http://www.asyura2.com/10/hasan69/msg/174.html
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日本の産業社会の戦略理論というか、日本経済の構造理論に属すか微妙だが、実に興味深い生存戦略についての対談が、『財界にっぽん』という経済誌に出ていた。
海外に住み世界で活躍する日本人の視点は冴えていて、こういう観点で日本の生存戦略を考えるというのは凄いことだ。藤原氏は『さらば暴政』の著者として、その理論的な文明論で知られた人だが、こういう発想が日本の言論界に不足している。
http://www.amazon.co.jp/dp/4860293053?tag=asyuracom-22&camp=243&creative=1615&linkCode=as1&creativeASIN=4860293053&adid=1H11R4HHWAJPHC4E58NH&
文明論から日本の産業社会や経済の将来について論じたものが、日本の経済誌に不足しているから、日本はだめな国になってしまったのだ。『東洋経済』『エコノミスト』『ダイヤモンド』『日経ビジネス』などの経済誌が、景気だとか株の投資などの記事を前面に出し、後は企業情報や新製品とか土地の値段など、どうでもいいことばかりを取り上げて、国家戦略など論じたことがないのが、今の日本の没落の延引になっていると思う。
本質を論じるエコノミストがいなくなり、金儲けのことばかりにあくせくしていると、言論界はカネの亡者のばい菌で、国家経済をだめにしてしまうと思う。
<貼り付け>
http://fujiwaraha01.web.fc2.com/fujiwara/article/zaikai100701.html
国際舞台で存在感を喪失し続ける日本
大局観とデコンストラクション思考
に欠けた日本の悲劇
坂田英雄(画家・リラ会長、ロサンゼルス在住)
vs.
藤原肇(慧智研究センター所長、台湾在住)
情報革命による
地球村の誕生
藤原 現在われわれが体験している情報革命の核心は、世界中を結ぶインターネット網を瞬時に流れる情報効果であり、空間と時間がほとんどゼロになってしまったので、場がモノやコトの在り方にモロに影響を及ぼしている。具体的には地球上が一つのコミュニティになったことで、世界の中で会社や個人が直接的に繋がりをもち、コミュニケーションや取引などの交通関係を確立したことです。人間が動かなくても情報が瞬時に動く効果によって、地球が一種の村のような存在になっており、世界は人類にとって一つの村と言えます。
『世界がもし100人の村だったら」(マガジンハウス)がグローバル時代の民話として、絵本になり多くの人に感銘を与えベストセラーになったが、これはインターネットのフォークロア(民話)であり、「ネットロア」と呼ばれています。
坂田 子供が見ても大人が読んでも感じるものが多く、実に優れたメッセージに富む独創的な絵本だと感心しました。
私がこの本を開いて中身を見て得た印象は、取り扱う事柄が数字として百分比で構成されていて、色も比率で塗り分けられているという配慮がある。だから、子供たちに構図や色感の基礎を教えるだけでなく、描かれている子供の顔が表情豊かであるせいで、大人にも想像力の秘める魅力を感じさせます。
藤原 アイディアは『成長の限界」を書いた環境学者のドネラ・メドウスらしいが、オリジナルな発想が現代版の「ガラス瓶の中の手紙」としてサーフィーンして、情報の海のインターネット網を通じて人々にメッセージを伝え、「星の王子さま」(岩波書店)に続く久しぶりの素晴らしい絵本です。そして、受け取った人が自分流に付け足したり削ったりしながら、地球市民の間をEーメールで送られたことで、より普遍的な内容を持つネットロアに変身したのです。その点では、作者と観衆の間の相互反応で完成度を高めた、シェークスピアの演劇脚本の出来上がり方に似ています。
坂田 絵画を含めて芸術作品の持つ永遠性の秘密は、作者と鑑賞者の間の相互反応によって完成度を高める点で、良い作品は作者と愛好者の間の作用と反作用であり、インターネット時代はそれが世界に向けて開かれています。
藤原 そうですね。しかも、このネットワーク網は外に向かって開くだけでなく、従来の一方向性から双方向性を経てネットワーク型として、総ての相手と結びつきを持っている点では、最高のコミュニケーション機能を果たしている。何でこの絵本の話を引き合いに出したかというと、米国のゴア元副大統領が「情報スーパーハイウェー」と呼んだものは、インターネットによる情報網として世界に張り巡らされ、国境の意味が形骸化して世界が地球レベルの共同体になり、現代におけるローマ帝国が生まれようとしています。
坂田 アメリカの覇権主義が世界を支配しているので、それを現代版の世界帝国だと理解する限りにおいて、20世紀全体が帝国主義の時代でした。だが、21世紀の今の時代にローマ帝国がなぜ復活するのでしょうか。
帝国主義に続く
帝国の誕生
藤原 その答えはイタリア人のアントニオ・ネグリが用意していて、彼がマイケル・ハートと共著で出した『帝国」(以文社)の中に書いてある。
それを一言で表現すれば、グローバル化の世界秩序はマルチチュードで支えられ、「帝国主義が帝国で置き換わる時代」が訪れたということです。国境をもたない帝国という言葉には新しい概念が伴うが、それは帝国として内部と外部の区別が消え去り、帝国がマルチチュードによって特徴づけられることによって、多様性の集合体としての存在になる。
また、歴史的には19世紀から20 世紀にかけて発展した国民国家は、帝国主義的な侵略戦争を展開したために、国境線に基づく国家中心の世界秩序を定着させました。だが、それは束の間の現象に過ぎないのであり、情報革命の進展と経済の世界化で国家の役割が低下し、高貴な人の責務(Noblesse oblige)で漲る21世紀型の帝国として、情報網による脱中心化で人民主権が実現するのです。
坂田 何となく分かったような気分になるが曖昧さが残り、イメージとしてしっくりしたものが捉えられない感じだが、それがどうしてローマ帝国に繋がるのですか。
藤原 ローマ帝国が誇った三大インフラストラクチャーは、街道、上下水道、ローマ法だと言われている。
また、ローマ帝国ではインフラ作りは公共事業だったが、ローマの街道はネットワークとしての情報網でもあった。だが、現在のアメリカ人は「情報スーパーハイウェー」として、人工衛星とコンピュータを組み合わせてインターネット網を構築したが、それは軍事技術の応用で情報革命の副産物でした。しかも、米国の覇権による帝国主義的な世界支配の構造は、国境の存在価値と役割が著しく低のにこれから変貌せざるを得なくなります。
坂田 「全ての道はローマに通ず」という言葉の通りであり、大変な道路網をローマ人は作り上げていまして、アッピア街道などは20 00年後の現在も健在です。それもおっつけ仕事ではなく計画的に設計しており、平らな石を敷き詰めて両側に歩道までつけて、公共事業に巨大な税金を惜しみなく投入している。確かに、アメリカが作ったインターネット網は軍事目的だったが、民間も利用して世界的な規模で普及したので、帝国主義的な性格は薄まっているのは確かなようです。
藤原 帝国主義における支配網について見れば、世界市場の制圧に水路を全世界に張り巡らした英国が、商船隊と通信網で植民地を支配している。この海を支配した英国型の帝国主義に続き、アメリカが道路網と航空網を世界に築き上げた。
また、軍事目的の人工衛星を使ってインターネット網を作り、帝国主義の覇者になった米国の世界支配の方式は、公共事業としてインフラを作ったローマの帝国とは違い、資源を確保するための世界制覇になっていた。
ローマ人が作ったのは文明世界としての帝国だが、英国や米国が作った帝国主義は収奪体制であり、極端な形がネオコン的な弱肉強食のスタイルです。だが、ローマ帝国は人材も帝国領内から抜擢したし、属州を差別しないで同じ方式でインフラを建設しており、ローマの水道として有名なセゴビアや二ームのポン・ドゥ・クレにしても、実に立派な石造りの水道用の橋を建設しています。
南国と北国に見る
文明と世界観の違い
坂田 そういう捉え方をすると隠れていたものが見えて来て、アングロサクソン型の文明とラテン文明の違いが浮かび上がってくる。それは建築や絵画の世界ではっきりと現れており、寒くて神秘的な雰囲気が好きな北海型というか、霧や闇の中に光が差し込む北方の画法に対して、ズボラでも太陽が光り輝く南国の陽気さを持つ、色彩感に富んだ明るい雰囲気を湛えた地中海型の画法は大違いです。
藤原 ヨーロッパでは語幹にアートを持つ職人をアルチザンと呼び、工芸的な仕事ぶりを職業としてメチエと名づけているが、職人気質が今でも生きているフィレンツェの町に行けば、手作りによる工芸品の良さを心から楽しめます。それはイタリアのランボルギニを始めとして、フェラリやランチアというメチエに属す自動車工房がある。日本の自動車会社でその系統に属すのはスバルとホンダだろうが、トヨタやニッサンは米国のビッグ・スリーと並んで、工業的な大量生産型のシステムによる車作りです。
坂田 工房には親方という一流のアルチザンがトップにいて、その下で何年も弟子が修行して腕を磨くシステムだが、21世紀はメチエが評価される時代の復活です。だが、トヨタやキャノンは従業員の三分の一が派遣やパートであり、ロボットや奴隷的な作業員を使っているために、品質は良くても個性の無い製品の生産が主体である。フェラリやベンツを見て痛感するのは顔があるという点だが、トヨタやニッサンは品質や値段は良くても、トヨタが誇るレクサスは私には個性が感じられません。
藤原 トヨタやキャノンの会長が日本経団連の会長になったが、看板としては経団連だが実態は収奪路線の日経連の系統であり、これは平成日本における「カンバン方式」の蔓延です。
それは自民党を名乗っても中身は大政翼賛会であり、弱肉強食のネオコン政治の日本版が君臨したように、体質は旧態依然であるのが最近の日本です。
坂田 残念ですね。トヨタは外貨の稼ぎ頭だと評価されているが、職人気質というのは気が済むまで徹底的にやる熱意を持ち、金銭的な価値によって手抜きや妥協しないのであり、人間を大事にしない職場からいいものは生まれません。メチエは人に説明するためではなく自分との闘いだし、自分の心眼で見たものを形にする厳しいプロセスです。
藤原 自動車の主体は中級品で生活に使う道具であり、一台が百万円とか三百万円レベルの値段によって、多くの人が自分に見合ったものを選んで、消耗品として実用のために買っている。従来の日本の産業は大量生産の品物が中心で、趣味の製品は民芸品や手作りの工芸作品だったが、独創性のある顔のあるものを生産することは、工業製品の分野にとっても必要な進化だと言えます。
坂田 中級品は労賃の安い発展途上国に追い上げられ、高級品と共に個性的な商品の開発に全力を挙げない限りは、日本の産業社会の未来はジリ貧になる。また、高級品を指向するためには芸術性や個性との調和が問題で、経済問題と趣味の融合が決め手になるのです。藤原文明社会論の正慶孝教授が論じたことだが、資本主義には三つのキーワードがあり、第一の産業を意味するインダストリーは勤勉を意味し、第二のビジネスは忙しいという言葉に由来しており、第三のネゴシエーションは暇でないことを言うので、資本主義の特徴は「勤勉で忙しく暇が無い」ことを指すとか。だが、21世紀の社会のライフスタイルは、遊び心を持ったホモ・ルーデンスが主役になり、人々が余裕を持って生活を楽しむ時代の自動車の作り方は、フォード主義からトヨタ方式を経てボルボ主義になるそうで、とても興味深い指摘だと思って感心しました。
坂田 その指摘を『ジャパン・レボリューション」(清流出版)で読んだ時に、私はなぜトヨタよりボルボの方が進んでいるのか不思議だったが、部分と全体を見る視点の違いだと分かって成程と思いました。製品としての自動車だけを見るのではなく、製造工程まで展望するとそういうことになると納得したのです。
イタリアの自動車会社の
トップの自信と世界観
藤原 イタリアを中心にした南国のルネッサンスに対して、アルプスの北側の北方ルネッサンスの違いとしては、地中海的なメチエヘの執着が芸術の伝統と結びつき、北方は工業化によるデザイン指向をもたらせている点です。機能性が重要度を増す工業製品や建築もそうだが、絵画の世界でも南と北の差は興味深いですね。
坂田 イタリア、スペイン、フランスの絵には魂が篭っており、北方ルネッサンスに影響を与えたデュラーはイタリアで学んでいるが、デュラーやホロバインの絵は頭で描いたもので、そこに風土や文化に根ざしたものが読み取れます。エンジニアリングで幾らトヨタが品質の良さを誇っても、それはあくまでもテクノロジーの問題であり、メチエの作品としてのフェラリやランボルギニとは全く違うのです。
藤原 フェラリの名が出たので興味深い話を思い出した。フェラリの社長で今はフィアット・グループの社長になっているコルデロ・ディ・モンテセモロは、「自動車の生命力は品質とデザインと構造の三つであり、日本人やドイツ入はエンジニアリング指向だが、われわれの勝負はこの三つの特徴を生かすことで、特に内装でサロン(客間)の居心地の良さを保持していく」と言っています。
彼の視点で見るとレクサスは優秀な高級車であり、ステレオにナカミチの高級アンプを付けて努力しているが、内装ではフェラリやランボルギニにはとても太刀打ち出来ない。
坂田 その視点は流石に芸術の国イタリア的な発想であり、日本の寺院建築の現場において生きている精神と同じで、モノよりも心を大切にする伝統が生きています。
藤原 モンテセモロは今ではフィアット・グループを統括していて、「フェラリは客間だがフィアットは台所で必要を満たすのが役割だ。だから、フィアットの競争相手はフォルクスワーゲンや米国系の大衆車であり、フィアットとフェラリの中間の車は寝室的な技術マニア用だから、ベンツやレクサスはドイツ人や日本人に任せる」と言っています。
坂田 面白い発想ですね。個性を開いた形で表現する点で芸術的であり、フェラガモの靴やエルメスのハンドバッグをブランド品と呼ぶのは、芸術作品を身につけるには風格を伴うことが必要だということで、それはアイザンがメチエで作った作品だからです。
大体、イタリア人はローマ空港に芸術家の名前をつけ、レオナルド・ダヴィンチ空港と呼んで喜ぶのに対して、アメリカ人はケネディ空港やダレス空港と政治家の名前だし、技術主義の日本人は成田や関西と地名をつける通り、趣味と感性の違いが見事に現れているのです。
藤原 なるほど。かつての米国では日本製の自動車が多かったのに、最近は韓国車の進出が目覚しいと坂田さんは心配しているが、モンテセモロの考え方による区分に従えば、ヒュンダイやキアを敵視する必要はなくなる。それは超高級車であるロールスロイス、ランボルギニ、フェラリに対して、ベンツ、BMW、レクサス、インフィニティ、アキュラ、ボルボなどの高級車がある。次にトヨタ、ホンダ、ニッサン、米国のビッグ・スリーの中流車と共に、フィアットやフォルクスワーゲンの大衆車が共生し、発展途上国が価格で勝負の大衆車を作るようになったが、それを脅威だと受け取るのは杞憂だと言えます。
坂田 そう言われると成程という感じがする。自動車に限らず工業が作る機械製品を見る場合に、全体性の中で生きてくる価値の存在を見失うと、部分的な価値だけを注目して流行現象に目を奪われてしまう。
絵画の場合は一発で大作を試みても歴史に残らず、たとえばセザンヌは見た目には大した印象を受けないが、彼の絵は見慣れると深みが出てくるのです。それは欠点をどんどんと改めているせいで、作品の背後になぜこの絵を描いたかという哲学が伝わっており、時の流れを通じて絵の持つ意味が分かってくる。そうなるとプロの評論家がいろんな意味づけをするし、見慣れるに従い絵の持つ味が理解されるのです。完成品が最良という先入観の支配を捨てれば、セザンヌやピカソは未完成のものに良い絵が多く、そうした未完成の絵を楽しむ人が増えて欲しいし、それが全体と部分の調和を捉える視点を育てるのです。
良い工業製品にもそうした側面があり、消耗品として消費する商品として売るものについては、発展途上国の人々に任せたら良いことになります。
町造りに協力する
投資における
国際化時代の心構え
藤原 トヨタやホンダがヒュンダイやキアに追い上げられ、ソニーや日立がサムスンに圧倒されていると嘆いたのは、坂田さんが日本を思う心の一断面だと思う。むしろ、韓国が日本を追い抜いたり肉薄する商品を生産して、世界の市場で競争する相手に育ったと喜ぶ心の広さが、愛国心よりも大切な国際感覚になります。
同じことはアメリカにおける日本人街が姿を消す現象にもいえ、本国での経営悪化を口実にして資本を引き上げ、売り逃げをしたのでは自慢にもならないし見苦しい。だが、「リトル東京」や「日本人街」が町のインフラとして自立して、アメリカの社会で他の人と共生し始めたので、別の場所に新しい構想で街づくりの投資をするために、今の所有権を手放して新しい挑戦をするのなら、素晴らしい長期投資だと評価できるはずであり、そのようにやって欲しいものだと思います。
坂田 人件費や土地が安いので中国に投資したが、賃金が上がったので更に安いベトナムに工場を移転するために、日本の企業が右往左往する状態が起きたのは、アメリカと同じ全てをカネ勘定で行く経営方式のためで、結果は産業の空洞化で国民が貧しくなるだけです。次の世代のためとか地球に住む同胞という発想で、自分中心の利己主義と拝金主義に支配されないようにして、潤いのある社会を育てないと行き詰ります。
藤原 25年前に森暁さんと石油掘削会社をやったが、彼はベンチャーを通じて果樹園経営する夢を持っていて、「私はいざとなっても木を引き抜いて日本に持ち帰るような、けち臭い考えでアメリカに来たわけではない」と言ったので感銘しました。投資というのは単なる金儲けのビジネスではなくて、木や人間を育てるのと同じで地域の発展に寄与し、共に繁栄を分かち合う社会活動だと考えるべきです。
明治の日本には渋沢栄一のような経営者がいて、企業や学校の創設や町のインフラ作りにも熱心で、理想的な社会を育てるために視野の広い先駆的な役割を果たし、『論語講義」のような素晴らしい本まで書いている。ところが、私益のために公共の道路を使いまくり、公共性を犠牲にした「カンバン方式」を自慢して、利益至上主義を喜ぶのが今の経営者です。
坂田 全くです。今の日本の財界のトップには理想を見失って、金儲けばかりに夢中で会社の売上高を誇るだけであり、会社は栄えるが国は滅んでも構わない感じがする。
藤原 社会主義は亡んでも社会が亡んではいけないのであり、文明的に見ると国家は社会のサブシステムであるし、会社は国家の更に小さなサブシステムに過ぎない。大局観を失ったことで日本人は社会を弱体化させているのに、それに気づかないまま拝金主義の病魔に毒され、明治以来せっせと築いた近代的な社会を破壊し、閉塞感の中で経済大国の夢を追っている日本は、共進する世界の動きから立ち遅れている。同じことは産業が空洞化したアメリカについてもいえ、アメリカ人が買わないビッグスリーを放置し、一日に500 億円の戦費を浪費して衰退し続けているが、行き詰った米国の路線に追従し続けるだけの日本は、政治のあり方を改めない限り救いがありません。
坂田 明治時代の日本人は物質的には貧しかったが、心の中には精神的な豊かさと挑戦の意欲があって、国造りをしようという気概を持ち合わせていた。だが、政治が理想やビジョンを語らなくなって久しく、国民が見捨てられた状態が続いているが、これは拝金主義と技術市場主義の中毒を断ち切り、こんな弊害からの脱却が何にも増して必要です。
藤原 これも故正慶先生の発言だが、『20世紀はテクノクラートが万能として君臨したが、彼らは与えられた課題を解決する上では有能だし、解答を一定の方式で出すことには長けていても過去の功労者だ。21世紀には複雑性が支配する変動の時代だから、将来を見通す能力を持つテレオクラートが主役になり、過去の歴史を踏まえて未来を大局的に展望して行くことが、何にも増して重要になることは確実である。また、エコノミストは過去からのフィードバックに力点を置くが、未来を展望しながら現在をどう変革するかを考える、フィードフォーワードの姿勢が重要だ」と強調しています。
坂田 矢張りフィードフォーワ! ドに戻りましたか。サムスンがそれに気づいて本格的な変革に取り組んだのに、日本人はフィードバックに重点を置きすぎて後れを取った。 だが、この失敗に学んで欠点を改めて長所に転換すれば、「失敗は成功の母」だから希望が持てるということになる。だから、何といってもフィードフォーワードと大局観が決め手ですね。
藤原 日本の十倍も人口を持つ中国人がそれに気づいて、フィードフォーワードを叫びだす前にその重要性に気がつき、それに加えて大局観を実につけることにより、日本の未来はより確実なものになると知るべきですよ。(次号に続く)
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