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「「小沢が辞職しなければ新聞は『負けた』ことになりはしないか」
花岡信昭サンが、日経BSに書かれた記事「新聞は小沢氏を追い込めるのか」
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20101021/249323/?P=1
がアクセス上位だというので、読んでみました。花岡サンは、同紙のプロフィールによると、元産経新聞論説副委員長で政治ジャーナリスト、「保守・革新のどちらにもぶれずに、現代政治、メディア、世相などを独自の視点で分析・解読、この国のありようをさぐる」とあります。
一読、二読、いったいなにをおっしゃりたいのか、私の頭では理解できませんでした。以前、花岡サンがテレビで話されたことをこのブログで取り上げたことがありますが「『サンケイは社員の身元を公的機関で調査』花岡信昭さんの記者クラブ観」
http://blog.livedoor.jp/ikedakayoko/archives/2010-02.html#20100226
そのときもお話がわかりにくかった。お書き物も難解ということは、よっぽど私はこの方と波長が合わないのでしょう。単純に私の理解力が不足しているという可能性も大です。ですから、以下、花岡サンのご主張をなぞってみますが、ぜひあなたの目で元記事を検証してみてください。
花岡サンは、中央5紙はこぞって政治家小沢一郎の議員辞職を求めてきた、と言います。そして、「このまま小沢氏が辞職しなければ、新聞各紙は『負けた』ことになりはしないか」と言うのです。花岡サンは、検察審査会の2度目の決議を経て強制起訴になった今、各紙は手をゆるめずにここを先途ともっとやれ、と檄を飛ばしているのかな、と思ったのは、先の文に続けて、「新聞に小沢氏を追い込むだけの力は備わっているのか」と、新聞各紙を挑発するかのような言葉が書き連ねられていたからです。
ところが、どうもそうではないらしい。「政治家からその職を奪うことができるのは唯一、有権者だけである」とか、新聞が「神に代わって断罪するがごとき態度は、いかがなものか」とかの文言も見受けられるからです。これらの部分だけを見ると、小沢さんに辞職を迫った中央5紙への批判と読めます。だったら、「新聞に小沢氏を追い込むだけの力は備わっているのか」ではなく、「新聞に小沢氏を追い込む正統性はあるのか」でないとつじつまがあわないと、私は思うのですが。
ところがところが。「神に代わって」の次の文は、「新聞の指摘を受けて小沢氏が自ら議員辞職するのであれば、新聞は重要な役割を示したことになる」です。政治家にNOをつきつけることができるのは有権者だけだ、という前言と、これは矛盾しないのでしょうか。花岡サンは、有権者の選択がすべてと言ったそのすぐあとに、「その厳粛な事実に、新聞はどこまで介入できるのか」と書いていますから、介入の余地があることを前提に、それはどの程度か、と自問しているわけで、やっぱり新聞を始めとするメディアは、時には政治家の首を取りに行くのだ、と宣言していることになります。それなら、「新聞に小沢氏を追い込むだけの力は備わっているのか」は間違いではありません。
ところがところがところが。花岡サンは、小沢さんが「辞職しない場合は、『犬の遠吠え』に近く、それは新聞の持つべき権威や信頼を損ねることにつながる」「新聞の力の欠損を自ら認めることにな」る、「新聞が、はしなくもその脆弱(ぜいじゃく)さを証明することになってしまう」と、新聞のメンツがつぶれることが心配なんだ、ということを強調しています。だから、小沢追い落としにもっとがんばれ、と檄を飛ばしているのでしょうか。あるいは、恥をかくから小沢追撃はもうやめろ、と言っているのでしょうか。ほんとにわかりません。私にはお手上げです。
今回、花岡サンが言うように、ニュアンスの濃淡はあれ、5紙がそろって政治家小沢一郎に辞職を迫っているのなら、怖い、というのが唯一の私の感想です。たしかに、検察審査会のしろうとの決定なにするものぞという小沢さんの反応、決定の中身は措くとして、私は同じしろうととして、あまり感じのいいものではありませんでした。でも、花岡サンの言うとおりなら、第四の権力とも言われるマスメディア「の雄であってほしい」新聞が、ひとりの政治家にいっせいに襲いかかっているのです。恐ろしくて、愕然とします。
メディアの役割とはいったい何か。分からなくなりそうです。たとえば「ここで政府に戦争を許してしまったら、新聞はただの紙だ、がんばれ」と言うのなら、わかる。少なくとも、私はわかってしまう。でも、ひとりの政治家を失脚させられなければ新聞の沽券(こけん)にかかわる、と言われても、ごあいさつに困ります。メディアが同じ方向を向いて徒党を組むことへの恐ろしさのほうが先に立ちます。そういうことに、花岡サンの新聞批判はまったく向いていないようです。
だいたい、ひとりの人物への評価にはばらつきがあるのが自然というものではないでしょうか。評価はまた、時の経過によってさまざまな事実が明らかになることでも変わってきます。なのに、今この時点で、ある人物を否定するために、多様な情報も観点も分析も評価もあらばこそ、中央5紙はスクラムを組み直して攻撃せよ、と檄を飛ばしているかのような記事を書く新聞出身の言論人がいる、その記事にアクセスが集まっているということに、私は空恐ろしいものを感じます。
花岡サンは記事の後半で、唐突に13年前の江藤淳さんの言葉を引用します。小沢さんにいったん中央政界から引退することを勧めるエッセイです。花岡サンは、政治の世界は厳しくて、いったん身を引けば政治家は終わりだ、と文学者江藤さんの甘さを指摘し、小沢という政治家はそんな言葉には耳を傾けない、闘争心のかたまりだ、「新聞が果たすべきは、その構造の徹底分析と評価であって、なにやら高みからものを言うような姿勢は、いかにも浮世離れしたものに見える」と、かっこよく「高みから」締めくくっています。「その構造の徹底分析と評価」なんて、ちょっと取って付けたような感が否めません。「浮世離れしたものに見える」「高みからものを言うような姿勢」とは何か、私にはよく分かりませんでした。「小沢辞めろ」コールのことでしょうか。うー、ほんとに分かりません。
どうか、この花岡サンという方が新聞業界の変わり者でありますように。ほかのすべての新聞人は、もしかしたら、いろいろ防戦は張ってはいるものの、結局は、小沢潰しはあとひと息だと各紙にはっぱをかけることが眼目かと、少なくとも私には読めてしまうこの記事に、頭を抱えているのでありますように。」
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