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スラヴォイ・ジジェク著(栗原百代訳)『ポストモダンの共産主義――はじめは悲劇として,二度目は笑劇として――』ちくま新書 については、以前、ここのブログ(2010-08-08付)で紹介しました。今また再読している最中ですが、読み応えのある作品として、肩肘を張らず、気持ちに余裕を持たせながら、楽しく本書と向き合うことにしています。そうは言いましても、やはり、分からないところを解読するためには、ジジェクが本書の中で扱っている何冊かの書籍や文献にも目を通す必要がありますから、完璧には読みこなせていないことを、予め断っておきます。さらに、特に私の記憶力が悪いときていますし、政治・経済の専門家になるわけでもありませんから、せめて本書の概要ぐらいは、掴める程度に理解できればと思って再読しているところなのです。
閑話休題
ここではポイントをひとつに絞って、本書の内容を改めて紹介します。
それでですが、第一章の『資本主義的社会主義?』で扱っているところの「資本主義の本質的パラドクス」の読み解きを、お粗末ながら試みますが、皆様にとっては、私の拙文が読解の一助になれば幸いです。
*『資本主義の本質的パラドクス』とは?
例えば、「一部のエリート(ウォール街)」が経済成長という名目で際限なく投機を続けたとします。投機に対するリスクは、民間の損害保険等でカバーする仕組みが備わっていたりしますから、実害は限りなく抑えられることになります。あるいは、投機機関(銀行等)の救済という名目で公的資金が「資本主義の危機」のために、疑問を呈することなく無尽蔵に注ぎ込まれることになります。また、彼らは自らが所有する株などをストックオプションで事前に売却するなどして、難局を乗り切ったりすることが可能です。つまり、圧倒的な情報力を駆使することで被害を回避することができ、それが社会の仕組みのひとつとして容認される方向へ傾いているのだとすれば、これはもう不平等が剥き出しのままでいる状態だと取ることができるはずだと思います。ただし、今の状況では、そこら辺りがまだ闇に隠されたままといえるでしょうから、ひょっとして、想像力を働かして思索することで見えてくるものがあるとしたのなら、ひとつの近未来的な資本主義の現実を、SF小説のような形で投影できるかもしれませんが。
一方、それを逆に捉え返しますと、「目抜き通りの人達」は、リスクに備えるだけの余力や蓄えもなく、したがって日常の雑多な生活の中に埋没しかねない日々を、「自己責任」のもとで暮らさざるを得ない情況が常態化する方向へシフト変換しているといえるのです。(例えば、社会の中での家族の役割も変化するように、あるイデオロギーも時代の波の影響を受けて、様変わりすることも在り得るように)
ここで、ジジェク自身の言葉を紹介しておきます。
『「実体経済」ではないものが生命線とは、何とも奇妙なことだ。「実体経済」自体が活力のない死体のようなものだというのか?すると、ポピュリストの掲げるスローガン、「救うならウォール街ではなく目抜き通りを!」はまったくの誤りで、純然たるイデオロギーの一形態ということになる。資本主義のもとで目抜き通りを支えているのはウォール街だという事実を見過ごしている。そのウォール街が倒れたら、目抜き通りはパニックとインフレに襲われることだろう。(P30〜P31) 』
さて、ジジェクはこのような歪んだ傾向にある現実を、皮肉にも社会主義の回帰に至っていると見ています。つまり、その視点からは、資本の危機(ウォール街)のためになら、公的資金を使っても良いが、目抜き通りの貧しい庶民には、自己責任を通そうとする矛盾を射抜いているといえるでしょう。
ジジェクのこのような資本主義観を見つめ直すと、私には、金融資本を崇拝している者達が、最後に辿り着いた先で、恰もイタチの最後っ屁のごとき様相を呈している風に受け取りましたが、そこには、隠されていたエリート優遇策の本質的部分の矛盾点が押し出された形で、自爆していく先駆けの思想のように迫ってきました。まさに、私にとっては、とても斬新な捉え方に違いありませんし、まさしく圧巻の内容でした。
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