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池田信夫は、社会の八百長体質を日本の暗黙知の伝統芸として、明示的ルール化(法制化による脱構築?)を奨めているが、必ずしも、それが人々の幸福につながるとは限らないだろう。
ただ彼の指摘するように孤族化も含めて、ヒトのアトム化は経済発展の必然として肯定的?に捉える方が、前向きな態度かもしれない。
「近代の超克」と京都学派 「八百長」で動く官民関係 日本社会に遍在する「相撲部屋」的構造
2011年02月09日 14:54
「近代の超克」と京都学派
首相のいう「平成の開国」を本当に実行するには、明治維新以来の近代化を見直す必要がある。そういう思想的な試みは、何度も繰り返されてきた。「近代の超克」をめぐる座談会はその一つだが、こうした「日本主義」は結果的には「大東亜共栄圏」のような夜郎自大になって戦争に利用された。ただ本書も示すように、よくも悪くもこの座談会の問題意識は、非西欧圏の「オリエンタリズム」に対する両義的な態度を典型的に示している。東北大学で教え たカール・レーヴィットは「日本の学生は2階建ての家に住んでいる。1階では日本人らしく考え、2階ではプラトンからハイデガーに至るまでの西洋の学識を 学んでいる。彼らは1階と2階をどうやって自在に行き来できるのだろうか」と言ったそうだが、これは現代の日本人にも当てはまる。コミュニタリアン的にいえば、日本人は 日本の価値基準で行動すればいいのだから、欧米の個人主義に迎合する必要はないということになるが、問題はその「日本的価値」がもう自明ではなくなってい ることだ。サンデルも指摘するように、思想の価値はその経済的メリットで評価すべきではないが、どういう思想が生き残るかはその経済的帰結で決まる。日本 型コーポラティズムが一時期、「人本主義」などと賞賛されたのも、日本企業の業績がよかったからにすぎない。日本経済の行き詰まりが示しているのは、官民や企業の長期的関係に依存する「1階」部分の調整メカニズムがもう崩れているということだ。日本人が組織に依 存して生きているという神話も、昨今の選挙で「無党派層」が圧倒的な影響力をもつようになったのを見ると疑わしい。好むと好まざるとにかかわらず、日本社 会は流動化しており、この流れは不可逆である。それを「無縁社会」とか「孤族」などというノスタルジアで語るのは、NHKや朝日新聞の老人だけだろう。むしろ本書も指摘するように、デジタル技術は西欧近代をも超えて「個人」をさらに解体しているのかもしれない。ケータイで膨大な情報や体験を共有する若者は、仮想的に一つの身体で行動している。ケータイは彼らにとって、義手や義足のように身体の一部になっている。近代的自我を定義する身体の自己同一性は、もはや自明ではない。脳科学も明らかにしたように、もともと<私>は1000億のニューロンを同期させるための幻想にすぎない。近代的自我の起源をこのような身体性にもとづく所有権に求めたのはヘーゲルだ が、市民的な身体性が失われると所有権の自明性も失われる。それが今まさにインターネットで起こっている変化である。東洋が今後の100年で西洋を leapfrogできる可能性があるとすれば、「知的財産権」を否定して個人という幻想をウェブに溶解させることかもしれない。本書の問題意識は古色蒼然 としているが、近代を相対化するヒントにはなろう。
2011年02月10日 21:31 IT
三菱電機とテレビ局の八百長
読売新聞によれば、三菱電機と東芝がDVR(デジタル録画機)でCMをカットする機能をなくす方針だという。三菱については他社も確認したようだ。これはつまらない事件だが、日本の会社がなぜだめになるかをよく示している。
欧米では、テレビはすでにオンデマンドで見るものだ。ケーブルTVやISPがテレビ番組をサーバに蓄積するネットワークDVRのサービスをしており、DVRはもう絶滅危惧種である。ところが日本では、最高裁が「自分の機材で自分が見るだけでも自動公衆送信だ」という判決を出して、個人のDVRで録画するサービスも禁止してしまった。録画するとCMがスキップされるのはVTRのころからあった現象で、今に始まったことではない。CMカット機能をなくしても、視聴者がCMを見るようにはならない。いちいちCMをスキップする手間が増えるだけだ。本質的な問題は、リアルタイムで番組を流して見たくもないCMを無理やり見せるという民放のビジネスモデルがもう破綻していることなのだ。デジタル技術のイノベーションによって古いビジネスが成り立たなくなる現象は、あらゆる産業で起こっている。音楽のネット配信によってCDが売れなくなっ たとき、日本の電機メーカーはレコード会社に遠慮してネット配信を制限し、アップルに敗れた。ユーザーを不便にして競争に勝つことはできない。変えなけれ ばならないのはDVRの仕様ではなく、民放のビジネスモデルである。顧客を犠牲にしてテレビ局の既得権を守る三菱電機は、負けるべきものを不正に延命して仲よく自滅する日本社会の八百長的構造の典型だ。顧客の対抗策は、こういう企業をボイコットして顧客を無視する企業は生き残れないことを示すしかない。
「八百長」で動く官民関係日本社会に遍在する「相撲部屋」的構造とは
2011.02.09(Wed) 池田 信夫
日本経済の幻想と真実
世の中はNHKニュースから夕刊紙に至るまで、相撲の八百長の話題で持ちきりだ。
それほど重大な問題とも思えない話がこのように多くの人々の関心を引きつけるのは、そこに日本社会によくある(誰でも心当たりのある)構造が見られるからだろう。
官民関係でも八百長は広く見られる。最も典型的なのは建設談合で、落札率(落札価格/予定価格)が95%を超えるケースは珍しくない。
ただ、建設談合は何度も刑事事件になり、業者の手口も巧妙化して、あまり露骨な八百長は見られなくなった。昔のゼネコンのようなあからさまな談合が行われているのが電波行政である。
八百長で落札業者や電波の免許を決める官民関係
2007年に2.5ギガヘルツ帯の「美人投票」(比較審査)が行われ、2つの枠にNTTドコモ、KDDI、ソフトバンク、ウィルコムの4グループが申請した。
美人投票の結果、KDDIとウィルコムのグループが当選したが、その「比較審査の結果」を見て関係者は驚いた。ウィルコムが「継続的に運営するために必要な財務的基礎がより充実している」という項目で最高の「A」評価を得て、「B」のドコモを上回ったのだ。
経営危機が表面化して外資系ファンドに買収され、資金的な不安がささやかれていたウィルコムが、日本の全企業の中でも最大級の利益を上げているド コモより「財務的基礎」が充実しているというのは何を基準にしたのか、関係者は首をひねったが、その理由は2010年になって判明した。
アナログ放送が終わったあとのVHF帯で行われる予定の「携帯マルチメディア放送」で、ドコモ・民放グループが、KDDI・クアルコムと最後まで争った。
この時、「ドコモが民放を支援するのとバーターで、2.5ギガヘルツ帯はウィルコムに譲った」と当時のドコモ幹部が証言している。
2.5ギガヘルツ帯で誰もが本命だと思っていたドコモが落選したのは、その代わりにVHF帯の周波数をドコモに与える密約による八百長だったのだ。
2年も経たないうちにウィルコムの経営は破綻し、「財務的基礎」が極めて脆弱だったことが判明したが、その窮地を救ったのがウィルコムを買収したソフトバンクだった。
この「貸し」によって、周波数の再編に伴って空く900メガヘルツ帯がソフトバンクの「指定席」になったという。
日本の会社はまるで相撲部屋
電波行政が相撲部屋に似ているのは偶然の一致ではない。この種の「貸し借り」は日本社会に広く見られる慣習である。
会社の中の人間関係でも商慣習でも、「貸しをつくった」とか「借りを返す」といった行動が実に多い。これは未開社会に多い「贈与」の一種と考えることができる。
約束を守らせる仕組みとしては司法機関があるが、そういう制度のない社会では、約束を破った者をコミュニティーから追放する「村八分」によるペナルティーが有効だ。
こういう仕組みが効果を上げるためには、長期的関係が切れることによって失うものを大きくする必要がある。
未開社会では、人々は多くの贈り物をし、互いにご馳走する。これはそういう互恵的な関係をつくることによって結びつきを強め、コミュニティーを離れられなくするメカニズムだと考えられている。
同じような構造は、日本の会社にも見られる。大学を卒業した社員にコピー取りをさせたり、自転車で集金させたりするのは、このような徒弟修業のコストを回収するために会社に長く勤務させる贈与の一種である。
若い時に長時間労働で会社に「貯金」を強いられた社員は、それを年功賃金と楽な仕事で回収するため、定年まで会社にとどまる。
官民関係の中で最大の贈与は、天下りを受け入れることだ。これは役所から強要されるわけではないが、企業にとって賢い戦略は、役所に言われなくても先に贈与して、彼らに大きな貸しをつくることだ。
ソフトバンクがウィルコムを救済するのも、NTTドコモが赤字覚悟でVHF帯のマルチメディア放送をやるのも、総務省への贈与である。
今、日本に必要なのは「長期的関係」ではなく「法の支配」
このような相撲部屋型システムは、必ずしも非効率とは言えない。高度成長期に日本の企業がどんどん成長していた時期には、優秀な人材を引き止めておくために若い時に徒弟修業で奉仕させ、年を取ってから高給で報いる年功序列は、インセンティブとしてうまく機能した。
官民関係においても、国内産業を育成する時期には、既存業者だけで談合させてレント(超過利潤)を保証する必要がある。時には役所が仲介して「官製談合」によって利害調整することもあった。「不況カルテル」と称して、役所が公然とカルテルを組ませることさえ珍しくなかった。
しかし、こうした長期的関係は、成長が止まってレントが枯渇すると維持できなくなる。今、入社する社員に「40年後には楽になるから今は雑巾がけしろ」と言っても、40年後に会社があるかどうかは分からない。
官民関係でも、こうした既得権を守り続けてもビジネスとして成り立たないものが増え、談合のメリットがなくなってきた。
八百長で免許をもらったウィルコムは経営破綻し、マルチメディア放送の免許をもらったドコモも「貧乏くじ」と言われている。天下りが批判されるようになったのは、企業の側にそのメリットがなくなったからなのだ。
それでも天下りや外資の排除で通信業者に借りをつくった電波官僚は、途中で約束を破ることができない。このため、900メガヘルツ帯でソフトバンクの「指定席」を守るために、今度の電波法改正では民主党の要求していた周波数オークションをやめ、また美人投票で決めることになった。
相撲の八百長は、プロレスのような興業として楽しめばいいが、電波の八百長は時価1兆円以上の電波を無償で業者に贈与し、その見返りに官僚が天下りなどの便宜を図ってもらうものだ。「光の道」論争で激しく「公正競争」を叫んだソフトバンクが、周波数オークションに反対して八百長に加担していることも不可解である。
今、日本に必要なのは、高度成長期から続く長期的関係を清算し、透明なルールに基づいて新しい企業の参入と対等な競争を可能にする法の支配である。
そのためには、日本社会の隅々に巣食っている相撲部屋的な関係を見直す必要がある。霞が関は相撲協会を見習って、これまでやってきた八百長を再点検してはどうだろうか。
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