http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/287.html
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この外国人記者は日本をよく見ている、知っている。
「南ドイツ新聞」、三月十三日の記事。
http://www.sueddeutsche.de/politik/atomstaat-japan-der-blinde-glaube-an-die-technik-1.1071520
記者は、以前見つけた二本の記事、「東電の生徒たちの記者会見ごっこ」、「福島からグラスノスト(改革)は起こらない」の執筆者でもある。
要点をかいつまむ。
タイトルは、「技術への盲信」。
日本は唯一の被爆国であるのに、原発の危険性に対する議論はいままで、まったくなかった。
戦後の技術に対する盲信は続いていた、ただし今日までだ。
原発の危険性に対する懐疑は常に、「原発は安全、議論の余地なし、以上」で怒られながらさえぎられた。
>>>略
原発後のエネルギーについては、70年代に商用化させたかったのだが、この間、2050年以前にはあり得ない、ということになっている。(不定代名詞が使われているのであいまいな文章である)
政府はまるでほかの選択肢がないかのように、原発に固守している。
この間,風力タービンの技術者たちは、いまだ日本には、風力発電の規格さえないのに不平をもらす。世界のパイオニアであった、ソラー産業はすでに追いつかれている。
>>>略
民主国家においては、メディアは第四の権力である。
日本のメディアは、その権力(権利)を行使することはしない。
(メディアは)選挙民とおなじように、権力者をほぼまったくコントロールしない。
なるほどスキャンダルを暴くことはある、たいていは金の話だが、
しかし、それは、検察がメディアに「用意してやった zuspielen」ものである。
政府や産業に深く入り込むような批判的な公論は、メディアには出てこない。
硬直化した(日本の)システムの端っこに、一定の(反対の意思表示の)努力がなされているが、(それらの努力は)、多くの日本人からまともに受入れられているとはいえない。この端っこの現象(を起こす人たち)は、よく事情を知っている原発反対論者である。
しかし、彼らのデモは極小であり、(一般人は)聞く耳を持たない。しかしながら、原子力国家においてそうであるように、警察の監視下にはいり、嫌がらせを受け、追尾されるのである。
コメント
嗤ってしまうのは、スキャンダルの暴露に関する、検察とメディアの関係をzuspielenという動詞を使っている。
この単語は、サッカーでは、アシストする選手がゴールしやすいボールをゴールゲッターに出すときつかわれるのだ。
ここまで外国の同業者に書かれて、恥ずかしくないのかねえ。
そしてこの記者は日本を真の民主国家とみていない、その視線は、われわれ国民にも向けられている。
鋭い指摘は、日本は軍事核大国ではないが、原子力国家であるとしていること、原発に異議を唱えると、公私ともども、不利益を被るということだろう、「自由民主主義」とは程遠い。
タイトルの「技術への盲信」は、「権威、肩書への盲信」としたほうが、日本人にはピンとくる。
南ドイツ新聞
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E6%96%B0%E8%81%9E
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