06. 2010年8月27日 12:01:19: cqRnZH2CUM 円高と下がり気味の眉の悲劇 2010年8月27日 金曜日 小田嶋 隆 円高 日本銀行 経済学 白川総裁 連日の猛暑だ。 円高でもある。 程度は、たぶん円高の方がキツい。
「気温に換算すると43度ぐらいかな」 と、K山は言っている。私はこの男の景況判断を大筋のところで信頼している。経営者だからだ。経営者はやはりどこかが違う。必死だからだと思う。必死な人間には何かが宿る。でないと不公平だ。 「ははは。摂氏43度じゃ、そこらじゅう死屍累々じゃないか」 「笑い事じゃないぞ。実際に死人は出ている。然るべき人間がきちんと数えれば、熱中症の死者より多いはずだ。本当だぞ」 K山は笑っていなかった。ん? もしかしてお前も死にそうなのか。 「ノーコメント」 了解した。以後、円高について冗談を言うのはやめることにする。 夜、テレビをつけると、ニュースショーの解説役のおじさんがこんなことを言っている。 「私は経済の専門家ではないが、円高も悪いばかりのものではないとは思う」 「確かに輸出企業はきついだろうが、日本には輸出企業しかないわけではない」 「見方を変えれば、円高は日本が内需型の社会に移っていくための試練だというふうに考えることもできるのではなかろうか」 「私は経済の専門家ではないし、よくわからないのだが、そんなふうに思ってしまうのですね」 マクロ的に見れば、解説者氏の言い分にも一理はあるのだと思う。 でも、怒る人は怒る。 K山は間違いなく怒っている。あいつはたぶんこう言う。 「つまりアレか? 猛暑で年寄りの熱死が続発していることについて、あんたは『ご老人の熱死も悪いことばかりではない。高齢化社会を是正するという意味ではひとつの調整局面と見ることもできる』と言うわけか?」 K山のほかにも、怒っている日本人は山ほどいるはずだ。彼らは誰かに怒りの矛先を向けないと眠ることができない。それほど、今回の円高は急激で、かくまでに人々は追い詰められている。 こんな相場が続くようだと、輸出企業の経営者のみならず、血の気の引いた顔の人々は今後さらに増えることになるだろう。 「昨日膝までだった水位が胸元まで来てる感じだと言えばわかるか?」 うむ。わかる。少しだが。私は波打ち際で暮らしている人間ではないが、「轍鮒の急」ぐらいは学校で習った。水たまりで渇きに喘ぐ鮒と荘子の会話を模した味わい深い寓話だ。知らなかった人は検索してみてくれ。太古の賢人が二千数百年の時を超えて、為政者の無策をたしなめていることが了解できるはずだ。 ニュースの画面は白川総裁の写真を映し出す。 と、良くない空気が流れる。 総裁が無能だと言いたいのではない。 ただ、あの人の顔は、このたびのような鉄火場じみた空気には似合わない。そのことを私は申し上げている。 なにより、表情が気楽すぎる。 あの顔が映るたびに、焦っている人々は絶望するはずだ。 「なに余裕ぶっこいてるんだよ」 と、輸出関連の中小企業を経営している向きは軽い殺意をさえ抱くかもしれない。 白川さんの責任ではない。 あの人は、好きでああいう顔をしているのではない。ただ、生まれつき眉毛が下がり気味だというだけだ。 でも、画面を見た人々は、反射的にアタマに来る。これはどうしようもない。焦っている連中の目から見ると、白川さんのあの顔は、事態を過小評価している人間の表情に見えるからだ。 隣に座った大臣に自分の分の水を飲まれて困っているお役人の顔としては似つかわしくても、修羅場をおさめるリーダーの顔としては、やはり弱い。どうにも弱い。きょとん顔のリーダーの下で、国民は闘士を糾合することができない。私にはそれがわかる。というのも、私もまた、白川さんほどではないものの、白川さんと同じく、目の上に下がり気味の眉を乗せて生まれてきた男だからだ。 このカタチの眉を持った人間は、肝心なところで信頼されない。 残念なことだが、これは事実だ。 われわれは真剣さを疑われるのだ。特に修羅場では。どこからどう見ても阿修羅と最もかけ離れた表情をしているからだ。 白川さんの顔は、平時なら上出来だ。表情も良い。私は好きだ。癒し系の、上品な、落ち着いた風貌を備えていると思う。部下は安心できるはずだ。家族も友人も、白川さんと一緒にいるとリラックスできることだろう。 でも、急場にあの顔はマズい。 白川さんの能力についてあらかじめよく承知していていて、なおかつ普段から白川さんを信頼している人間なら、あの表情を見ても意気阻喪することはないだろう。 でも、素人は違う。 ボスがきょとんとした顔で座っているのを見ると、下っ端は不安になる。 「おい、大丈夫なのか?」 「このヒトは状況を分かっているのか?」 「っていうか、早く家に帰りたいだけなんじゃないのか?」 白川さんの有能さを直接に知る機会を持っていないわれわれ素人は、とりあえず顔とムードで判断する。 と、やっぱりあのヒトはどうにも頼りなく見えるのだ。 これはいかんともしがたい。 そうだとも。私自身同じ立場だったからよくわかる。私は、緊迫した場面ではいつも場違いな男だった。 腹を立てられることさえあるのだ。事実、 「何だその顔は」 という理不尽な理由で、中学生だった私は、何度も殴られたものなのである。うん。今思い出しても腹が立つ。私は暴力教師の標的だった。ちくしょう。 生徒に手を上げる教師の8割は、冷静さを失っている。残りの2割は、はじめから冷静さを持っていない。いずれにしても、彼らはマトモな教師ではない。私を殴っていたあの男も同じだった。テキは、一通り殴った後、見上げる私の顔を見てさらに腹を立てる。で、追加の殴打を加える。そういう決まりになっていた。理由は、私の顔が、「舐めているように」見えたからだ。 「何だ? 文句があるのか?」 文句なんか言った覚えは無いのに、私は殴られた。くそ。 同級生に指摘されたことがある。 「お前ってさ、殴られた後に、『で?』っていう感じの顔するだろ? それで余計に殴られるんだと思うぞ」 私自身は、教師を挑発していたのではない。反抗していたのでもない。ただ、殴られつつある者の虚栄心として、なるべく無表情でいるように心がけていただけだ。 虚栄心? 不思議に思うだろうか。 が、これは、大切なところなのだ。人前で殴られつつある中学生にとって最大の危機は自尊心の崩壊だ。それを防ぐためには、鉄面皮を装備する必要がある。ぜひそうせねばならない。殴られた経験の無い人間にはここのところがわからない。 で、私の場合、その「無表情」が、教師の目に挑発的に映ったわけなのだが、その理由は、おそらく眉が下がっていたからなのだ。私はそう思っている。のほほんとした下がり眉の顔でまっすぐに見返されると、殴っている側の人間は「それだけですか?」と、次の一打を催促されたように思う。なにしろ冷静じゃないから。あの人たちは。徹頭徹尾。ちくしょう。 経済について顔の造作をネタに語っているこの文章を、不謹慎な仕事だと思う人々もいることだろう。 その旨は自覚している。 ただ、私としては、わかりもしないくせに適当なことを言うのはもっと失礼だと思うから、わかる範囲で、顔の話をしている。そこのところをぜひご理解いただきたい。 結論がわからないのは、専門家でない以上、ある程度仕方がない。 問題なのは、正式に勉強したわけでもなく、必死に考えたことさえない分野について、思いつきで安易に言及する態度だ。これはいましめねばならない。そう思うから、私は当件について、経済通っぽい発言を控えている次第だ。ま、実際にひとっからも経済通じゃないわけだし。 ついでに申せば、世の経済通や専門家を、私はあまり信用していない。 というよりも、彼らについて、どう判断して良いのやら、いつもわからなくなるのだ。 わからなくなる理由は様々だ。 「この人は本当にわかっているのだろうか」というふうに、能力や見識を疑う場合もあるし、「本気で言っているのか?」と、真意ないしは誠実を疑う場合もある。いずれにせよ、彼らの話を私は割り引いて聞く。他の分野の専門家が自分の分野について語る時には、一定の敬意を持って耳を傾ける。でも、経済は別。あまりにも混乱しているから。 たとえば、経済の専門家が何人か集まって議論をする。 と、同じひとつの問題について、まったく異なった見解が論者の数だけ並ぶことになる。 ある学者は財政出動が急務だと言い、別の評論家は赤字国債に頼るべきではないと言う。さらに別の元経済官僚は日本経済の底堅さを強調し、ゲストのマダムは雇用の確保こそが何よりの緊急課題だと言う。 彼らは、それぞれにもっともなことを言っているように見える。 でも、主張はまるでバラバラだ。というよりも、全員の話をまとめると完全に支離滅裂な施策になる。 ということはつまり、集まった専門家のうちの、一人を除く全員か、でなければ全員が的はずれなことを言っていることになる。なんたるカオス。 ほかの学問の分野ではこういうことはあまり起こらない。 たとえば四人の生物学者が集まったとして、見解が分かれるのは、最先端ないしは末端の学説についてだけだ。 生物学という学問の根幹を為す本流の部分については、専門家の見方は常に一致している。 「ヘビはウナギの兄弟だと思うのだがどうだろう」 なんてことを言い出す学者はいない。 ヘビは爬虫類。ウナギは魚。このあたりについて学説は決して割れない。 「ミミズの立場はどうなる」 「末弟か?」 「似たフォルムの仲間ならアシナシトカゲもいるぞ」 こんな表面的な議論をしているのは素人だけだ。 ところが、なぜなのか、経済の世界では、全員が表面的な議論をしているように見える。でなくても、それぞれの論客が、前提からしてまったく異なった基盤の上に立って論争を展開している。 当然、議論は噛み合わず、各々の主張は、話せば話すほど乖離して行く。 しかも、前回予測を外した学者が、まったく悪びれることなく次の予想を述べ立てているかと思えば、隣の席で別立ての提言を開陳している評論家は、先月とはまったく逆のことを言っていたりする。いったい彼らの眉の下の目は何を見ているんだ? 節穴なのか? こんなふうに経済に関する議論があやふやになるのは、そもそもそれが人間の活動を扱う研究分野だからだ。 天体の運行やDNAの配列と違って、人間の欲望は法則に縛られない。むしろ、裏をかこうとする。でなくても、研究対象が自分のアタマで考える主体である以上、予測はほとんど不可能になる。当然だ。 しかも、論文の内容や記者発表の文言は、常に実体経済に影響を与える可能性をはらんでいる。と、それを述べる人間は、特定の企業の利益や、相場の思惑や、市場の動向に対してニュートラルではいられなくなる。であるのならば、経済閣僚のみならず、学者もまた、必ずしも正直な発言をするとは限らない。 たとえばこれが生物学なら、利権の影響を受けたり、研究を党派的に利用せんとする勢力と結託するおそれはずっと少ない。 「Y先生って、政権交代以来やけに爬虫類寄りの論陣張るようになったよな」 「先週の授業もアナコンダ礼賛だけで90分埋めてたし」 「その点、K大の生物学教室は伝統的に水棲哺乳類ベッタリらしいな」 「なにしろ大臣が出てるから」 といったようなことは、起こりにくい。 例によって話がズレている。 今回は、本筋に戻すのも難しいようだ。 なので、当面の結論を述べておく。 円高は危機的な局面に来ていると思う。これは、なんとなく肌でわかる。 私の世代の者は、前回の円高の際の記憶を身の中に残している。 というよりも、バブル崩壊後に対ドル相場がみるみる100円を割って、なおもズルズルと79円(一瞬だったが)まで下げた時の悲惨な記憶を、どうしてもぬぐいきれないのだ。あれは恐怖だった。 94年から95年頃だったと思う。 何かの用事で会った高校時代の同級生とこんな会話をしたことを覚えている。 「電線と雀のクイズを覚えてるか?」 「何だそりゃ」 「電線にスズメが10羽止まっていた。強い風が吹いて9羽は飛ばされてしまったが、1羽だけは風の中でも電線につかまっていた。その飛ばされなかったスズメはなんでつかまっていたのか、というのが問題だ」 「死後硬直してたとかか?」 「正解は『根性でつかまっていた』だよ」 「……どこが面白いんだ?」 「面白くないよ。どこも。うちの会社がそのスズメだっていう話だよ。どの指標を見ても、どんな状況から見ても、もうとっくに完全にツブれてるはずなのに、なぜなのかまだ営業している。毎日、今日こそはツブれると思いながら、出社してみると、なぜなのかいまだに会社は動いている。これは理論では説明できない。根性……っていうか、死後硬直なのかもしれないけどな」 「……ふーん。大変なんだな」 と、この会話をかわしてからほどなく、そいつの会社はツブれた。それから何年か、彼はとても大変な思いをした。ほかにも、何人かひどい生活を体験した仲間がいる。あの当時は本当に大変だった。円高はもちろん、100%悪いばかりのものではないが、過剰な円高は、一部の人間にとっては間違いなく地獄だ。 で、感触として、今回の状況は、なんだかあの頃に似てきている感じがするわけで、そういうタイミングで白川総裁の顔を見ると、私を殴った教師の気持ちがほんの少しだけれども、わかる気がするのだね。 白川さんは、できる範囲で、せめて真剣らしい表情を作るべきだと思う。眉の角度がどうにもならないのだとしても、目の開きかたとか、唇の噛み締め方で、多少の演出はできるはずだ。がんばってほしい。ぜひ。日本経済のために。 (文・イラスト/小田嶋 隆)
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