http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/702.html
Tweet |
ウオッチング・メディア
被災地の美談記事の作り方、教えます
致命的に多様性が欠けている日本のメディア
2011.04.01(Fri) 烏賀陽 弘道
東日本大震災の発生以来、朝日、読売、毎日新聞を朝・夕と読み、インターネットで日本語と英語のサイト(報道機関だけでなく政府、NPOサイトも)を回り、テレビをつけてニュースを見る、という生活を送ってきた。
前回(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/5668)、「国難級のクライシスが3つ束になって襲いかかってきた、戦争と同等のこの非常事態に、日本の新聞・テレビなど既存報道は機能していないのも同然、それどころか有害にすらなりつつある」という話を書いた。それから2週間、私のその印象は日を追って強まり、確信に近づいている。
その問題点は、これから順を追って一つひとつ検証していこうと思う。今の時点で私が言えるのはこういうことだ。今、日本の既存型報道が見せている病弊の数々は、「生活習慣病」のように長期的なものだ。「3.11クライシス」のショックで急に「発作」に見舞われたわけではない。以前からずっと続いてきた構造的弱点が、そのままシビアな条件下で露呈しただけのことだ。
それは私が25年前に新聞社に入って記者になった当時からずっと指摘されていた問題であり、それがほとんど改善されないまま最悪のクライシスを迎えてしまった。それが私には分かる。
今日、指摘しておくのは、新聞・テレビ・通信社(あるいはそれがニュースを配信するネット報道も含める)が「多様性」を欠いていることだ。
これは別に難しい話ではない。日経新聞を除く全国紙4紙と共同通信(地方紙に代わって全国ニュース記事を取材し配信する)。NHKと民放キー局5つの合計6局。その報道のパターンはほぼ同じだ。すなわち多様性がない。
簡単な言葉で言うと「どの新聞を見ても同じような記事」「どの局も似たような番組」なのだ。
実際に、新聞の題字やチャンネルを隠してしまうと「これは朝日なのか、読売なのか」「これはフジなのか、日本テレビなのか」見分けがつかない(NHKと民放はかろうじて見分けがつくが、実際は装丁の違いにすぎない)。
どんな記事も基本は「本記」「解説」「雑感」
私のような記事を作る側の「インサイダー」だった人間には、そのパターンがだいたい分かる。
まず、大きな分類項目を挙げる。
(A) 本記(=テレビではアナウンサー、キャスターによる原稿の読み上げ)
(B) 現場
(C) 解説(=専門家の話 。「教授」「学者」「研究者」「シンクタンク」「アナリスト」など「専門家」の肩書きを持つ人々。社内の編集/解説/論説委員を含む)
(D) 記者会見
(E) データ情報(今回の震災では被災者氏名、亡くなった人の氏名、避難所、医療機関など)
(F) その他
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/5774
こうした「大項目」、実は簡単なのだ。私が新聞記者になりたての頃、ベテランの先輩から教わった「イロハのイ」がこうだったからだ。
「烏賀陽くん、どんな大事件が来ても恐れることはないからね。『本記』『解説』『雑感』。これだけでいいんだ。飛行機が落ちようが、内閣が倒れようが、本記、解説、雑感を取材して書けばいいんだ」
その後、オウム真理教事件や阪神・淡路大震災などいろいろな大事件に遭遇したが、新聞も週刊誌も「ニュース報道」である限りは、見事なくらいこの原則は守られてきた。
そして3.11クライシス報道を見ていても、大きな例外はない。大きな事件が起きると、記者を指揮する社内編集者(次長=デスク、部長など)は、こうした3本柱に沿って記者のチームを編成する。だから、紙面の編成もこの3本柱に沿って構成される。
まとめておこう。
「本記」=5W1Hを中心とした「何があったのか」というニュースのコア部分。(A)(D)(E)に該当する。首相官邸、東京電力などの会見や記者クラブ取材が中心。あちこちのクラブ(国土交通省、JR、経済産業省、文部科学省、環境省、警察庁、都道府県警察本部、消防庁など)からバラバラに出稿されてくる原稿を内勤記者が交通整理し、電話やメールで補足取材してまとめる。
「雑感」=ニュース現場の描写。「近所の人の声」など。(B)に該当。現場に行った記者が取材して出稿する。3.11クライシスのような大事件の場合はヘリからの取材もある。
「解説」=(C)に該当。専門家に取材した記者が出稿。
つまり、当然とはいえ、紙面構成は人(記者)の動きに対応しているのである。
個性が出るはずの「現場もの」もやはり似ている
このうち「本記」は記者クラブ、記者会見が発信源なので、一番多様性が乏しい。同じ発言者が言った同じ言葉を、どう書くか、どう補足するか、だけの違いである。(C)も「専門家」の顔ぶれは限られているので、報道を繰り返すうちに多様性はやがて尽きる。
となると、腕の見せ所は(B)の「現場」ということになる。記者の個性の発揮の場所は「現場でどんな独自の発見をするか」だ。
今回のようなまったく前例のないカオスの中では、倣うべき前例がないのだから、記者の個性が存分に発揮されてもいいはずだ。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/5774?page=2
が、番組や紙面を見ていると、全然そうでもない。がっかりするほど各紙、各局よく似ている。「現場もの」をさらに細かく分類してみよう。
(1)家族、家、大切な品などを喪失する痛み
(2)生存者の美談。希少な可能性の実現(生存、再会など)
(3)非日常生活の苦労、窮乏、欠如
(4)破壊の惨状。被害の大きさ。自然の破壊力の大きさ
(5)救援者や救出者など「解決者」の活躍
(6)行政、公的サービスの努力
(7)逆境に耐えて生き残ったもの
「陸前高田市の高田松原で津波に耐えて1本だけ残った松の木」(朝日、3月27日朝刊)など、植物も含まれる。「被爆桜」と同じ発想であり、後々復興のシンボルになる。「99年岩手4強(高校野球)『ミラクル大槌』泥の中から集合写真」(毎日、3月29日夕刊)のように、写真が見つかったという記事もよく出る。
(8) 応援、支援。応援する歌を披露した。高校野球で東北のチームを応援した、など
(9) 復興、再生、回復
(10) そのほか
主人公に選ばれるのは誰か
こうした報道で「主人公」に選ばれるのは、「(若い)女」「子ども」「動物」「救出者」が多い。
「水の中 抱きしめた命 母娘、水没の部屋から生還 もがく2人に『ごめんね』」(朝日、3月29日朝刊)はその典型的な例。28歳の母親と4歳、3歳の娘の生還話が掲載されている。津波から奇跡の生還を遂げた人は多数いるはずなのだが、中年以上の女性や男性はほとんど取り上げられない。若い女性、子ども、少年少女が多い。
そういう意味で、同じ朝日朝刊の紙面は典型的な「子ども主役の紙面作り」である。「子ども同士遊んで笑って ユニセフ避難所に玩具贈る 国際NGO『ひろば』開設 スタッフと折り紙」「ランドセル届いたよ ありがとう」「あの夜励まし合った歌」(宮城県南三陸町の中学校卒業式)と、社会面の半分が「女」「子ども」記事で埋まっている。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/5774?page=3
毎日新聞の3月29日夕刊は、「被災地の朝 いつもの散歩 異なる風景」で運休中のJRの線路での犬の散歩風景。これは「犬=動物」が紙面で好まれる例。
新聞・テレビはもともと警察記者クラブを取材の拠点にして警察や消防との接触が多いので「救援者」を主人公にした記事は尽きることがない。
3月28日の読売朝刊は「第22普通科連隊 郷土部隊の自負」と自衛隊員の記事で32面をつぶした。3月29日の夕刊では、「止まった電車に迫る津波 新任巡査、乗客40人誘導」「『がんばっぺ』『まげねど』ヘルメットの声援」(救援活動の自衛官がヘルメットに方言のステッカーを貼り好評)と「救援者」記事が並んでいる(読売新聞はこうした警官、自衛官、消防士を主人公にした勇猛譚、救出譚が多い)。
型にはまっている「美談」の作り方
お気づきと思うが、こうしたパターンは、ふだんの「美談記事」の取材基準がそのまま3.11クライシス報道に持ち込まれただけの話である。その物語構造を噛み砕くと「大災害という困難な状況(逆境)の中で『X』というポジティブな価値を体現した」ことが記事になる。
思いつくままにXに代入される価値観を列挙してみる。
・家族愛=兄弟姉妹、親子、夫婦、祖父母、孫、祖先・子孫
・勇気または勇猛=警察官、自衛官、消防士、医師、看護師、物資運搬者など
・友情=学校、級友、スポーツのチーム仲間など
・団結または結束=職場、ご近所、宗教などのコミュニティー、地縁
・誠実または正直
・復帰
・忍耐
・努力=スポーツ、学業、仕事など「日常」の堅持。高校野球に出場した選手に震災復興の覚悟を語らせる手法など
こうして一つずつ記事の物語構造を抽象化して分類していくと、新聞やテレビの記事番組が、驚くほど少数のパターンに収まってしまうことに驚かないだろうか。実は、新聞やテレビの人間理解など、この程度の深みしかないのだ。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/5774?page=4
抜け落ちたまま顧みられないXもある。例えば「恋愛」。恋人を震災や津波で亡くした、愛する人と避難で別れ別れになって会えない、といった悲劇は被災地の人々の現実として非常に重要なはずなのに、そういった記事にはなぜかお目にかからない。
家屋が破壊され、プライバシーを失った状況の中で、どうやって恋人と支え合うのだろう、などと私は心配なのだが、同じ「美談」でもこちらは新聞やテレビはまったく取り合わない。まったく不思議だ。
そうした「新聞・テレビ的現実」から抜け落ちてしまった現実は実にたくさんある。阪神大震災当時から、それはずっと言われている。16年を経て、3.11クライシスでそっくりの「盲点」が繰り返されている。そうした「新聞・テレビがないことにしてしまった現実」については、また別の機会に譲ろう。
驚くほかない。新聞と通信社を合わせて5社、6テレビ局がこの同じパターンの報道を重複して送り出しているのだ。恐ろしいことに、基本的に10媒体が、屋上屋を重ねる、ダブリの作業をするために入り乱れている。さらに同社内の複数の取材班が加わると、もっとすごい数になる。ある民放は1局だけで40クルーが現地取材に入っているから、10媒体だと単純計算で400チームの取材班が現場で取材しているのだ。
「媒体数や番組数はやたらと多いのに、みんな似たようなことをやっているため、多様性はない」という奇怪かつ貧相な事態が、私たちの眼前で展開されているのだ。
ニューヨーク・タイムズのサイトで原子炉の構造を知った
こうした「報道の多様性の欠如」の何が問題なのか。
多様性の乏しい情報環境下では、読者は複数の情報を突き合わせて判断するという作業ができない。
福島第一原発の暴走が始まってから、私を含め読者が感じている最も強烈なフラストレーションのひとつは、原子力発電所の構造がまったく分からない、ということではないだろうか。
例えば、あの水素爆発の絶句するような映像を見て、私が瞬間的に思ったのは「炉心が爆発したのか?」「炉心から放射能が放出されたのか?」「炉心はむき出しになっていないのか?」という素朴な疑問だった。チェルノブイリ原発事故の話を読んで、そのときは炉心が大気にむき出しになって放射性物質がばらまかれたことくらいは知っている。
しかし、政府は落ち着いて「心配することはない」と平然と言う。映像の衝撃とのギャップがまず疑心暗鬼のもとになる。何か隠しているのではないか? 安心させたいだけなのか? そんな不安に火をつける。原子炉の構造が分からないから、爆発の重大さが評価できないのだ。
原発素人である私は、そもそも「原子炉には3重の防御がある=炉心→圧力容器→格納容器→建屋」という事実を知らなかった。必死で世界のサイトをめぐり、フェイスブックで情報提供を呼びかけて、ニューヨーク・タイムズ ウェブ版のインタラクティブイラストにたどり着いて、やっと分かったのである。
論より証拠。まずはご覧いただきたい(http://www.nytimes.com/interactive/2011/03/12/world/asia/the-explosion-at-the-japanese-reactor.html?ref=asia)。事故から3日と経たずに、これがウェブに掲載された。同時期にNHKでは、記者がスケッチブックにサインペンで手描きした稚拙なイラストで原子炉の構造を解説していた。新聞の図表には、使用済み燃料棒プールの描写すらなかった。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/5774?page=5
両方を比べると、これはもう竹槍と重爆撃機の世界である。東京から250キロメートルの原発の仕組みをニューヨーク発のウェブサイトの方が分かりやすく解説しているのだ。一体これは何のジョークなのだろう。
どこか新聞の1ページ、ウェブサイトの一角、テレビ1局、いやたった1つの編集部でいいから「原子炉の構造を徹底的に取材し、解説しましょう」という所があってもよかったはずだ。
不安に怯える全国の原発近隣住民のために、「全国の原発を総まくりしましょう」「活断層はこう走っています」とドキュメンタリーをやってくれてもよかったのだ。それがどこにもなかった。
この多様性欠如(=凡庸性)は病的とも言えるレベルである。
久しぶりに感動的な記事に出合ったと思ったら
記録のために、新聞(朝日、毎日、読売)やテレビに頻出する「多様性欠如の発想」を列挙しておこう。
(その1)観光客の視点
「被災にもめげず業務を再開した」という「復興譚」は日本の新聞・テレビが大好きな被災報道パターンである。それだけでも十分に陳腐だが、その主語の選び方がバカバカしいほど「訪問者の視点」(つまり地元に根を下ろした住民の視点ではなく)に偏っている。
例えば読売の3月25日朝刊は「『あの味』避難所へ 被災かまぼこ工場再開 父の遺志継ぐ 『地域に恩返し』」と宮城県女川のかまぼこ工場の操業再開を記事にしている。さらにみっともないのは同日の朝日の夕刊で、この読売と同じかまぼこ工場に「水戸納豆」記事を追加して報じている。
京都市で育った私は、こういう全国紙の記事にはうんざりするほど見覚えがある。「神社仏閣」「銘菓」「豆腐」「祇園祭」など地元住民の生活には関係のない「観光名物」ばかり珍しがって記事にしては2〜3年で転勤していく「観光客記者」(勝手に命名していた)たちの記事だ。それにそっくりなのだ。
言うまでもなく宮城の「かまぼこ」や茨城の「水戸納豆」は首都圏でも知られた「名産品」だ。はっきり言ってしまえば「お土産物」「名物」である。しかし、そんな駅の売店で売っているような産品が操業を再開したからといって、被災している地元住民にはたいした話ではない。
むしろ地元民にすれば、ユニクロやチェーン店のモールやスーパー、ドラッグストアが再開するかどうかが、よほど死活的な問題だ。そこであえて「お土産物」「名産品」を取り上げてニュースにする記者の視点は歪んでいる。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/5774?page=6
「東京から取材に来た記者」あるいは「東北以外から支局に転勤して数年の記者」が名産品を珍しがる「エキゾチシズム」(異国趣味=観光客の視点)である(もしかしたら、東京の本社幹部に『ほほお』と読ませたいのかもしれない。そういう動機で記事を書く人は存在した)。
(その2)ネタのパクリ
読売の3月25日朝刊32面を全部つぶした記事「石巻日日新聞 6日間の壁新聞」を読んだ時、いい記事だなあ、と最初思った。「輪転機が動かなくなり、それでもマジックの手書きで新聞を発行し続ける地元紙。久しぶりに新聞記事を読んで感動した。ネタ発見の勝利」。朝刊を読んですぐ、私はツイッターに書いた。
ところがこれがとんだ食わせ物。「これはテレビ朝日『スーパーモーニング』で18日に放送していましたよ」と、すぐにツイートが寄せられたのだ。しかも22日には朝日新聞社会部がツイッターで配信(http://twitter.com/#!/Asahi_Shakai/status/50001393737666561)。なんと3月22日付でアメリカのワシントン・ポスト紙まで記事(http://www.washingtonpost.com/world/in-ishinomaki-news-comes-old-fashioned-way-via-paper/2011/03/21/ABPp8X9_story.html)にしていた。
まったく笑うしかない。テレビ朝日→朝日新聞→アメリカの新聞→読売新聞と、同じネタがぐるぐる回っていて、一体誰が最初に書いたのかもよく分からなくなってくる。
長期間、しかも通常紙面を外してページ数を増やしている。こうした「特別態勢」が続くと、ネタが慢性的に不足してくる。他社に先に載っていても、パクってでも載せないとページが埋まらないという動機は想像できる。大変ですねえ。でも低劣な紙面だ。
こうやって、テレビも新聞も似たネタをパクり合うので、ますます多様性が失われる。
これではまるで「1つの媒体」しかないのと同じ
こういうクライシスの時には、全員が同じ方向に走り出してはいけないのだ。「オレは違う方向に走る」「私は踏みとどまる」という多様性がなければ、報道の多様性は窒息してしまう。日本の報道には、これが致命的に欠けている。
そんなに難しい作業ではない。「他社がPでいくなら、うちはQの方針でいく」「ほかの編集部がYなら、うちの取材はZでいく」という「流れに逆らう勇気」と「他人の真似をしない発想」さえあればよいのだ。
かくして結局、日本の読者・視聴者は「1つの新聞」「1つのテレビ」、あるいは究極的には「1つの媒体」しかないのと同じ情報環境に置かれている。これは「情報欠乏症」だ。
類似の凡庸な情報が、量だけは多量に押し寄せてくる。この単調な情報の反復には、普通の人ならすぐに嫌気がさす。飽きる。そうして「被災や原発事故は重要だ」と頭では分かっていても、報道をフォローするのが苦痛になり、ついには力つきて関心を失う。そんな負の連鎖はすでに始まっている
この「情報の多様性の欠乏」こそが、社会不安の原因そのものであり、疑心暗鬼の原因なのではないか。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/5774?page=7
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
▲このページのTOPへ ★阿修羅♪ > マスコミ・電通批評11掲示板
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。