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「文筆劇場」ジョン・スミスへの手紙 サイバー・ラボ・ノート (2852) 「思想と経験、そして現実との格闘」から下記を転載投稿します。
=転載投稿=
世界を認識する方法には、2つのアプローチがある。
「思想よって把握する手法」と「経験によって把握する」というものだ。いままで生きてきてよくわかったのは、どちらか一方だけでは不充分であり、両方のアプローチを取るべきだ、ということだ。
「経験が豊富なのにもかかわらず、人間としての深みがない」という人には思想が欠落している。経験は、内省によって検証されなければならない。そうすることではじめて、経験が「糧」になる。反省なき経験は、人生の浪費である。
一方、「思想家の名前を列挙する割には、生活感がない」という人には経験が不足している。より深刻な問題を孕んでいるのは、こちらの方だ。
実社会に出れば誰しも気付くように、時の権力者を批判するよりも、家族の反対を押し切ったり、職場の上司に抵抗したりする方が、遥かに難しいものだ。
あのニーチェですら、母親と妹という「家族の問題」にうまく対応できなかったようだ。「人類救済」を唱えるよりも、たったひとりの人間と徹底的に関わることの方が難しい。
なぜならそれは、"直接的な利害と行動"に関わるからである。
"直接的な利害と行動"を前にして、自分の信念を貫くというのは並大抵のことではない。大学教授であれ、新聞記者であれ、自分の雇用が危うくなったら、平気で自説を撤回するのが普通である。それを批判するのは酷だろう。
人は弱いものだ。他者に対しては、あまり多くを期待するべきではない。
だからこそ、"直接的な利害と行動"による試練と検証を経ない思想は、語るに値しない。
"不屈の思想家"ならば、自分の発言に全責任を負うべきである。しかし実際には、自らの生命を脅かされてまで、語るべき思想を持つ人は滅多にいない。
僕は「思想は語るものではない」と考えている。思想は、実践するものだ。語ってもよいが、ほどほどにしておいた方が良い。それよりも、自分の足元にある経験を深く見つめたいものだ。
なぜなら、思想を持ち、本当に戦うべき場面は、「直接的な利害と行動」に関わる局面だからである。つまりは現実と戦わなければならない刻だ。
そんなことを考えるとき、僕はひとつの記憶を思い出す。
学生時代、日雇い労働をしていたとき、若者と一緒に働く中高年のおじさんがいた。若手にとっても、相当な重労働だったが、その中に混じって懸命に働いていた。
漏れ聞いたところでは、一家の大黒柱だったが、会社を解雇されて流れ着いたようだった。
普通に考えれば、日雇い労働の収入で、一家の生計を支えるというのは、不可能に近い。しかも、若者でも音をあげるような厳しい労働環境だ。社会や会社を呪うこともできただろう。
それでも彼は、家族のために懸命に働いていた。僕はただ、頭を下げるしかなかった。
今にして僕は思う。「あぁ、彼は確固たる思想を持っていたのだ」と。
思想とは、何も高校倫理の教科書や大学の西洋思想史のテキストで紹介されているものだけを指してと呼ぶのではない。「確固たる思想を持つ」ことと「研究機関で行われる思想に関する学説研究」とは全く別次元の話だ。
おそらく彼は、その思想を語らない。語る意味がない。改めて問い質しても「だって、やるしかないでしょ」くらいの言葉しか返ってこないだろう。
それでも、胸に秘めた思想が彼を支え、彼は立派に実践した。それだけで、充分だ。
「直接的な利害と行動」を前にした時、問われるものは、つまるところ「勇気と覚悟」でしかない。
言い換えれば「勇気と覚悟」だけが思想の価値を保障する。また、そうやって篩(ふるい)にかけた思想であれば、本当に苦しい局面に立たされた時にも、僕たちを支えてくれる。
これこそ、実世界と格闘しながら生きる私たちにとって、「思想を持つ」ということの意味である。
(以上、1500字)
山田宏哉記
=転載終了=
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