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株式日記と経済展望
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自分は世のため人のために何をなしうるか、という問いを切実に引き受けるものだけが、
才能の枯渇をまぬかれることができる。それが才能の死活の分岐点である。 内田樹
2011年1月3日
◆才能の枯渇について 2010年12月26日 内田樹
http://blog.tatsuru.com/2010/12/26_1356.php
クリエイティヴ・ライティングの今年最後の授業で、「才能」について考える。
天賦の才能というものがある。
自己努力の成果として獲得した知識や技術とは違う、「なんだか知らないけれど、できちゃうこと」が人間にはある。
「天賦」という言葉が示すように、それは天から与えられたものである。
外部からの贈り物である。
私たちは才能を「自分の中深くにあったものが発現した」というふうな言い方でとらえるけれど、それは正確ではない。
才能は「贈り物」である。
外来のもので、たまたま今は私の手元に預けられているだけである。
それは一時的に私に負託され、それを「うまく」使うことが私に委ねられている。
どう使うのが「うまく使う」ことであるかを私は自分で考えなければならない。
私はそのように考えている。
才能を「うまく使う」というのは、それから最大の利益を引き出すということではない。
私がこれまで見聞きしてきた限りのことを申し上げると、才能は自己利益のために用いると失われる。
「世のため人のため」に使っているうちに、才能はだんだんその人に血肉化してゆき、やがて、その人の本性の一部になる。
そこまで内面化した才能はもう揺るがない。
でも、逆に天賦の才能をもっぱら自己利益のために使うと、才能はゆっくり目減りしてくる。
才能を威信や名声や貨幣と交換していると、それはだんだんその人自身から「疎遠」なものとなってゆく。
他人のために使うと、才能は内在化し、血肉化し、自分のために使うと、才能は外在化し、モノ化し、やがて剥離して、風に飛ばされて、消えてゆく。
長く生きてきてそのことがわかった。
豊かな天賦の才に恵まれた多くの若者を見てきた。
彼ら彼女らは若くからはなやかな業績や作品を生み出し、高い評価を受け、すてきなスピードで社会的なプロモーションを果たした。
彼らは自分の才能の効率的な使い方については十分に知っていたが、「才能とは何か?」という一般的な問いを自分に向けることはあまりなかったようである。
なにしろ、生まれたときからずっと才能があり、才能がいきいきと活動している状態が天然自然なので、あらためて自分の才能の構造や機能について省察する必要を感じなかったのである。
それも無理はないと思う。
でも、ある程度生きてくれば、現在自分の享受している社会的なアドバンテージのかなりの部分が「自己努力」による獲得物ではなく、天賦の贈り物だということに気づくはずである。
それに対して「反対給付義務」を感じるかどうか、それが才能の死活の分岐点である。
反対給付義務とは、この贈り物に対して返礼の義務が自分にはあると感じることである。
贈り物がもたらしたさまざまな利得を自分が占有し退蔵していると「何か悪いことが起こり、自分は死ぬことになる」と感じることである。
才能がもたらしたアドバンテージは「私有物」ではない。だから、返礼をしなければならない。
ただし、それは「贈与者に直接等価のものを返礼する」というかたちをとらない。
とりあえず相手は「天」であるから、返しようがないということもあるけれど、あらゆる贈与において、「最初に贈与した人間は、どのような返礼によっても相殺することのできない絶対的債権者である」というルールがあるからである。
世界で最初に贈与した人間が「いちばんえらい」のである。
その原初の一撃(le premier coup)はどのような返礼を以てしても償却することができない。
それゆえ、返礼義務は「贈与者」に対して、債務の相殺を求めてなされてはならない。
してもいいけれど、「贈与を始めた」というアドバンテージはどのような返礼によっても、相殺できないからやっても無意味なのである。
この被贈与者が贈与者に対して感じる負債感は、自分自身を別の人にとっての「贈与者」たらしめることによってしか相殺できない。
自分が新たな贈与サイクルの創始者になるときはじめて負債感はその切迫を緩和する。
そのようにして、贈与はドミノ倒しのように、最初に一人が始めると、あとは無限に連鎖してゆくプロセスなのである。
才能はある種の贈り物である。
それに対する反対給付義務は、その贈り物のもたらした利益を別の誰かに向けて、いかなる対価も求めない純粋贈与として差し出すことによってしか果たされない。
けれども実に多くの「才能ある若者」たちは、返礼義務を怠ってしまう。
「自分の才能が自分にもたらした利益はすべて自分の私有財産である。誰ともこれをシェアする必要を私は認めない」という利己的な構えを「危険だ」というふうに思う人はしだいに稀な存在になりつつある。
でも、ほんとうに危険なのである。
『贈与論』でモースが書いているとおり、贈り物がもたらした利得を退蔵すると「何か悪いことが起こり、死ぬ」のである。
別にオカルト的な話ではなくて、人間の人間性がそのように構造化されているのである。
だから、人間らしいふるまいを怠ると、「人間的に悪いことが起こり、人間的に死ぬ」のである。
生物学的には何も起こらず、長命健康を保っていても、「人間的には死ぬ」ということがある。
贈与のもたらす利得を退蔵した人には「次の贈り物」はもう届けられない。
そこに贈与しても、そこを起点として新しい贈与のサイクルが始まらないとわかると、「天」は贈与を止めてしまうからである。
天賦の才能というのは、いわば「呼び水」なのである。
その才能の「使いっぷり」を見て、次の贈り物のスケールとクオリティが決まる。
天賦の才能を専一的に自己利益の増大に費やした子どもは、最初はそれによって大きな利益を得るが、やがて、ありあまるほどにあるかに見えた才能が枯渇する日を迎えることになる。
前に「スランプ」について書いたことがある。
スランプというのは「私たちがそれまでできていたことができなくなること」ではない。
できることは、いつでもできる。
そうではなくて、スランプというのは「私たちにできるはずがないのに、軽々とできていたこと」ができなくなることを言うのである。
「できるから、できる」ことと、「できるはずがないのに、できる」ことはまるで別のことである。
「できるはずのないことが、自分にはできる(だから、この能力は私物ではない)」と自覚しえたものだけが、次の贈与サイクルの創始者になることができる。
自分は世のため人のために何をなしうるか、という問いを切実に引き受けるものだけが、才能の枯渇をまぬかれることができる。
「自分は世のため人のために何をなしうるか」という問いは、自分の才能の成り立ちと機能についての徹底的な省察を要求するからである。
自分が成し遂げたことのうち、「これだけは自分が創造したものだ」「これは誰にも依存しないオリジナルだ」と言いうるようなものは、ほとんど一つもないことを思い知らせてくれるからである。
才能の消長について語る人があまりいないので、ここに経験的知見を記すのである。
(私のコメント)
「株式日記」は無料のブログであり利益の見返りを求めて書いているのではない。私の有り余る才能を社会に還元するためであり、それによって日本がいくらかでも良くなるの事を求めて書いている。しかしながら世の中には、このような私の才能を妬んでコメント欄には荒らしや嫌がらせが書き込まれる。なぜ荒らしや嫌がらせをするのだろうか? いやなら読まなければいいだけの話であり、私の才能に対する妬みからなのだろう。
このように書くと、いかにも傲慢不遜な自分に対する自画自賛に思われるのでっすが、無料で書いているにもかかわらず「株式日記」を誰もほめてくれないからだ。無料だから読者が増えたところで儲かるわけでもなく、単なる時間の無駄遣いになるのかもしれない。にもかかわらず書き続けているのは、自分は才能があり、それを社会に還元すべきだという信念が「株式日記」を書き続けさせている。
だから自分では「株式日記」ほどレベルの高いブログは無いと思い続けていなければ、書き続けることは出来なかったであろう。しかし私は万能の神ではないから最高レベルの知識から程遠いことも認識していなければならない。学校教育では99%が努力であり才能は1%だと教え込んでいるようですが、1%の才能を99%にまで伸ばすには努力が必要だということだ。
つまり才能は心がけ次第では伸びていくものであり、それを人のために生かさなければ、才能が豊かだった若者でも才能が失われていく。諺にも「神童も大人になればただの人」という言葉がありますが、いかに神童でも人のために尽くせるかどうかが大人になったときの差に現れるのだろう。自分の才能を自分のためにしか使わないという心がけでは才能は衰えていくものかもしれない。
若い時に音楽的才能があっても、ある時からピタリと曲が書けなくとこがあるようですが、ヒット曲を出して儲けようという意識が才能を枯渇させてしまうのかもしれない。最初の頃は儲けようとして曲を書いているのではなく好きで書いていたのが、ヒット曲を出して何億も儲かると生活が変わってしまって、それを維持するためにヒット曲を書こうとする。しかし欲が先にたつと曲が書けなくなる。
ブログにしても同じであり、前はいい事を書いていたブログが有料化して精彩がなくなってしまったようなブログやメルマガが良くあります。欲が先にたつと良いものが書けなくなるというのは才能が枯渇しやすいからだろう。もちろん良い小説を書き続けたり良い曲を書き続ける音楽家もいますが、好きで書いていたものが評価され続けていたからであり、1億円儲けてやろうと書いたものではないだろう。
有料ブログやメルマガを書いていると才能が枯渇しやすいのは、内田氏が言うところによれば「才能は自己利益のために用いると失われる」ものらしい。才能は世のため人のために使わないと枯渇してくるのは神による差配によるものだろう。『才能を威信や名声や貨幣と交換していると、それはだんだんその人自身から「疎遠」なものとなってゆく』と内田氏は書いていますが、欲に目が眩めば世の中が見えなくなってくるからだろう。
天から与えられたものは天に返すのが道理であり、才能を私物化してしまうと神からの天罰を受けることになるからだろう。才能は天から与えられると言うことは、誰かからの影響を受けたから才能が開花したからであり100%オリジナルということはありえない。その才能を私物化していくということは傲慢不遜であり自画自賛に過ぎない。著作権を主張するということは才能を私物化していく行為であり、100%全部オリジナルとは言えないものに対して自分のものだと主張することは傲慢なのである。
だから『株式日記』は無料であるし、引用や転載もリンクも自由とうたっています。有料ブログやメルマガがつまらなくなるのは自分才能に対する傲慢さであり私物化であるから才能が神の天罰によって枯渇して行く。欲が先にたって欲に目が眩めば世の中のことが見えなくなって行く。
株式日記を書いている時に、自分自身に神が乗り移って書かせているのではないかと思うときがある。自分の才能では書けなかったような事が書けると言うことは、そう思うしかないからだ。内田氏も次のように書いてる。『できるはずのないことが、自分にはできる(だから、この能力は私物ではない)」と自覚しえたものだけが、次の贈与サイクルの創始者になることができる。』という事は神による差配なのだ。
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