http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/762.html
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収容所というより、被災者向け緊急施設というべきだな
そのくらい状況は悪いということか
火事が1回おこったくらいで、全施設にスプリンクラーを設置するなど
費用対効果を考えると、今の特養などは、明らかに過剰装備で
例によって利権の温床になっている
TVで報道される年に数人の火事による死亡者と、見えない数十万人の悲惨とどちらが重要かという問題だが
猫や鹿の救済にはマスコミが集中するのと同じく姿が見える被害者効果は大きく
税金の効率的な分配が妨げられている
http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/azuma/201101/518165_2.html
日経メディカルブログ:東謙二の「“虎”の病院経営日記」
2011. 1. 25
悲惨な孤独死、餓死の現場を見て考えたこと
著者プロフィール
東謙二(医療法人東陽会・東病院理事長兼院長)●あずま けんじ氏。1993年久留米大卒。94年熊本大学医学部第2外科。熊本地域医療センター外科などを経て、2000年東病院副院長。03年より現職。
ブログの紹介
急性期の大病院がひしめく熊本市で、63床の病院を経営する東謙二氏。熊本市の若手開業医たちのリーダー的存在でもある東氏が、病院経営や医師仲間たちとの交流などについて、ざっくばらんに語ります。
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関連ジャンル: 事件・話題 医療経営
警察医として時々、餓死や自殺の現場に呼ばれることがあります。どこの現場も言葉では言い尽くせないほどの悲惨な状況です。何度経験しても慣れることはありません。遺体のある家へ入るときに先に到着していた検察官から「先生、床が汚いので靴履いたままでいいですよ」と言われることもあります。いくら汚くても、人の家に上がるときに靴を履いたままはなかろうと思い、靴を脱ぐようにしていますが、確かに汚い。畳は砂やほこりにまみれており、足跡がくっきりと付いてしまいます。
ある現場では、介護疲れの息子がテーブルに放心状態で座っており、食べ残した複数のカップラーメンからは腐臭が漂っていました。その先には死後硬直した息子の母親の遺体があり、その痩せ具合からもなぜこのようなことになったのか想像できました。これは、決してレアケースではなく、似たような悲惨な状況は頻繁に目にします。隣町にある団地では毎年数人が孤独死していましたが、昨年はなんと半年で13人の孤独死があったそうです。元々独居高齢者が多い団地ですが、自治会長、民生委員の目が届く範囲も限られており、お手上げ状態のようです。
今年の冬は全国的に去年より寒さが厳しいです。この寒さの中、ふと思い出したのは、まだ暑かった去年の秋に話題となった「消えた高齢者」です。あの事件は、我々医療関係者にとっても実に衝撃的でした。100歳以上の所在不明高齢者が23万人とは…。この問題、その後、どうなったのでしょう? 皆の所在はわかったのか、ほとんどが死んでいたのか、はたまた行方不明のままなのか…。マスコミ報道も尻切れの印象で、いまだに分からないことだらけです。今年も「敬老の日」前後に話題になるんだろうなあ。いずれにせよ、今の日本の家族形態や、単身者の増加などを勘案するに、「消えた高齢者」は今後も増えていくでしょう。
うちの病院や老健施設の入院患者・入所者を見てみると、キーパーソン、いわゆるその人の医療・介護方針などの決定にかかわる縁者がいない人が増えてきています。キーパーソンになり得る人(例えば配偶者)が認知症のケースもあります。老老介護、認認介護は最早珍しくありません。さらに、病状が悪化して家族に連絡しても「行かないといけないんですか?」といった返答をもらうことも度々あります。中には亡くなった後、「今、熊本にいないんです。お金は振り込むんで、そちらでなんとかしてもらえませんか」と肉親から言われることも。呆れてものも言えません。
もちろん大多数の高齢者では、こんなことは起こりません。家族は毎日のように見舞いに訪れ、病状の説明も真面目に聞き、「できるだけ早く、自宅に帰って来てほしい」とおっしゃいます。そんな家族を持った高齢者は、現在の医療制度、介護制度をフルに活用し、家族の負担も可能な限り軽減しながら、幸せな老後、そして終末期を迎えることができるでしょう。そのためには、在宅医療の体制や高齢者住宅なども充実させ、さらには近隣コミュニティーの、相互扶助の精神を深めていくことも重要でしょう。
しかし、すべての高齢者が、このような理想的な家族に恵まれているわけではありません。救急車で搬入される高齢者の特徴として、救急隊員から「一人暮らしです」とか、「近所の人からの連絡で」と告げられるケースも多いです。救急搬送される状態になるまで病院に来ない、あるいは、そもそも物理的、経済的に病院に来ることができない患者もいます。医療者側とすれば「なぜこんなになるまで放っておいたのだ」とまず思います。しかし、よくよく考えれば、医療へのアクセスそのものが困難な住民が年々増えているのです。
原因は言うまでもなく、マスコミも時々報道する「格差社会」です。医療の現場にいる私自身も、医療・介護の受け手(つまり地域住民)が二極分化してきていると感じます。先に述べたような、医療・介護サービスを十分に受けられる人と、経済的理由などから医療・介護の利用を控えざるを得ず、誰からも看取られないで一人死んでいく人―の二極です。もちろん後者はまだ少数ですが、そういった層は確実に増えており、かつ「格差」も広がっています。
先日、たまたま2002年封切りの米国映画『ジョンQ―最後の決断―』のDVDを観ました。貧困層に転落し医療も満足に受けられなくなったデンゼル・ワシントン演じる一市民が、心臓病の息子を助けるため救急病棟を占拠するという、米国の医療保険制度を強烈に皮肉った映画です。映画公開のころなら、医療のセイフティー・ネット(safety net)がない米国の話だと笑って観ていられたでしょうが、妙にリアリティーを感じました。日本も映画で描かれた状況に近づいているからだと思います。
警察医として悲惨な現場を見てきた経験から言えば、日本において本当の意味でのセイフティー・ネットを早急に整備するべきだと私は思います。特養、老健、高専賃なんて“贅沢”なものはいりません。最低限の生活より幾分ましで、必要十分な衣食住が提供される公的施設がまず必要だと思います。そもそもセイフティー・ネットというのは、落ちないための網ではなく、落ちたときに命を救ってくれるための網なのですから。
私が勝手に考えた公的施設はこんなイメージです。体育館ほどのスペースに簡単なパーティションで仕切って居住空間を作り、3食を確実に提供する。そして、介護士が1日数回見回りして、異常があれば医師や看護師が対応する。この程度の施設であっても、今の孤独死や餓死の現状と比べたら全然ましです。「姥捨て山だ!」「収容所だ!」「高齢者の尊厳は?」といった誹りを受けるかもしれません。でも、尊厳以前の状況での孤独死が増えている現状を救う道は、これしかないのでは…。
高齢になって一文なし、家なしになっても、生きていけるところがあるという安心感は何ものにも代え難いのではないでしょうか。何十億円も使って定員数十人〜百人程度の施設を作るより、同じ予算で何百人も入れる“収容所”を作る方が、世の中のためになると思うのですがどうでしょうか?
もちろん、普通の人たちは従来の医療・介護サービスを受ければいいし、財力に余裕がある人は、高級老人ホームや介護付きマンションに入ればいいのです。でも、こんなこと政治家は表立って言えないし、厚労省も国交省も施策は作りづらいだろうなあ。誰も提案できそうもないから、お酒をちびちびなめながら、熊本から私が代わりに提案させていただきました。
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