★阿修羅♪ > マスコミ・電通批評11 > 249.html
 ★阿修羅♪  
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ
ウォルフレンのマス・メディア論           立 石 芳 夫 
http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/249.html
投稿者 愚民党 日時 2010 年 11 月 26 日 09:40:16: ogcGl0q1DMbpk
 

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/95-3/fukui.htm

ウォルフレンのマス・メディア論

立 石 芳 夫


 ウォルフレンの著書『日本/権力構造の謎』は、その名の通り第一義的には、日本の政治社会における権力構造および権力行使のあり方に焦点をあてたものである。その分析視角の特徴は、日本の権力主体には官僚組織も含めて、国家を国家たらしめている、権力を行使する明確なセクターが、より端的には、通常の西欧諸国にあるような「国家」が欠如しており、日本の政治権力構造を国家に似て非なる〈システム〉という言葉で形容していることにある。ウォルフレンによれば、〈システム〉とは、「政治的な営為に携わる人びとの間のその相互作用がおおよそ予想できる一連の関係の存在」、「個人が、暴力にでも訴えないかぎり手も足も出せない、逃れようのない支配構造」、「個々人のいかなる力よりはるかに強い力をもつ社会・政治的な仕組み」、「"国家"でもなく、"社会"でもない、それにもかかわらず、日本人の生き方を、また、だれがだれに服従するかを決定する機構」である。要するに、この〈システム〉なるものが日本人および日本全体を支配しているというのがウォルフレンのモチーフであるが、それは、「とらえどころのない国家」、"権力者のいない国家"、"責任者のいない国家"であって、国家に代表される実体的な権力による支配というよりも、むしろ社会的・政治的な雰囲気や土壌から醸し出される、きわめて関係的な権力による支配の総体として理解されている。

 ところで、本稿の主要テーマは、ウォルフレンの一連の所説のなかから、日本のマス・メディア(主要には「大新聞」)に関する議論に着目し、それが、従来の日本の研究者の諸見解と比していかなる理論的スタンスにあるかを考察することにある。具体的には、日本においてはマス・メディアは、どのような政治的位置にあり、複雑に交錯する権力諸関係のなかでいかなる機能を果たしているのか、を検討することがここでの課題である その際、いま触れたウォルフレンが理解する権力構造の基本枠組みとの関係で、マス・メディアの立脚点を再確認してみることからはじめなければならない。

 一、〈システム〉におけるマス・メディア

 ウォルフレンによれば、〈システム〉=権力構造は、次のような全体図に示される諸集団から構成されているという。〈システム〉のなかで「今日もっとも力のあるグループは、一部の省庁の高官、政治派閥、それに官僚と結びついた財界人の一群である。それに準ずるグループもたくさんあり、たとえば、農協、警察、マスコミ、暴力団などである(1)」。これによるとマス・メディアは、〈システム〉内の官僚ー政界(政権党)ー財界という三極構造に準ずる地位に位置しつつ、〈システム〉に奉仕しているのだとされる。しかし、マス・メディアは、農協、警察、暴力団などのほかに労働運動や教育界の一部と同様、〈システム〉の抱き込みから逃れられない反面、「日本の管理者(アドミニストレーター)の主要グループを時おり脅すほどの社会組織」であるという(2)。

 以上の指摘から、基本的に〈システム〉に依存しこれに奉仕しながらも、時にはこの〈システム〉に対して部分的に反発するという、マス・メディアの政治的位置が確認できよう。しかし、マス・メディアは「教育制度に比べれば独立性が高く、一見したところ〈システム〉内で仇役の立場を演じているように見える。ところが、日本の新聞がほぼ一貫して見せる"反体制"の姿勢は、いたって表面的なものである」とウォルフレンが述べていることからも明らかなように(3)、あくまでも、マス・メディアの〈システム〉への「反発」よりも、「依存」に重点がおかれている点に注目する必要がある。
 では、マス・メディアは、どういうかたちで〈システム〉に依存し、あるいは、これに対して部分的・表面的に反発しているのだろうか。この点を理解するためには、ウォルフレンの所論にそくして、マス・メディアの政治的機能について検討しなければならない。なぜなら、この問題を論じることによって、マス・メディアの政治的位置がいっそう浮き彫りになると思われるからである。

 二、マス・メディアの機能の特質

 日本のマス・メディアの機能的特質に関するウォルフレンの見解はきわめて明瞭である。それは、メディアが「〈システム〉を"真正面から本格的"に論じること」なく、「〈システム〉の本質的な特徴やそれがどの方向に日本を導いているかについて、読者が検討できるよう、批判的な観方を用意していない」というものである(4)。これは簡単にいえば、いわゆる「事実報道」の欠如である。政治報道の特徴についてウォルフレンは、「日本のマスコミの"政治分析"は、終始くりひろげられる自民党の派閥間の権力闘争に関する論評と推測が中心である」という(5)。マス・メディアは、日本の政治過程の一要素にすぎない派閥闘争を、あたかも日本政治全体において決定的に重要な争点であるかのように、あるいは「サムライの忠誠と裏切りをテーマとする日本の連続テレビ時代劇」のように描き出しているのである。

 こうして一般の人びとは、社会的な事物について正確で重要な事実を知らされることなく、歪められた情報を受容する。これによって、〈システム〉全体もしくはその一部が一定の政治的利益にあずかるという、世論操作(この語はウォルフレン自身その一連の著作のなかでほとんどまったく使用していないが)を媒介とした政治的支配の構造が成立することになる。しかも、「日本の巨大日刊新聞は、互いに他社のやり口をまね、時事問題についても、ほぼ同じ姿勢で報道する。異口同音の切り口のニュースや見解による報道で、国内問題についても国際問題への態度についても、日本のマスコミは一般大衆の心情に大きな影響を与える(6)」。

 以上のウォルフレンの指摘から、日本のメディアの同調性の高さと影響力の大きさを確認することができる。このこと自体は、ウォルフレンをまつまでもなく、すでに多くの研究者が言及してきたことであり、いまさら強調する必要はない。

 しかし、ウォルフレンの指摘のなかで特徴的であると思われるのは、こうしたメディアによって引き起こされる「情報の雪崩現象(7)」が、二通りのパターンをとって生じるという点である。以下、項目ごとに検討していく。

  (1) 〈システム〉の構成員とマス・メディア

 「情報の雪崩現象」の第一のパターンは、政治家や財界などの汚職スキャンダルが明るみに出て、マスコミがこれを一斉報道する場合である。

「日本の大新聞(私の見るところ、真の政治改革を阻害する最大の障害)が用いる非公式の権力と検察庁のそれは、官僚たちにスキャンダルという武器を与えて野心的な政治家を失脚させる(日本の非公式の権力システムの強力さを考えると、いかなる政治家でも周到に準備されたスキャンダルによって攻撃できる(8))。」

 ウォルフレンは、政治スキャンダルの槍玉にあげられたとされる政治家や財界人を多数指摘しているが、ここでの文脈で例にあげているのは、自民党を割って出て新党を旗揚げし、「政治改革の仕掛人」として彼自身注目し期待している、政治家小沢一郎のことである。ここでウォルフレンが念頭においているのは、日本の政治社会の抜本的・全面的改革が求められている現在、著書『日本改造計画』を提示して現状の打開を試みている小沢に対して、マス・メディアは検察などとともに、そのスキャンダル暴きに躍起になって「小沢バッシング」を声高に叫び、日本政治を旧態依然たる姿(通常の国家にみられる「公式の権力」を中軸とした政治の運営ではなく、〈システム〉の特殊な構造に起因する「非公式の権力」による政治)にとどめようとしているという点である。

「〈システム〉の一部構成員は、対抗する構成員に反撃あるいは抑圧をおこなう場合、予想どおりに展開される新聞の攻撃を利用する。事実、新聞は、権力者の一部の集団が強くなりすぎるのを他の集団が防ぎ、力の均衡を保つのに重要な役割を果たしている(9)。」

 ウォルフレンが政治家としての小沢に対して、きわめて高い評価を与えていることは彼の著書の随所から明らであるが、その是非を論じることはここでの課題ではない。また、政治疑獄の疑いを投げ掛けられた政治家を徹底究明することはマス・メディアの使命ではないか、といった疑問に対してもここでは答える必要はない。注目すべきことは、小沢バッシングにみられるように、政治スキャンダル(選挙での失敗・後退などの政治責任問題も含めて)を材料に〈システム〉内の特定の構成員・集団を攻撃することによって、マス・メディアが〈システム〉の維持・存続に重要な政治的役割を果たしているという指摘である。こうしたウォルフレンの主張から、先に記した「日本の管理者(アドミニストレーター)の主要グループを時おり脅すほどの社会組織」としてのマス・メディアが、支配的勢力間の多元的(多元主義ではなく)権力構造のなかに明確に位置づけられていることが、あらためて確認できよう。

  (2) マス・メディアの「社会的制裁」機能

 「情報の雪崩現象」が生じる第二のパターンは、マス・メディアがその時々の社会問題をとりあげる場合にみられる。

「時には、新聞の矯正的な機能が〈システム〉自体のうまく機能していない面に対して向けられることもある。ときおり、ある事柄が連日マスコミによって攻撃され、国中が燃えるということがある。このように、おおいに注目され、強く否定される事柄は、一般に"・・問題"と呼ばれる(10)。」

 マス・メディアが糾弾する社会問題として、ウォルフレンは、学校でのイジメ問題、公害問題、ボロ儲けをもくろむサラ金業者による被害などを例示している。こうした問題は、〈システム〉内部で発生しながらも、〈システム〉自身が解決不可能な場合、マス・メディアがそれにかわって社会的制裁を加えざるをえないものとされる。例えば、政府が水俣病の被害者救済運動に動きだした背景について、ウォルフレンは次のようにいう。

「ほとんどの場合、裁判所はあくまでも脇役としての役割を果たしたにすぎない。マスコミによって増幅された激しい抗議に〈システム〉が反応しただけのことなのだ。これは不正が人目を引き、国民の怒りが社会全体に広がった場合に限り、〈システム〉によって不正が正されるという証拠である(11)。」

 しかし、このように一見して、正義を買って出て様々な社会的不正を是正しているようにみえるメディア報道にも政治的限界がある。「権力保持者たちが公式ルールに忠実に従わない時、新聞はそのことを指摘し批判するのに理想的な立場にあるはずなのだが、〈システム〉が提示するリアリティを乱すまいとおもんばかる同僚ジャーナリストや編集者によって、それも厳しくチェックされてしまう(12)。」こうしてマス・メディアは、「社会秩序の維持と番人」という社会的要請と、事実と本音を隠すことによって〈システム〉を維持するという政治的義務との矛盾に巻き込まれ、その結果、「周期的に怒りのエネルギーを発散すべくみずからのガス抜きのためのをキャンペーン展開することになる」。したがって、マス・メディアがときおり果たしているかにみえる社会的制裁なるものも、メディアの本質的機能としてでなく、付随的機能として理解しなければならないのである。さらにまた、マス・メディアによるボロ儲け批判が客観的には、〈システム〉内のある構成員(サラ金に融資した大手金融業界など)の利益に奉仕する場合もあることに注意する必要がある(13)。

 同様に、社会的不正を糾弾する日本のマス・メディアの政治的役割に着目した樺島郁夫の議論は、ウォルフレンのそれと際立った対照をなしている。樺島によれば、マス・メディアは、そのイデオロギー的中立性と政治的包括性(マス・メディア全体に権力寄りのバイアスはなく、またメディア報道が集団の大小・新旧の違いを越えてこれらを包括していること)に支えられて、多大な影響力(「世論喚起能力」)を発揮し、「伝統的な権力集団である自民党と官僚組織が政治過程の核を構成し、マス・メディアはこれらの権力の核外に位置し、権力から排除される傾向にある集団の選好をすくい上げ、新しい多元主義を政治システムに注入している」とされる(14)。両者の議論の決定的な違いは、マス・メディアと権力集団(ウォルフレンの場合は〈システム〉)との距離関係についての認識にある。したがって、マス・メディアがリクルート事件などの政治腐敗をはじめ、環境問題、消費者運動、市民運動の声を集約して政府に圧力をかけることによって、「社会の不平不満を増幅させる社会的拡声器の役割を果たしている」という樺島の見解は(15)、そもそも日本政治に多元主義を認めないウォルフレンにとっては受けつけられないばかりか、マス・メディアによる「社会的制裁」は、〈システム〉の他の構成員を利する結果におわるか、せいぜい、マス・メディアが自らに要請される事実報道という建前を保持するためのパフォーマンスにすぎないのである。

 ともあれ、以上の考察から、マス・メディアが引き起こす「情報の雪崩現象」は、メディアの〈システム〉への従属に起因する政治的機能としてとらえられなければならない。逆にいえば、メディアは〈システム〉に従属し奉仕する存在であるからこそ、〈システム〉固有の政治的慣行に反抗するアクターの出鼻を挫くために特定の政治家の失墜を狙ったり、社会的正義を実践することさえあるのである。こうしたウォルフレンの考察は、有力なエリートなり権力集団がマス・メディアを利用して大衆を支配するといった、短絡的で道具主義的なメディア観を免れており、そこには、より構造的な政治的配置のもとでマス・メディアの政治的機能をとらえようとする姿勢がうかがえるのではないだろうか。この点は、次に論じる日本の「記者クラブ」の政治的性格をめぐる問題のなかでも明らかになるだろう。

 三、記者クラブの政治的役割

 ウォルフレンのメディア論でもうひとつ言及しなければならないのは、「記者クラブ」の存在である。ウォルフレンは記者クラブを、「ジャーナリストとその取材対象である〈システム〉側の各組織体とが共生するための制度化された機関」と定義し、歴史的には、戦前からの政府当局による情報統制とメディア自身による「自主検閲」という伝統の延長線上にこれを位置づけている(16)。「共生するための制度化された機関」というかぎり当然、メディア・権力集団双方に、各々の利害関係にもとづく何らかのメリットがあるはずである。それは、マス・メディアにとっては「重要なニュースを見逃す心配がない」ことであり、権力集団にとっては「報道媒体の自主規制を円滑化するなによりの方法」だという点に求められる。後者の点について補足すると、「記者クラブを通じて情報を選択して流すのは、あからさまな政府の直接検閲よりはるかに体裁がよいし、ニュースと一般大衆の意識を当局の意向どおり標準化する手段として、より効果がある」という意図をつきとめることができる(17)。それゆえ、記者クラブで取材活動するジャーナリストが、「重要な新事実が判明したり何かふっと洩らされても、特別待遇の資格を失いたくないから決して公表したりしない」のも(18)、このような両者の間の相互依存的関係が前提にあるからであり、そのために、当該記事を掲載すべきかどうか、あるいは掲載するにしてもどのような論調で書くべきか、といったようなことを、記者クラブの全会員が協定を結んで、準備周到な「自主検閲」まで行なっているのである。したがって、マス・メディアが「〈システム〉を"真正面から本格的"に論じることはない」とされる最大の理由は、こうしたメディア自身による自主的・能動的な検閲機能にある、といっても過言ではないのである。私は別の機会で、この記者クラブにおけるメディア−権力関係がいかなる政治的関係を有するのかについて、記者クラブとメディアの「アジェンダ設定」機能との関連から、石川真澄の所見を検討したことがある(19)。石川は、新聞記者が記者クラブに集中的に配置されていることを実証したうえで、メディアの権力機関への高い情報依存を指摘し、「マスメディアからの影響力よりも権力集団からのメディアへの影響力のほうが圧倒的に大きい」と結論づけた(20)。

 しかし、マス・メディアに対する権力集団の圧倒的な影響力という石川の指摘自体については賛成できるにしても、彼の見解とウォルフレンのそれとを対比するうえで重要なことは次のことである。すなわち、記者クラブの政治的性格をめぐって、ウォルフレンのように、権力集団とメディア双方が「共生するための制度化された機関」とみるか、それとも石川のように、権力集団のメディアに対する影響力の行使の場とみるかによって、政治的アクターとしてのマス・メディアの能動性を重視するか、それともその受動性を重視するのかという、政治過程へのマス・メディアのコミットメントに関する二通りの解釈が成り立つということである。この問題は、換言すれば、例えばマス・メディアが何らかの政治キャンペーンを展開する場合、それが権力集団によって「いやいやながらに」強制されたものであるのか、それともマス・メディア自身が多少なりとも目的意識的に行なうものであるのか、という論点とも重なり合ってくるのである。ウォルフレンがどちらかといえば後者の立場にあることは、これまでの文脈から明らかであろう。

 四、マス・メディアと世論をめぐる問題点

 しかし、以上のように、ウォルフレンが記者クラブをめぐる個別の政治家とジャーナリストの癒着関係を軸に、両者が「共生関係」にあるといっても、マス・メディアの政治的機能を解明するためには、なお問題点が残されている。それは、オピニオンを生産する社会的制度としてのマス・メディアへの視点の欠如であり、換言すれば、メディアと世論の関係をめぐるウォルフレンの認識にかかわる問題である。

「日本のマスコミが何らかの問題を論じるなかで世論を引き合いに出すときは、世論を創りだそうとしている場合がほとんどだ。世論を正確に伝えるのではなく、創りあげるのが、日本に近代的なメディアが誕生して以来の伝統である(21)。」

 この引用箇所でウォルフレンは、マス・メディアが世論を創出している点を日本の近代以来の伝統に由来する特殊性であるとし、暗に西欧のメディアは世論を創出していない、と述べているように思われる。しかし、はたして世論形成機能を発揮しないマス・メディアのコミュニケーション活動を想像することができるだろうか。洋の東西を問わず、今日のマス・メディアが政治過程に無視しえない影響力を行使していると仮定すれば、それは第一義的にメディアの世論形成機能にあるはずである。ウォルフレンは明らかに、アメリカのマスコミ論の伝統にありがちなメディア=「中立媒体」論の立場に依拠している。もっといえば、その主張には、マス・メディア=「現実の鏡」であるという、社会一般に多くの人びとが共有している、マスコミに対する一種の規範意識がみられる。このメディア=鏡説に対しては、様々な角度からの批判が可能であるが、単純に考えても、誰が世論を形成しているのか、何が世論なのか、世論はいかにしてマス・メディアによって察知されるのかなど、前提問題に関わる多くの疑問が投げかけられているのである。六〇年代までマス・メディアの政治的効果は取るに足らないという議論が横行したアメリカにおいても、テレビが大統領選挙の当落を決するという「テレポリティックス」的状況がいまや指摘されているもとでは(22)、マス・メディアが、世論を創出していること自体に問題があるという点よりも、何を、いかに、誰に対して、世論を創出しているのかという問題のほうが重要であろう。この点からも、日本のメディアと西欧諸国のメディアとの質的差異について、もっと掘り下げて吟味する必要があるように思われるが、その比較検討は残念ながらまったくといってよいほど行なわれていない。

 したがって、多くの日本の論者が評したように、ウォルフレンが必ずしも西欧の基準でもって日本政治やこの国のマス・メディアの問題を「断罪」している、と私は考えない。むしろウォルフレンは、しばしば「日本異質論者」と称されるように、日本政治をあまりにも「異質に」、そして「個体的に」扱いすぎたように思われる。そしてこのために、著書『日本/権力構造の謎』の体系性とボリュームにもかかわらず、日本社会と西欧社会の比較分析を可能とする理論作業を事実上断念しており、この点にこそ重大な問題があるのではないだろうか。ウォルフレンが願ってやまない日本政治の抜本的改革に向けた、自らの問題提起への回答が、日本のひとりひとりの市民に対する単なる啓蒙におわっている点も、ひとつにはこうした脈絡に由来するものと考えられる。

 しかし、ウォルフレンが日本のマス・メディアに投げかけた疑問は、傾聴に値するものである。それは、「このままでは理念のない情報ばかりが栄えて、ジャーナリズムは滅亡してしまう、いま必要なのはジャーナリスムの日本革命だ」という、ジャーナリスト原寿雄の切迫した危機感と問題意識を共有するものだからである(23)。この危機感の焦点は、いうまでもなく、単なるジャーナリズムの危機にとどまらず、日本の政治的民主主義を確立する一環としてメディア改革が提起されている点にある。こうした意味から、いわゆる「九三年政変」によって自民党長期単独政権転覆を経た今日においても、ウォルフレンのキー・タームである〈システム〉とそれに包括されたマス・メディアをめぐる政治的諸問題は、いまなおわれわれの眼前にあるといわなければならない。

(1) ウォルフレン、K『日本/権力構造の謎』(文庫新版)上(篠原勝訳)早川書房、一九九四年、四八頁。
(2) 同右、一九三ー一九四頁。
(3) 同右、二一四頁。
(4) 同右。
(5) ウォルフレン『日本/権力構造の謎』下、一九九四年、一六七頁。
(6) ウォルフレン『日本/権力構造の謎』上、一一九ー一二〇頁。
(7) 同右、二一八頁。
(8) ウォルフレン『民は愚かに保て』(篠原勝訳)早川書房、一九九四年、二〇五頁。
(9) ウォルフレン『日本/権力構造の謎』上、二二〇頁。
(10) 同右、二二三−二二四頁。
(11) 同右、一四五−一四六頁。
(12) 同右、二二一−二二二頁。
(13) 同右、二二五−二二七頁。
(14) 樺島郁夫「マス・メディアと政治」『リヴァイアサン』七号、一九九〇年、八頁。
(15) 同右、25頁。
(16) ウォルフレン『日本/権力構造の謎』上、二一五ー二一六頁。
(17) ウォルフレン『日本/権力構造の謎』下、二八四頁。
(18) ウォルフレン『日本/権力構造の謎』上、二一七頁。
(19) 立石芳夫「マス・メディアの政治的機能と民主主義」福井英雄編『現代政治と民主主義』法律文化社、一九九五年、二七八ー二八三頁。
(20) 石川真澄「メディア---権力への影響力と権力からの影響力」『リヴァイアサン』七号、一九九〇年、四八頁。
(21) ウォルフレン『民は愚かに保て』、五〇頁。
(22) ハルバースタム、D『メディアの権力』(全三巻)二、一九八三年、一〇五ー一四七頁。
(23) 原寿雄『ジャーナリスムは変わる』晩聲社、一九九四年、一頁。

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/95-3/fukui.htm  

  拍手はせず、拍手一覧を見る

この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
 重複コメントは全部削除と投稿禁止設定  ずるいアクセスアップ手法は全削除と投稿禁止設定 削除対象コメントを見つけたら「管理人に報告」をお願いします。 最新投稿・コメント全文リスト
フォローアップ:

 

 次へ  前へ

▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > マスコミ・電通批評11掲示板

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/ since 1995
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。

     ▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > マスコミ・電通批評11掲示板

 
▲上へ       
★阿修羅♪  
この板投稿一覧