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まぁ、理由はいくつかあるのだが、なぜ日本のレベルがここまで落ちたのだろうと、悩むことがある。
今回の原発を巡る対応などはその最たるもので、日本の技術力の欠如と、危機的な事態への対応力の不足や鈍重さを如実に物語るものとなっている。冷静に事態の進展を見守っているつもりでも、被害の様相よりもむしろ「ここまでレベルが落ちるものか」というところに悲しみを覚える。このままでは、復興もままならないと思えて仕方がないからだ。
それで、なぜ日本のレベルがここまで落ちたのか、という点について、私なりの一つの視点をここに投稿しておく。阿修羅読者の中には、経営者やそれなりの立場についている方も多いだろうと思う。web上のカキコミなどから、私の記事を好んで読んでいる方もそれなりにいると推定される。そういう方々は(おそらく私と似たような考え方をすることに慣れているだろうから)これから私が書こうとしていることに同意なさるだろう。いや、むしろ「以前からそう思っていた」と感じて下さるかもしれない。私のこの投稿が、私同様、正しい考え方を抱こうとしている人々の助けになれば幸いである。
さて、日本で広く見られている間違った考え方というものが、いくつかある。特に最近目立つのが、三現主義の誤用である。三現主義というアイデアそのものは正しいのだが、多くの場合、それは完全に間違ったしかたで運用されている。
"三現主義とは:「現場に行く」「現物(現状)を知る」「現実的であること」ということを行動指針とし、これら3つの「現」を大切にしていこうというもの。"
(http://www.honda.co.jp/HCC/idea/ )と定義されている。
ここで気をつけなければならないのは、あくまでも『「現」を大切』にするという点であり、『「現」だけを大切』するわけでは無いということである。当たり前のことであるが、しかし『「現」だけを大切』にしている人が多すぎるのである。
たとえば、ある製品を開発していて、現場で不具合が起きたとしよう。そこへ、駆け出しの若い技術者が急行し、現物を確認して、さてなんだろうと考える。そういうことが日本企業では広くみられている。それでも、技術者ならまだいい。文系のど素人管理職が現場に来たりする。まさしく今、原発対応で見られていることだ。そんなことをしていたらいつまでたっても解決しないのは目に見えている。
現場というのは、激しく様々な要因が絡んでいる。それゆえに、机上では分からない情報が得られ、「現状が把握でき(た)」つもりになるのは事実である。しかし、それは対象を構成する各「機能」が、「あるモード」にあるときに、どのように「動作する」かが分かっていなければ意味がない。各機能がそれぞれのモードでどのように動作するか分からないのに、どうしてあらゆる条件が複雑に絡み合った現場のことが本当の意味で理解できるのだろうか。そんなことをすれば、ただ現場で情報の海の中 路頭に迷うだけである。当たり前の話しだ。
その道のプロであれば、反射的に(意識するまでもなく)対象を各機能ごとに判断する。それぞれの機能ブロックごとに、それがどのようなモードで動いているかを検証し、あるブロックが異常であればその下位のブロックがどう動いているか考えるということを繰り返している。
多くの場合、こうしてはじめて「現状を把握」できる。そのために必要なデータは小数である。
しかし、このときに、事前の膨大な数の「机上の検討」が必要となってくる。つまり、それぞれの機能が特定のモードでどう動くか、それが組合わさるとどうなるか、どこでこれを診断できるか、、、etc.、といった「知識」が必要になるのだ。現場では、その予め準備した「モデル」を検証するのである。
このモデルは、現実的なものでなければならない。モデルは常に複数用意し、間違ったモデルは捨てなければならない。ここが「知恵」の働かせどころである。
繰り返しになるが、多くの場合、本当に機能ごとにどう振る舞うかが整理されている人であれば、適切なデータさえ手に入るのであれば、現場に行くまでもなく多くのことを理解することができる。だから、三現主義は絶対に必要というわけではない。
問題は、例えば現場にあれを見てこいとか、これの様子を伝えろと言っても、そこにエラーが入ると正しく「現状を把握」することができない。だから、エキスパートであるならば、その人自身が現場に入って現物を確認することを怠ってはならない。そして、現象が自分の想定と異なっているならば、現実に起きていることを優先しなければならない。そういう「泥臭い仕事」を惜しんではならない、というのが三現主義の言わんとするところなのである。
三現主義というのは、技術のプロであった本田が、プロを目指す人達に怠惰になることを戒めたからこそ意味があるのだ。
こう考えると、現場にド素人が突っ立って現状をレポートにしたところで、それは全くの無駄であって、ゴミのようなデータを増やすだけで百害あって一利にもならないということが分かるだろう(それの最たるものがマスゴミであるし、わたしが阿修羅住人の一部のバカの一つおぼえみたいにコピペする輩をゴミとか害悪と呼ぶのも同じ理由である)。
しかし、いつからか、三現主義という言葉が独り歩きしはじめ、それは事実上『「現」だけを大切』にするという風潮にながされてきた。基礎研究は軽んじられ、「机上の考察」はあってはならないものと見做され、「知識だけがあって知恵がない」と専門的な技能を有する人が潰される時代が続いた。(そもそも、モデルに言及したときに触れたとおり、知識がなければ有用な知恵も出てこないのだ。)
こうして、ナチス・ドイツから知識人が消えてしまったように*、日本の真の意味での専門家は絶滅危惧種になってしまった。
そのツケが、出てきている。
わかりやすいから原発を引き合いに出しているのだが、今回の原発対応にしても、情報にノイズが多過ぎた。会見で単位が目茶苦茶だったり、測定すべきものを測定していなかったり、意味のないものを測定していたり、言い出せばキリがないが、、、、これらは素人が現場にいるから起きるものだろう。そうではないだろうか。
対応がまずいから原発問題が悪化していると断定するわけではないが、すくなくともこの一連の混乱については、間違った三現主義と知識人排除の時代の弊害と言えるかもしれない。
そして、この同じ"構造的失敗"が、自分達の周りでも起きていないかどうか、確認し、この傾向と闘う必要がある。それは、率先して泥を被るような辛いものとなる。それが報われるかどうかすら、今の時代では怪しいものだ。だが、自分の心に恥じないように行動するのは、大切なことだと思うね。
notes
*) 小泉のやったことっていうのはつまり、いわゆるB層を主役にするために、知識人を公開処刑したところにあった。それで快感を覚えてしまった民衆の一定の集団が、己の怠惰を棚に上げ、円形競技場にあつまる血に飢えた聴衆のように「いじめの対象」を見つけてはウサ晴らしをしている。その精神構造はレイプ魔のそれと大差ない。それが自分の首を絞めていることすら、彼等は学習しようとしない。そういう風潮と戦う必要があるだろう。
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