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qazx
2010年8月15日
ポール・クルーグマンの野心
http://qazx.blog.eonet.jp/docdoc/2010/08/post-8a5b.html
[以下抜粋引用]
The economic fallacy of 'zombie' Japan
(「うすのろ」日本という経済的間違い)
Steven Hill
guardian.co.uk, Wednesday 11 August 2010
ポール・クルーグマンらは日本を誤解している。日本の失われた十年を過ごせれば、米人は、とても幸運と言うべきなのだ。
日本はいわゆる経済専門家たちから不当な扱いを受けてきた。考えてもみなさい、大不況の真っ只中、米の失業率はおよそ10%だ、格差は拡大し続けているし貧困も増え続けている、そして健康保険未加入者は4700万人、中流階級であっても引退後の生活の見込みが立たなくなっており、経済不安が全般的に増加している。欧州各国もそれぞれが問題を抱えており、支那だって次に弾ける泡なのかもしれないのだ。
さて、我々は、失業率が5%で、所得格差が最低で、国民皆保険制度があり、しかも輸出大国の一つを、どう考えるべきなのか?この国は平均寿命も長く、乳幼児の死亡率も低く、読み書き計算でも世界トップクラスで、犯罪、投獄、殺人、精神病、麻薬中毒も少ない。更に炭素排出量だって少なく、地球温暖化改善への義務を果たしている。これら全ての部門において、この特別な国は、米よりも支よりも遥かに優れている。
米人や他の国の人たちは、このような国からであれば、このドツボから脱出するヒントを一つや二つ学べるかもしれない、と思うのではなかろうか?
その国が日本でなければそう思うだろう。この経済危機の前、頼りない経済と罵られた国は日本以外ほとんどなかった。日本に関する文章のほとんどには、経済は硬直化しておりとか、銀行は「うすのろ」で全く利益が出せていないとか、デフレから抜け出せていないとか、全く成長していない、などの説明が入っている。これらは、「日本症候群」と称され、「日本」は政策立案者たちにとっては、悪い見本になってきたのだ。
日本が「悪い見本」扱いされるに当たって、最も影響力のあったのは、ノーベル賞受賞者のポール・クルーグマン教授だ。1990年代を通じて、そして今日でも、クルーグマン教授は日本の経済や首脳陣を攻撃している。クルーグマン教授は1990年代の終わりに、一連の悲観的記事を記した。方程式を解いたとか、『日本の罠』や『沈み行く日』といった表題が付けられており、何のためらいも無く次のように記されている。
「日本国は醜聞であり、侮辱であり、恥辱である。稼働率は生産能力を遥かに下回っている。その理由は簡単だ、その消費者と投資家が十分に金を使わないからだ」
だが、当時の日本に関する指標を幾つか見てみよう。覚悟は良いかな?1990年代を通じて、日本の失業率は約3%だった。当時の米の失業率の半分だ。「失われた十年」とやらの間だって、日本は国民は皆保険に入っており、少ない格差、長寿、低い乳幼児死亡率、低い犯罪率や投獄率を維持した。日本の失われた十年を過ごせれば、米人は、とても幸運と言うべきであろう。
日本の件を蒸し返すと、幾つか重要な問題が見える。クルーグマン教授のような経済学者たちは、何を価値あるものとし、何を優先するものとし、あるいは何を測定しようとしているのかということだ。経済学は何のためにあるのか。繁栄と安全と人々が必要とするサービスを生み出すため、それとも、経済学者が作り上げた方程式や、理論や、モデルが成り立つのを示すためなのか?
景気回復のために、財政刺激か財政再建かの議論が繰り広げられている、そこでは今、様々な経済学者たちが独批判をしている。クルーグマン教授が記したところによれば、独人は、「かつて大恐慌を進展させたハーバート・フーバー大統領の演説集から論点を集めているよう」なのだ。財政刺激強硬派のクルーグマン教授は、日本と同じ理由で独を批判している。つまり、独は経済を刺激出来るほどの支出も消費もしない、という理由で独批判をしているのである。
しかし、米が巨額の財政赤字と不況で苦しんでいた1990年代初頭、クリントン政権はクルーグマン式財政刺激策を実施しなかった。その代わりに、同政権は軍事費を減らすことで財政赤字の削減を行った。1990年代末までに、米国財政は結構な黒字となり、経済も好調だった。
日本経済は成功してきたし、今もそれは変わらない。独経済だって同じだ。日・独は経済の安定を達成しており、国民を養うために猛烈な成長率など不要なのだ。だが、不景気の預言者たちにとって、明らかに、人々のニーズが満たされるかどうかなど、どうでもいいことなのだ。大事なのは、自分達の理論と方程式が成り立つかどうかなのである。
残念ながら、この経済的成功は余りにも常識的なことなので、ワザワザ表現されることが無く、言及されないことが多い。あえて表現すれば、本当に必要なのは、経済成長ではなく、持続可能な経済と資源を節約するための技術修得だ。つまり、経済泡はいずれ弾けるということ、そして抑制の効かない成長は環境に甚大な被害をもたらす、ということだ。富裕国の米型大量生産大量消費経済の時代は終わった。大量生産大量消費経済は健全ではない上に、環境的に持続可能でもないからだ。先進国は異なる発展の道を先導しなければならない。
これは容易な挑戦ではないが、日・独が選んだ道だ。米は両国から学んだ方が賢明だ。米が酷い格差を生み出した大量生産大量消費経済でなかったなら、本当のところは、富の配分がもっと上手だったらと言うことなのだが、そんなに大規模な経済刺激も成長も必要なかったのである。
[以上抜粋引用]
ガーディアン紙の元記事:
The economic fallacy of 'zombie' Japan (guardian.co.uk)
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/cifamerica/2010/aug/11/paul-krugman-japan-lost-decade
らばQの関連記事:
「日本という国を過小評価していないか」アメリカも中国も到底かなわないと取り上げ話題に (らばQ)
http://labaq.com/archives/51514331.html
投稿者コメント:
ガーディアン紙の記事自体(8月11日)は新しいものではないが、最近らばQ(10月20日)でとりあげられた。阿修羅で紹介するために抄訳をしはじめたところで、qazxさんによる翻訳がみつかった。みごとな訳だ。qazxさんのブログ記事の本文およびガーディアン元記事の引用部分は省略したので、冒頭のリンクからqazxさんのブログでご覧いただきたい。
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