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(転送・転載を歓迎します)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1742871550&owner_id=6445842
私は、これまでに二度、平泉を訪れて居ます。
一回目は大学生だった1977年の事で、二回目は2年前の2009年の事です。
その二回目の平泉旅行の時の事です。中尊寺のあの長い参道を金色堂に向かって歩いて居た時、或る事に気がついてはっとせずに居られませんでした。
それは、中尊寺のあの長くゆるやかな参道の坂が、韓国の寺の参道に似て居る事でした。具体的には、特に、慶尚南道の名刹、通度寺(トンドサ)のあの長い参道に、或いは、大蔵経で有名な海印寺(かいいんじ/ヘーインサ)の雰囲気に、中尊寺の参道の雰囲気が酷似して居る事に気がついて、はっとしたのでした。
しかし、更に驚いたのは、中尊寺の後、毛越寺(もうつうじ)を訪れた時の事でした。31年ぶりに、毛越寺の庭の池の前に立った時、私は、その池の光景が、韓国の古都、慶州(けいしゅう/ギョンジュ)のアナプチと言ふ庭園に似て居る事に気が付いたのでした。
(慶州の雁鴨池(アナプチ)の写真です)
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http://www.utravelnote.com/korea/see/anapji
その31年前、生まれて初めての一人旅で平泉を訪れ、毛越寺の庭の前に立った時は、まだ韓国には行った事が有りませんでした。ですから、その時は、そんな事には全く気が付かなかったのですが、1980年代に韓国を4回訪れ、特に、慶州を3回訪れた後だったこの二度目の平泉旅行で、私は、平泉の文化が、新羅の古都、慶州の文化に酷似して居る事に気付き、驚かずには居られなかったのです。
新羅の都であった慶州については、1970年から、「奈良に似て居る」と言ふ事が良く言はれて来ました。そして、特に、金達寿氏などの在日朝鮮人知識人がそれを強調して来ました。私自身、1987年に初めて慶州を訪れた時には、そんな気がした事を覚えて居ますが、慶州を繰り返し訪れ、又、奈良を繰り返し訪れる内に、慶州と奈良の類似性はさほどの物ではないのではないか?と思ふ様に成りました。むしろ、この二度目の平泉旅行で気が付かされた様に、慶州は、平泉に似て居るのです。
私のこの指摘がピンと来ない方の為に、面白い物をお見せしましょう。
↓
http://www.pusannavi.com/miru/1093/
(クリックして下さい)
これは、慶州に在る鮑石亭(ほうせきてい/ポソクチョン)と呼ばれる庭園です。慶州の南に在るこの庭は、新羅王朝の離宮だった所で、新羅の王様たちが宴会を開いた庭ですが、この溝を御覧下さい。これは、水を入れた溝で、ここに水を満たし、その水の上に杯を浮かべて、杯が目の前を通り過ぎる前に詩を読む「流觴曲水」と言ふ遊びが行なはれたと伝えられて居ます。何とも風流な遊びで、元は支那から伝はった文化だそうですが、次に、これを御覧頂きたいのです。
↓
http://www.motsuji.or.jp/keidai/teien/teien03.html
(クリックして下さい)
これは、毛越寺の庭です。そして、ここでも、水の上に杯を浮かべて詩を読む遊びが行なはれて居たと伝えられて居ます。毛越寺のこの水溝は遣水(やりみず)と呼ばれる物ですが、慶州(新羅)の鮑石亭(ほうせきてい/ポソクチョン)と、毛越寺のこの遣水(やりみず)が、支那に起源を持つとされる同一の遊びの跡である事は、余りにも明らかでしょう。時代的には、新羅の方が先ですが、いずれにせよ、平泉の文化は、この様に、慶州の文化と確かに共通する要素を持って居るのです。
そう言へば、源氏は、初期の時代、何故か、新羅と言ふ名を名乗って居ました。新羅が滅亡した後、朝鮮半島を逃れて日本列島にやって来た新羅の人間は居ただろうし、そんな新羅からの亡命者が平泉にやって来たとしても不思議ではありません。
(その新羅は、北方紀元と推定される高句麗や百済と違って、九州から朝鮮半島に進出した日本列島由来の民族の末裔が建てた国家だったとする見方も有る様ですが、その辺の事は、私には分かりません。)
いずれにしても、平泉の文化に、新羅の文化と共通する要素が有る事は、間違い無い事だと、私は思ひます。
この事に気が付いて、私は、何だかとても嬉しく成りました。
平泉が世界遺産に登録された機会に、藤原三代の時代のみちのくが、大陸とどの様な交流を持って居たかを想像するのも楽しい事ではないでしょうか?
平成23年6月27日(月)
西岡昌紀(内科医)
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世界遺産登録・平泉の歴史 未完のまま潰えた聖地創造の営み
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1650966&media_id=125
(NEWSポストセブン - 06月27日 07:10)
平泉・中尊寺本堂に続く表参道周辺
西暦850年、この地を訪れた慈覚大師円仁が中尊寺と毛越寺を開山してから1161年を経た今、平泉の地が世界遺産に登録された。
中尊寺開山から約250年後の平安時代後期、現在の岩手県奥州市に本拠地を持った藤原清衡を中心とした奥州藤原氏が拠点を平泉に移し、中尊寺の諸堂造営に着手、多宝寺、大長寿院など次々に大伽藍を完成させ一大仏教都市を築き上げた。
平泉は当時は、関東の最北端だった白河関から北に約250km、朝廷のあった京都からはるかに離れた「東山道の奥」の地であったものの、東北における地理、政治、精神の中心で、また仏教の中心でもあった。
中尊寺をはじめとして、周辺には浄土式庭園を誇る毛越寺など、都に劣らない寺院が創建され、多くの僧侶たちがこの地に集った。しかも仏像や伽藍には金が施され「皆金色」と人々は評し、その世界はこの世の浄土そのものの風景であった。聖地創造の営みは、藤原氏の滅亡と共に未完のまま100年で潰えてしまった。
長い歳月により風化はしても、大地と地元に暮らす人々はもちろんのこと、世界遺産登録を機に訪れる観光客に、平泉の地は、浄土の風と慈悲の心を与え続けている。
写真は、中尊寺本堂に続く表参道の両脇。樹齢300〜400年の杉並木がそびえ立ち、中尊寺の歴史を今に伝える堂舎が立ち並ぶ。一方では北上川の流れを眼下に見下ろすことができ、山の木々と水辺の清らかさを併せ持つ。
撮影■太田真三
※週刊ポスト2011年7月8日号
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