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マスコミが裁判員制度を破綻させる
2010年10月27日06時22分 / 提供:PJオピニオン
【PJニュース 2010年10月27日】裁判員制度が、重大な局面にさしかかっている。東京・西新橋の2女性刺殺事件で殺人罪に問われた林貢二被告の裁判員裁判で東京地検は25日、被告に対して死刑を求刑した。裁判員裁判初の死刑求刑を受け、一般市民が死刑適用の是非を判断することになる。
最初の裁判員裁判は2009年8月、東京地裁で開かれた。罪名は殺人罪、判決は懲役15年だった。判決の出た日の夜、守秘義務を負っている裁判員に対するインタビューを、マスコミがビクビクしながら放送していたのを覚えている。はじめはどのテレビ局も裁判員の顔を映さず、胸や手の映像を流していたが、ある放送局が初めて顔を放送し、そのあとは、堰を切ったように各局が続いた。さすがは日本の大マスコミ、報道のポリシーさえ横並びで決めるとは、仲良し記者クラブの面目躍如である。
裁判員法によれば、裁判員としての判断については守秘義務があるが、裁判員として裁判に参加したかどうかは守秘すべき事実ではなく、裁判員が自らの判断でマスコミのインタビューを受けることは法的には問題が無い。初回の裁判員裁判以降もカメラに顔を出して話をする裁判員は多いが、世の中にはマスコミに登場したい人が結構いるんだな、というのが私の率直な感想だ。
しかし、今回の裁判は心配だ。判決後は、「なぜ死刑判決を出したのか」「なぜ死刑判決を出さなかったのか」に報道は集中し、裁判員がマスコミに登場すれば守秘義務すれすれの話をさせられるだろう。そして、そこで語られた内容は、裁判員が死刑を選択する基準のように扱われ、「判例化」していくに違いない。もし、被害者や被告に対する感情を前面に出せば、感情的に死刑と無期を判断していいのか、という批判が巻き起こる。そして、その批判を目の当たりにした人が裁判員になれば、周囲の反応に敏感になりすぎ、自分自身の意見など表明できなくなるだろう。
私は、裁判員制度の導入に賛成していた。長年蓄積された判例にガチガチに縛られ、判例に合わせるかのような事実認定と情状酌量が行われ、流れ作業のように判決が下されていた状況を打破するには、一般市民の視点を導入するしかないと思っていたからだ。だが、現実は、注目される重要な裁判ほど「一般市民の視点」は危うくなってしまっている。
裁判員は、裁判中も毎日家に帰る。今回の裁判は、裁判員裁判初の死刑求刑の事案ということで、マスコミがこぞって報道している。ワイドショーに至っては、事件の残酷性を繰り返し報じ、「一般市民は死刑判決を望んでます」と言わんばかりの熱狂ぶりだ。この熱狂は、裁判員に伝わらないはずがない。そして、マスコミ報道から感じ取った「民意」を背負いながら、裁判員は再び法廷へと戻っていく。マスコミは、裁判員に与える影響をわかっているに違いない。「裁判員裁判発の死刑判決」を伝えるべく、手ぐすね引いて判決を待ち構えているのだろう。
マスコミが延々と垂れ流す"妨害放送"から裁判員を隔離しない限り、「一般市民の視点」で裁判が進むことなどあり得ない。この、どうしようもなくくだらないマスコミのおかげで、裁判員裁判はマスコミの筋書き通りに進むようになり、昼のメロドラマと同じところまで落ちてしまうだろう。
裁判員制度は、マスコミによって破綻させられつつある。要は、マスコミの「報道の自由」と市民の「知る権利」を、「法廷に示された証拠にのみ基づき判断する」という裁判の原則とどう整合させるかの問題である。整合させられなければ、裁判員制度は絵に描いた餅である。冷静な「一般市民の視点」は、危機にさらされている。【了】
http://news.livedoor.com/article/detail/5098572/
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