や自由意志を持っていると考えるその人(久保注:考えるその人こそ私ではないプログラムである第一想念である)とは誰なのかを見いださねばならない。 あなたとは誰か? そして何故あなたはこの限定された身体を得たのであろうか 乗り物の動きをあなた自身の動きと誤って同一視したように、 あなたの行為もあなた自身のものではなく、神の行為なのである。 膨大な仕事を成し遂げたとしても、実際には彼(久保注:私達の真の私ではないプログラムである第一想念)は何もしていない。 それ故、彼(久保注:私達の真の私ではないプログラムである第一想念)の活動が心の平和と無為の道を妨げることはない。 何故なら全ての活動は彼(久保注:私達の真の私)の存在の中でのみ起こり、彼自身(久保注:私達の真の私)は何もしないという真理を知っているからだ。 それゆえ、彼(久保注:私達の真の私)は起こっている全ての活動の沈黙の目撃者としてとどまるのである。 質問者:どうすれば他の人たちを問題や困難から救うことが出来るでしょうか?
ラマナ・マハリシ: この他者についての話は一体何だね−。 そこには一者しかいないのだ。 そこには私も、あなたも、彼も存在せず、ただ全てである一者の真我が在るだけである。 他者の問題が存在するとあなたが信じているのならば、真我の他に何かが在ると信じていることになる。 外的な活動によって他者を助けるよりも、全てがひとつであることを悟る方が最上の助けである。 心(久保注:真我からの第一想念及びそこから出されている時間・空間・自他の分離というマインドや感情や知覚や体験のこと)が破壊されたとき、他の欲望(たとえば性欲など)もまた破壊されるのである。 身体が通り抜ける全ての行動は、それが生まれたときに決定されているのである。 唯一あなたに与えられた自由は、心を内面へと向け、そこで活動(久保注:自分が行為しているという錯覚)を放棄することだけである。 実際ヨーガとは他でもない、真我あるいは真理があなた(久保注:あなたやわたしという存在)とは異なっているという考え(久保注:この考えこそが゛私と言う存在ではない゛第一想念が引き起こしている思考、即ち゛真我と偽我は別々である゛という分離して見る主客分離思考のことである)を止めさせることに過ぎない。 それは人々が長い間心に抱いてきた、自分は真我と異なっているという概念(久保注:あなたやわたしは真我ではないと思っているのは第一想念である自我の概念である、その第一想念の概念が作動して真我と偽我とに区別して思考した結果、私は真我とは異なっていると思うのである)を消し去ることを目的としている。 あなた(久保注:私と言う存在または観照者としての普遍的魂の私といわれているもの)とは異なった何かと合一すると言う意味での合一などあり得ない。 なぜなら、あなた(久保注:私と言う存在または観照者としての普遍的魂の私といわれているもの)は真我から離れたことなどなく、離れることなど出来ないからである。 心が制御されたとき、呼吸も自動的に制御される。呼吸の制御をする必要はない。 あなたは身体ではない、それ故、あなたはカルタ(行為者)ではない。(久保注:私は身体ではないとき、生きている身体からも、その身体の行為からも私は離れており、自動的に日常生活に於いて身体の行為が起こっていることを目撃している観照者の次元状態が出現していると言うことであろう) 全ての行為は自動的に起こるのだ。あなた自身を行為者と見なしてはならない。(久保注:自分が行為していると思っているものは肉体と同一化してしまった第一想念であり、その第一想念が自分は身体であると思うので、その結果自分が行為していると思うのである。若しくは対象として肉体や他の身体を分離思考によって自分の他にある身体と認識し憑依したりするのである) 真我は行為に関心を持っていない。真我は行為に関わらないことは明らかである。(久保注:想念である私とは二元であり分離しているが故に、分離世界である身体で起こっていることに関心を持っており、それしか知ることが出来ない、それを超越している非分離の次元である真の私の意志は測れず、従ってその第一想念は起こっているこの分離した対象世界に関心を持つことになる) あなたが自分を身体と同一視すれば、そこには名前と形がある。(久保注:ここでいうあなたとは真の私のことではなくて第一想念としてのわたしのことでありその第一想念が自分を肉体や他の身体と同一視するときそこに個別である個人や人格が記憶として現れてきて「私は〇〇である」と自己を限定する) だが、あなたが身体意識を超越するとき、「他者」もともに消え去る。(久保注:観照者の気づきの次元ステイトに在っては私とは肉体でもなく、思考でもなく、感情でもなく、感覚や体験でもなく認識でもなくただ在るという至福のダイヤモンドのような実在感のなかには見る者と見られる対象の分離は存在せず「あなたは私である」であり、そこには自分と他者という分離は存在できないのであろうか)
真我を実現した人は、世界を彼自身と異なったものとしてみていないのである。(久保注:真我実現した人は私とあなたという分離が存在せず、真我と偽我という分離もなく、マインドの第一想念とその働きが停止し終焉しているときあるがままがあるがままに於いて在ることであろう、そこには時間もなく空間もなく制限もなく無限と言う実感の中に、私の一部としてこの現象界の世界が収まっているような感じであろうか、私には推測も想像も出来ないが、そこには愛しか存在せず、その完全なる無限の愛の中に復活したあなたであるあなたと私が一つとなって存在していることであろうか・・・・・) 交わるべき他の人など存在しない。ただ真我だけが存在しているのである。(久保注:真の私の人は分離すべき私とあなたの区別はないことであろう、そこにもし他人の人格・個人や私の個別的人格・個人を認識し意識していることがあれば、その真の私と言う人は嘘をついていることになる、何故なら真我の人に於いては私とあなたという区別や分離が存在していないからである) 超能力は自我(エゴ)があるときだけ現れる。
真我は自我(エゴ)を超えており、自我が廃止された後に実現される。 二つの種類のシディが存在する。その一つとは実現へ向けての障害となる。 マントラによって、 魔術的な効果を持った何かの薬によって、 厳しい苦行によって、 ある種のサマーディによって、 その力は獲得されると言われている、だが、そのような力は真我実現の助けにならない。 たとえそれらを得たとしても、あなたは無知のままにとどまるであろう もう一つの種類とは(ただしいものとは) それはあなたが真我を実現したときに自然と現れる力と知恵だ。 それは真我に到達した人の自然なタパス(霊的修練)から生じたシッディなのだ。 それは独りでに現れ、神から与えられたものだ。 それはその人の運命に従ってやってくる 質問:自由意志というものは存在するでしょうか
ラマナ・マハリシ: 誰の自由意志だろうか?行為者であるという感覚が有る限りは、 それを楽しむ感覚と自由意志の感覚は存在するだろう。 だがもしこの感覚がヴィチャーラ(真我探求)の修練によって失われたなら、 聖なる神の意志が働いて、出来事の流れを導いてくれるだろう、ジニャーナによって運命は克服される。 真我の知識は自由意志も運命を超えているからである なんであれこの身体がすること、この身体が通り抜ける体験は、 その身体が存在を顕したときに既に決定されているのである 人が出来る唯一の自由とは努力をしてジニャーナを得ることである。 それが彼と身体との同一化を絶ちきる。 身体はプラーラプダによって宿命づけられた、避けることの出来ない行為を通り抜けていくだろう。 人は身体と彼自身を同一視し、その身体の行為の報いに執着するか、 あるいはそれから離れ、身体の活動の単なる目撃者となるかという選択の自由だけをもっているのである。 |