http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/256.html
Tweet |
株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu235.html
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
--------------------------------------------------------------------------------
親鸞の時代は、墓に葬られる者は極めて稀であった。西の鳥部野、
東の蓮台野といえば、そこは死体を遺棄するための場所なのだった。
2011年3月2日 水曜日
◆無縁 2月12日 今様つれづれ草
http://blogs.yahoo.co.jp/namoamidabutsu18/61658503.html#61666692
最近、テレビや新聞で“無縁”という言葉に出会う。
特に「無縁社会」という言葉が巷を駈け巡っているように思える。
そもそも「無縁」という言葉は、紛れもない仏教語である。
即ち、「仏法を聞く縁のない者」という意味で「無縁」という言葉が用いられたが、
それが転じて、「無縁仏」や「無縁墓」といった、
後見が存在しない亡者に関する意味へと変わっていった。
それが今、社会を席巻する言葉となっている。
孤独死、独居老人、社会に順応できない若者…それが「無縁」という社会の実相なのか。
或いは、他人に対する過剰な“無関心”が、そうした現実を生んでいるのかも知れない。
天下の悪法と思しき「個人情報保護法」も、
結果として国家が「無縁社会」の蔓延に拍車をかけているのではないか…。
果たして、こういう社会状況にあって、誰しもが「無縁社会」の中に入り込んでもおかしくない。
名古屋には独居老人の生活をサポートするNPO法人があり、
全国から反響が寄せられているそうで、中にはちゃんと親族が存在する人ですら、
サポートを受けるべく名前を登録しているというのだ。
親子や夫婦関係ならば、まだお互いを見守ることも可能であろう。
(もっとも、そんな間柄であっても希薄な状況は否めないが…)
ところが、親戚関係になってくると、余程の利害関係でもない限りは、最早他人同然のようだ。
拙寺へ葬儀の依頼に来る家庭にも、そういうケースがままある。
荼毘に付した後の遺骨の引き取り手がないとか、
親族がいるにも関わらず、後見がないという理由で墓地を撤去するなど…である。
結局は人間関係を保つのが煩わしく思う時、それが「無縁社会」の出発点なのかも知れない。
ところで、「無縁社会」という言葉の対極が「ムラ社会」であろう。
こと、私が浄土真宗のお育てに与った“真宗地帯”は、典型的な「ムラ社会」である。
稲刈りが一段落すると「御取り越し」という、
在家の仏壇で宗祖親鸞の忌日(報恩講)を勤める習慣が、ほぼ全国の真宗の多い農村では存在する。
滋賀県辺りなどは、いついつ誰それの家で報恩講が勤まるというと、
向こう三軒両隣は言うに及ばず、通り沿いの半径50メートル圏内の家々から人が集まる。
八畳二間ぶち抜きの仏間は、それこそご近所さんで“満堂”ななる訳だ。
そこへ僧侶が来て装束を改めて仏壇の前に座れば、
全員で『正信偈・和讃』を唱和して、引き続いて僧侶の説教を聴聞する。
終わって、全員に供物が配られ解散となるのだが、家によっては参加者に酒の接待もする。
浄土真宗の仏事を通して、地域の繋がりを確かめ合うのが江州辺りの「御取り越し」である。
しかし、こうした繋がりも世代交代を重ねる内に、煩わしさが目立つようになり、
衰退の一途をたどっているのかも知れない。
確かに、現代人からすれば何と前近代的な集いと思われるかも知れない。
付き合いとはいえ、時間を割いてその家へ参詣に行くのも煩わしければ、
特に受け入れる側は物心ともに大変だ。
参詣者に配るお供物も用意しないといけないし、仏間の大掃除も念入りにしないといけない。
「無縁社会」の対極が「ムラ社会」であるならば、「ムラ社会」の人間関係とはそういうものである。(後略)
◆続・無縁 2月13日 今様つれづれ草
http://blogs.yahoo.co.jp/namoamidabutsu18/61666577.html
その記事中の一節は圧巻であった。
少しく引用しておきたい。
なんでも、孤独死し身寄りのないものが沢山増えているそうな。
それがどうした?と言いたい。
そんなことを大上段に「無縁社会」などという頭を疑う。
NHKというメディアが賞をもらって調子に乗っているそうな。
島田某という似非宗教学者がさっそく商売をしているもんな。
要するにそのことは、
@死体の処理に困るということ
Aそれにともなって後始末に公共のコストがかかるということ
Bモノのように処理されていく「死」に対して何らかの畏れを感じている、
ということではないのか?
@〜Bのことは、本人以外がかかわることになるから「問題」になってきたのでしょう。
なら、ちっとも「無縁」じゃないじゃないか・有縁だ。
ややもすれば痛烈な内容ではあるが、完全“無縁”はあり得ないのは確かなようだ。
それこそ、“無縁”は何も現代社会だけの病理では決してない。
時代小説の主人公“木枯らし紋次郎”は上州新田郡三日月村出身の無宿者だ。
無宿者とは人別帳(現代でいう戸籍)に記載されない者のことである。
彼はひたすらに「あっしには、かかわりのねェことで…」を繰り返し、
積極的な人との繋がりを持とうとはしない。
ただひたすら、目的のない旅から旅への渡世人生である。
親鸞の時代に至っては、墓に葬られる者は極めて稀であった。
今も京都に地名として残る、西の鳥部野、東の蓮台野といえば、
そこは死体を遺棄するための場所なのだった。
蓮台野を通る千本通という広い道路の名前の由来は、
“無縁仏”の卒塔婆が千本立っていたという故実にちなむ。
近世・中世の人々は、我々の想像を遙かに超えた社会で暮らしていた。
もっとも紋次郎の“無縁”は、孤独としての無縁に加えて、
権力からの垣根を越えたところに存在する“無縁”でもあろう。
(私のコメント)
昨日のNHKのクローズアップ現代では、「岐路に立つお寺〜問われる宗教の役割」と題して、寺と焦慮のあり方を論じていましたが、NHKが取り上げている「無縁社会」の無縁も仏教用語である。仏教用語はわれわれの生活の中に入り込んでいて、気がつかずに使っている例がたくさんあります。しかしNHKの番組製作スタッフがどれだけ仏教のことについて知っているのでしょうか?
「無縁社会」と言う言葉も、センセーショナルな使われ方をしていますが、一連の無縁社会の番組を見ても、ただ単にさびしがり屋の甘ったれた若い専業主婦が出ていて、高齢者ばかりの下町では隣近所と親しくなれないといった「孤独感」を述べていました。その為に半年足らずで湘南にまで引っ越したのだそうです。なんとわがままな若い主婦なのでしょうか。これが「無縁社会」なのでしょうか?
昨日のクローズアップ現代の番組でも、近代的な都会の葬儀社と破産した地方のお寺を対照的に扱っていましたが、仏教そのものとはあまり関係の無い話だ。これからの高齢化社会では葬儀屋さんは不景気知らずで新規参入が相次ぐことでしょう。墓地にしても息子や孫の代になれば過疎化した地方から都会の近代的な納骨堂に引っ越してくる墓も多くなるでしょう。
そのような「葬式仏教」や「檀家制度」は、いろいろ批判もありますが、村社会における中心的な存在であり、冠婚葬祭を村全体で行なってきた。村八分と言う言葉も葬式と火事の消火だけは手伝うと意味であり、村の共同体の冠婚葬祭を寺が担ってきた。だから日本全体で77000もの寺があっても不思議ではない。檀家制度は現代における住民登録や戸籍係であり行政組織の一部になってきた。
だから仏教そのものと葬式仏教や檀家制度の問題とは少し問題の意味が異なる。昨日の番組でも世論調査でも仏教そのものには90%もの人に好印象が持たれているのに、寺や坊さんに対しては支持されていないことは当然なのだろう。寺も世襲の坊さんではお経を読むことしか仏教徒は関係が無い。しかし仏教は日本人の心の中に根付いているのであり、現代においても日本人の心を救えるのは仏教しかないのかもしれない。(キリスト教は戦国時代に日本人を奴隷として売りさばいてきた宗教だ)
徒然草の第七段に「あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。」と言う文章がありますが、吉田兼好が徒然草を書いていた時代には、世の中が乱れて死体が街外れの野原に打ち捨てられていた。死体を放置しておくわけにも行かないから僧侶が荼毘に付して弔っていたのでしょう。
NHKが現代を「無縁社会」とセンセーショナルに扱っていますが、NHKは仏教に対してどの程度の認識を持っているのでしょうか。私自身は仏教の専門家ではないからよく分かりませんが、葬式をビジネスチャンスと捉える業者と納骨堂の経営に失敗した寺とのイメージと、仏教をダブらせている。世襲の坊さんたちは僧侶の格好をした葬儀屋さんと大して変わりがない。
本来の仏教のお坊さんは、昔のように無縁仏を弔ったり、戦乱に苦しむ民衆の心を救うために布教活動をしてきた。現代では怪しげな新興宗教がはびこって、本来の仏教は民衆の心を救う仕事をしていない。むしろ現代の仏教ではインターネットの中で活動している坊さんが多いようですが、お説教とは仏教用語であり親が子供を叱るときの説教ではありません。
仏教の「説教」の末裔は「落語」であり、落語家のほうが本来の仏教のお坊さんに近いのだろう。昔はお坊さんを招いて「お説教」を聞いたのでしょうが、お寺で坊さんのお説教を聴く機会は今ではほとんどなくなってしまった。落語を聴いているうちに仏教の教えを日本人は身に付けてきたのだ。
◆落語のルーツが仏教と聞いたんですけれど、ほんとうですか?(ペンネーム 浪汗洞)
http://www.tatsuru.com/jibutsu/2007/06/20_0927.html
はい。落語は仏教の「お説教」をベースに成立したという説が有力です。芸能研究の第一人者、関山和夫先生が論証しました。関山先生は「話芸」という言葉を作り出したことでも有名です。もちろん、落語がひとつの形態として結実するまでには、他にもいろいろな要素(大道芸や語り芸の系譜)が交錯しているのですが、やはり基盤は「仏教のお説教」にあったと思われます。
落語の祖といわれる安楽庵策伝は浄土宗の説教師でした。続いて登場した露の五郎兵衛は元・日蓮宗の僧です。
「お説教」で、いきなり仏法を説いてはなかなか聴衆が受け入れてくれません(これは現在でも同じなのだ〜。涙)。そこで、まずは面白おかしい話などでオーディエンスをリラックスさせ、場をいい雰囲気にしてから、次第に仏法へとシフトするのです。落語は、その前フリの部分が発達して、別個のものとして独立したかたちと言えます。だから、今でも着物を着た人が、独りで座布団に座ってお話するのです。扇子や手ぬぐいだけを使って。これは、あきらかに僧侶がお説教をするスタイルからきていると思われます。だから、世界中さがしても落語と同じ形態の芸能は無いそうです。
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。