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頼れるどころか、もはや「有害」な日本の震災報道 by 烏賀陽 弘道 03.18(Fri)http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/5668
3月17日午前0時40分。今、この原稿を東京の自宅で書いている。3月11日金曜日午後2時46分(東日本大震災発生)以来、この国がもう後戻りのできない別の時代に入ってしまったことを刻一刻感じている。
マグニチュード9.0の巨大地震。大津波。原子力発電所事故。どれ1つとっても「国難」級のクライシスが3つ、束になってやって来たのだ。これ以上深刻な危機は「戦争」か「大規模テロ」ぐらいしか思い浮かばない。
今後の日本の歴史は「3.11以前」と「3.11以降」に分類されるだろう。そういう意味で「2011年」は、「1868年」(明治維新)「1945年」(敗戦)に続く日本の現代史の分岐点になるだろう。
私は新幹線に乗って関西に逃げるべきなのか?
日本のマスメディアや報道を観察している私にとっては、これは歴史的な好機である。新聞、テレビ、インターネットなどマスメディアを「最も過酷な条件にさらした場合の実績データ」がそのまま記録できるからだ(アメリカのマスメディア取材報告を続ける予定だったのだが、次回はいつ再開できるのか分からなくなってきた。しばらくお待ちください)。
言い換えれば「マグニチュード9.0の巨大地震」「大津波」「原子力発電所事故」という大きなクライシスが3つ重なった状況で進行している現在の紙面や番組こそが、日本の報道機関の「自己ベスト」=「渾身に振り絞った実力」だからだ。これ以上のクオリティは、望んでも、もう存在しない。
そういう意味で「3.11報道」は「日本の報道の自己ベスト記録」として、将来当分の間、比較検証のサンプルに使われ続けるだろう。次に戦争が起きても、日本の報道はこのくらいのレベルだと思ってもらって構わない。
結論を先に言えば、残念ながら、その「自己ベスト記録」に私は毎日落胆し続け、5日目にそれは「絶望」に近い気持ちに変わっている。
これだけ毎日、新聞を綿密に読み、ニュース(テレビ、インターネット両方)にかじりついているのは、1995年(1月に阪神・淡路大震災。3月からオウム真理教事件)以来16年ぶりだ。その間、日本の報道は「成長がない」どころか「劣化」が隠しようもない。
私はそれを、元新聞社の社員記者、あるいはフリー記者という「同業者」「観察者」という立場だけで見ているのではない。私は東京都心に家族と住む市民の1人である。地震の翌日から危険な暴走を続けている「福島第一原発」の放射線の影響が一体どの程度危険で、どの程度広範囲に広がるのか、自分と家族、友人の生死の問題として、切実に情報に飢えているのだ。
今、東京を脱出して関西の実家に移るべく新幹線に乗るべきか乗らないべきか、そういう「現実の生命の決断」を日々迫られているのである。
そのため、私は寝る間が怖い。なのでよく眠れない。起きてすぐにテレビをつけ、インターネットニュースを回り、新聞を隅から隅まで(社員時代より必死で)読んでいる。被害当事者なのだから必死なのだ。
ニューヨーク・タイムズ紙、ワシントン・ポスト紙、ウォールストリート・ジャーナル紙、イギリスやフランスの新聞、NPOのリポートのウェブ版はもちろん、CNNやBBCの動画サイトをインターネットでぐるぐる歩き回り、果てはKPBSやNPRなどの英語のニュースラジオをネットで聞いている。
こうした「生死がかかったクライシス」の中で、日本の新聞やテレビは悲しいほど役に立たない。水泳中、人食いザメが襲来してきたのに、手元には金魚すくいしかないような絶望感だ。この仕事を誇りとする人間の一人として、私は本当に悲しい。この本当のクライシス時に、市民が生死をかけた判断をするのに役立つ情報を供給できない「報道」など、一体何の存在価値があるのだろう。
新聞報道では、まるで「チェルノブイリ並み」
率直に言おう。私は日本の新聞やテレビ、ネット報道をいくら見ても、東京から退避した方がいいのかどうか、分からない。「検出放射線量は○△シーベルトでした」とか「半径10キロで待避指示が出ました」とか、いつもの調子で発表数字をそのまま電話帳のように書き写して記事にしてもらっても、困るのだ。
一例。朝日新聞3月13日日曜日朝刊は、同原発の爆発の第一報で「広域避難はチェルノブイリを思い起こさせる。しかし、この事故と直接比較できない」(1面。竹内敬二編集委員)と遠回しな表現だが「チェブノブイリのような核物質が放出されてまき散らされるような事態にはならない」と言っている。「最悪の事態回避へ懸命」という応援団的な見出しからも「安心してね」というメッセージを送っている。
ところが、2日後の同15日火曜日夕刊1面で、同じ竹内編集委員が突然豹変する。「最悪の事態に備えを」という見出しで「極めて深刻な放射能放出が始まった」と切り出し、「すでに福島第一原発の敷地周辺では非常に高い放射線量が検出されている。今後、1986年の旧ソ連チェルノブイリ原発事故と比較して語られることになる」と、それまでの論調を一変させ、「これはチェルノブイリ並みの事故だ」と言い出し始めたのだ。
その夕刊はご丁寧にも、1面の反対面である12面を全部つぶして「放射線から身を守るには」という大見出しで「窓閉め換気扇停止」「服をポリ袋へ」「ぬれマスクを」「風は南東から北西へ 東京、今夜一時雨か」と、これはもう「放射能が降り注ぐ」ことを前提にした「防災広報」である。
「40万人が疎開 被曝死推計4000人」と「チェルノブイリ事故」の記事が「放射能汚染マップ」つきでデカデカと並んでいる。この新聞を読むと「福島第一原発事故はチェルノブイリ並みの放射能汚染がまき散らされる」と理解しない方が不思議だ。
この「夕刊4版」が、首都圏に配布されるバージョンであることを、私は新聞社勤務の経験で知っている。つまり、朝日の紙面を作った人間は、福島県や茨城県の読者だけでなく、東京の人間も「放射能から身を守るには」という情報を知るべきだ、と考えて印刷、配布しているのだ。
首都圏の人間が「放射線から身を守るには」という紙面を読まされた時、どう思うだろう。当然「福島第一原発の放射能物質は、東京にも降り注ぐのだな」と理解するに決まっているではないか。
私は仰天し、焦った。周囲に電話(それもつながりにくい!)やメールで聞いても、15日の夕刊配達以降、誰もが「もうヤバい」「最悪の事態だそうだ」「会社が休みになったら東京を出る」と浮き足立っているのが分かった。私は京都の母親に「そっちに行ってもいいか」と言うべきかどうか、携帯電話の登録番号を何度も呼び出してはやめた。
フェイスブックで入手したアメリカ海軍からの情報
しかし、何かが矛盾している、何かヘンだという感覚がどこかに引っかかった。というのは、原発の地元・福島県に出した政府の避難指示が「原発から半径20キロメートル以内」(後に30キロメートル以内に拡大)だったからだ。
原発から東京都心までは200〜250キロメートルである。もし、朝日が言うように東京に放射能物質が降り注ぐなら(「東京は雨」とまで、ご丁寧に天気予報まで掲載してくれているのだ!)、政府はもっと避難指示の範囲を拡大するはずではないのか? 政府は事故の被害を少なめにしか公表していないのではないか? それとも朝日が重大なミスリードを犯したのか?
ここで読者は混乱する。どこまで信用できて、どこからは信用できないのか、さっぱり分からない。これがまさに、疑心暗鬼の始まりなのだ。
この猜疑は、他の報道も含め「東京電力の不手際」「政府の危機管理の甘さ」といった批判によって増幅される。つまり、「政府・東電は何か深刻なことを隠しているのではないか」という疑いが膨らみに膨らむのだ。
さらに「米軍空母ロナルド・レーガンが基準以上の放射線を検知し移動した」などと「状況は悪化している」と示唆する報道だけはどんどん届いてくる。
結局、私は日本の報道を信頼することをあきらめた。どれも似ているので、多様性がないから判断材料がないのだ(この問題はまた次回以降検証する)。
そして、思い詰めたあげく、アメリカ海軍に勤務する友人がフェイスブックで連絡が取れることを思い出し、「ロナルド・レーガンに何が起きたのか、情報がないか」と聞いてみた。
すると、そのスレッドに、別のフレンドが「心配しないでください。状況は大丈夫です。アメリカの報道はどれも誇張しすぎです。ウォールストリート・ジャーナルのこの記事は信用できます」とリンクを教えてくれた。
この人はフレンドのフレンド、面識はない。かつてフレンドリクエストが来て、よく確かめずに承認したスノーボーダーの兄ちゃんである。だが、よくプロフィールを見たら「アメリカ海軍情報部」とあるではないか!
続いて同じスレッドに海軍勤務のアメリカ人が続々と投稿し始め、そこからアメリカはじめ、英語のリンクを回った結果「今のところ東京は心配しなくていい」という感触ができてきた。
各国政府の見解から危機の程度を判断すると
16日になって、東京にいるアメリカ人の音楽仲間がフェイスブックに投稿したポストに「東京のイギリス大使館が発表した首都圏への放射線の影響」という英語のリンクを偶然見つけた。
結論は、「チェルノブイリ級の事故になることはまずない。なっても汚染物質が降るのは半径30キロメートル程度」とあるではないか。あまつさえ「首都圏のブリティッシュスクールは休校すべきか」という問いに「地震や津波を別として、被曝の心配なら、その必要はない」とまで言い切っている。「今回の事故をチェルノブイリに例えるのは、完全に間違っている、と強調した」(イギリス政府主席科学顧問のジョン・ベディントン氏)。
http://ukinjapan.fco.gov.uk/en/news/?view=News&id=566799182
ここから、芋づる式に東京の被曝の恐れについて、アメリカ政府の見解、オーストラリア政府の見解がネットで見つかった。
見解はどれもほぼ同じ。「チェルノブイリみたいな事故にはならない。なっても首都圏は安全だろう」という話だ。しかも、よく見ると「チェルノブイリ事故でも、人間が住めなくなるような危険レベルに達したのは半径30キロ以内」とあるではないか。朝日の記事は一体何だったのだろう。
私はこの情報を日本語でツイッターに書いておいた。すると、みなさんよほどこの種の正確な情報に飢えていたのだろう、たちまち200以上リツイートされて「ありがとう」メッセージが洪水のように押し寄せた。「英語原文」を投稿したら、これまたボランティアで翻訳してくれる人が次々に現れ、あっという間に日本語版が流れ始めた。
こうして、フェイスブック〜ツイッター〜英語ニュースサイトと渡り歩くうちに「まだ東京脱出の必要はなさそうだ」という感触だけは掴めた。やれやれである。
危険の程度を正確に評価せず、取材もしない日本メディア
しかし、大迷惑なのは「チェルノブイリに備えよ」みたいな朝日の報道だ(他の新聞やテレビも不正確という意味では大同小異)。こうなると「読まないでもいい」などという苦笑ものの失敗談ではない。「読むだけパニックが起きるので有害」ではないか。
要は、竹内編集委員はじめ、朝日にいる社員記者の人材のレベルでは、今回の事故が首都圏ではどの程度の危険を想定すべきなのか、正確に評価することができないのだ(朝日新聞の編集委員だと言われても、この人物の記事がどの程度信頼できるのか、まったく読者には分からないという事実が、また分かりにくさに拍車をかける)。
私をはじめ市民は「最悪の事態に備えよ」と書かれた時点で「チェルノブイリ」を思い浮かべる(「あるいはそれよりもっと悪いのかもしれない」という「最悪の到達点」さえ見えないのでもっと不安だ)。
もし、チェルノブイリを指標にしたいのなら(イギリス政府はそれも「完全に間違い」と完全否定している)「チェルノブイリと同じだ、同じだ」と叫び回るだけではなく「チェルノブイリとは何が違うのか」を取材して併記すればよいのだ。それを同じ紙面に載せて「ここは同じ」「ここは違う」と書いて読者に判断してもらえばいいではないか。
ちなみに、東京のイギリス大使館は皇居のそば、半蔵門にある。どの新聞社も、取材に行くのにクルマで30分かからない。ご覧のとおり、私でも自宅でデスクに座ってネットをたどるだけで、3つの政府の公式見解を取材できた。「チェルノブイリとはここが違う」という対論を取材するのは、ばかばかしいほど簡単なのだ。つまり、これは「発想」と「意志」の問題なのだ。
たとえみっともない誤解でも、朝日が「福島第一=チェルノブイリ」と信じるのは勝手と百歩譲っても「両論併記」は報道の鉄則ではないのか。
ここに、日本の記者クラブ系メディアが抱える宿痾の腐臭がまた漂ってくる。彼らはあまりに「日本政府発の情報偏重」であり「国内情報偏重」である。外国の「政府公式情報」ですら「チェルノブイリはありえない」と断定しているのに、視界から落ちてしまう。
日本政府や東電の発表を押しのけて、外国政府の見解が1面トップでもいいではないか。自分で判断できず、公式情報に頼る手法でも、それくらいはできる。なぜそれほど日本政府情報を世界の公式情報の中でも偏重するのか。
この生死がかかったクライシスに、何という劣悪な報道だろう。平時なら「ミスリードでしたね」とへらへら笑って許しているかもしれないが、これは戦争並みのクライシスなのだ。生死がかかっているのだ。この愚劣な報道は有害ですらある。
もう一度言う。クライシスに市民のために役立たない報道など、何の存在価値があるのだ。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/5668
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