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(回答先: 「団塊の世代」の年金は維持できるか――「失われた20年」と年金の危機 投稿者 gikou89 日時 2010 年 6 月 01 日 22:54:03)
官権に媚び諂うマスコミによる人権無視の暴威
「暴力団」の大相撲観戦問題の報道こそが「反社会的キャンペーン」である
晴れやかな天空から爽やかな風が吹く日が続き、初夏の香りに老体も休まるかと期する筆者を憤怒に引き戻した一報が、件の「暴力団相撲観戦問題」であった。
昨年の大相撲名古屋場所において山口組弘道会幹部ら延べ55名が、現役親方が手配した入場券で取り組みを観戦していたことが明らかとされ、これを以て「社会的に許容されることではない」(安藤隆春警察庁長官)、「国技の相撲が毅然と暴力団排除するのは当然」(中井洽国家公安委員長)などと当局が批判。相撲協会も当事者となった親方の部屋を取りつぶすという戦後初の処分を決定し、マスコミも「暴力団排斥」の旗の下に連日この問題を取り上げた。
結論を先に述べれば、この問題は警察権力主導による庶民社会の解体という、重大な国家的危機を孕んでいる。
そもそも「暴力団」なる言葉が、警察権力とメディアが連携して庶民社会にまで定着させた官製造語であることを前提にしなければ、この問題に対する冷静かつ公正な判断はできない。
権力側は、いわゆる「ヤクザ」と呼ばれる任侠組織とその構成員を「常に暴力行為で不当な利益を得る反社会的勢力」であると概念化することによって、権力側の存在価値=利権を担保してきた歴史的事実を、われわれ庶民は注意深く思料しなければならない。監視し取り締まるべき悪や危機が日常的に存在しなければ食えないのは警察権力のほうであるのだから、「ヤクザ」をその象徴とすることで犯罪者が不在のときにも、警察の仕事(予算の取得名目)をいくらでも作ることができる。
麻薬取締や銃刀法不法所持、賭博開帳や売春禁止法、または一般的な恐喝、脅迫、傷害に至るまで、主に「暴力団」が検挙されるような犯罪容疑は既成の刑法で適用可能であるにも関わらず、わざわざ暴力団対策法や組織犯罪対策法を作り、「犯罪」ではなく「ヤクザ」という存在そのものを悪にしたその理由はなんだろうか。
権力が「ヤクザ」を「暴力団」と宣伝する必要は、権力の新たな利権創出にほかならずメディアは腰を振って権力に媚び、庶民大衆が長い歴史をかけて積み上げた義の情理、いわゆる仁義の世界を暴力団という官製造語の囲いの中へ追い込み、犯罪集団として足蹴にしているのだ。
法理の正確な運用からも、違法行為はまさにその違法行為を以て罰則を科している。いかに悪そうにみえる人間でも犯罪事実やその準備事実がないのに容疑者にすることは許されないことは誰もが知っている。
それなのに、「国技」の相撲を「ヤクザ」が観戦したことを反社会的と喧伝するのは、「暴力団」という語が「ヤクザ」に対する庶民の倦厭感を誘導することを官権力が深く研究熟知しているからだ。
申し置くが筆者は「ヤクザ」の利権に与する立場にはない市井のジャーナリストを自負している。拙著『侠 - 墨子 -』に詳述を譲るが、筆者は享楽的な生活のために庶民を脅かし犯罪に手を染める自称ヤクザを「偽ヤクザ」と定義し、また任侠組織社会については紀元前の中国の思想家で「ヤクザ」の原点でもあった墨子の思想に感応して「偽ヤクザ」を撲滅すべしと公言しているが、これに対して任侠組織から抗議を受けたこともない。
簡明にいえば「ヤクザ」と「犯罪者」が同じではないこと、「ヤクザ」が「犯罪予備軍」ではないこと、それを知ることが、庶民社会の健全な形成をなす大きな鍵である。
事実、全国の刑務所に収監されている懲役受刑者のうち「ヤクザ」は30%程度であり、7割の「犯罪者」はいわゆる「カタギ」である。それは「ヤクザ」が犯罪のプロフェッショナルで狡猾のゆえに、容易く受刑者にはならないからではない。
一般には「ヤクザ」社会は構成員らの上納金等、ピラミッド型の搾取によって組織上層部の利権を拡大し、下部組織は(多くの一般企業と同様に)契機が到来すれば自分もその利益を支配する地位を得られると期して組織に従うものだと誤解されている。そして、これら任侠組織の結束を強固する条件が暴力であるとも信じている。無論、腕っ節の弱い者が「ヤクザ」社会の指導者になることはあまりない。かといって、ただ好戦的な乱暴者が組織を統率できるはずもない。一例を挙げれば、日本社会で差別的な扱いを受け続けるいわゆる在日朝鮮人のある青年に、ただひとり優しく声をかけてくれた人物が「ヤクザ」だったという場合、彼は「暴力」ではなく「博愛」に感動して任侠的家族の一員となることを志願する。
こうした逸話を述べると、残念なことに少なからずの庶民が「それは暴力団が構成員を増やすための戦略だろう」と反応する。「差別」や尊義の精神を知らない人か、すべての人間が利欲で生きていると信じたい人の自己欺瞞というしかない。
筆者の知る限りでも、上納金(任侠組織社会では「会費」と呼ぶ)を一切受領しない親分は現にいくらでも存在するし、構成員(子分)を暴力で支配するものが「ヤクザ」社会なのではないことぐらい判っている。自分よりも弱い立場を食いモノにする「偽ヤクザ」は論外として、「ヤクザ」は親兄弟への敬意や友愛と義を軸とする疑似家族的な情理によって結束している。
こうした情理よりも、市場主義や競争原理の名の下に金銭の独占的獲得のために道義も倫理も捨て置くのは、むしろ「カタギ」の企業社会や警察権力を含む官界が得意とするところである。
少なくとも「ヤクザ」がリストラされた例など聞いたことがない。なぜなら、彼らの概念や行動律は利益ではなく家族的共同体の維持それ自体が目的だからだ。
真のマイノリティである「ヤクザ」たちが、自分たちの帰る「家」を持とうとするものが任侠組織の精神文化である。それは血縁者による家族態様となんら変るものではない。たとえば、ある家庭の子供たちが被扶養家族であるうちは大黒柱の家長が生活を支えるが、親が老いたときには子が当然のように親の余生を助ける。これを上納金制度だとか見返りを求める便宜供与だとか批判する庶民はいないだろう。家族という、いわば最小単位の結社に人が心を寄せる「合理的な理由」などがあるはずもない。多種の生物と同じく、人間もなんらかの共同体に属してこそ生きるのであり、「ヤクザ」社会もそのひとつだ。
彼らが「犯罪」によって社会に不安や損失をもたらすこと以外においては、「ヤクザ」社会の人間であるというだけで反社会的勢力であると断じることは、結社の自由を定める憲法にも反する、まさに反社会的思考なのである。
人間社会の自然な営為としてある家族または同族意識による結社の一種である「ヤクザ」を、庶民社会から抹殺するために権力装置によって工作された戦後のキャンペーンが「暴力団」なる造語による社会洗脳だった。
諸国等しく「ヤクザ」は小説や映画の材になるほど庶民には共感を与える種類の人間だ。官のように役職だけで利権を貪るのではなく、財閥のように先代からの資産にあぐらをかくのではなく、商売人のように損得が意志決定の条件なのではなく、「ヤクザ」は人として「かっこいいか、かっこ悪いか」という、純朴といえば純朴、シンプルといえばこれ以上ないほどシンプルな情理で社会に立ち振る舞う。
「本物のヤクザ」には、良くも悪くも人間的な魅力を持つものが少なからず存在する。「任侠」とは「本来仁義を重んじ、困っていたり苦しんでいたりする人を見ると放っておけず、彼らを助けるために体を張る自己犠牲的精神」 である(フリー百科事典「ウィキペディア」の「任侠」の項より引用)。
この「義侠」の精神構造を有したヤクザ世界のエートス(行動律)は、近代法という「万人に公正な紛争解決の手段」で運営される近代国家の統治システムにとって、政治運営における推進の遮蔽物に過ぎない。そのためこれを破壊対象にせざるを得ないのだ。高度にシステマティックな現代社会にあって「任侠」の世界とは、情理の一点においてあまりにも純粋である。そのため官製造語である「暴力団」という汚名を被せ、破壊対象とされた。
それでもなお「真の任侠」を人生のテーマと志向する人々が姿を消すことはない。サラリーマン社会にも、政治の世界にも、あるいは芸術の世界にさえ、「任侠」を心に秘める人々はたくさんいる。
「ヤクザ」をそうした「任侠精神」の一つの象徴とするのは、現実から乖離したファンタジーの類かもしれない。有名な中国文学「水滸伝」には宋江という実在のモデルが存在するのだが、作者はそのモデルに庶民の大いなる夢を託し、モデルを中心に大勢の義侠に生きる好漢を配置し、貪官汚吏を懲らしめる痛快な物語を展開させた。中国における庶民文化は古来より大いに侠を称え、義に生きる漢たちを胸の内に迎え入れたのだ。
本当の「ヤクザ」の世界には、義侠を核とした、任侠の世界からしか生まれ得ない、あたかも水滸伝のような浪漫とファンタジーを求めるに値する風景が存在するのは事実である。だからこそ「ヤクザもの」は庶民の娯楽の要素として人気を博してきたのであり、だから現実社会でも「ヤクザ」は庶民の相談役としても機能してきたのだ。
先頃、元官房長官の野中広務氏によって官房機密費の存在とその使途が告発された。巨額の国税がときの政権当事者やこれを担保する政治評論家などの有識者に小遣いとして慣例的にばらまかれていたことがわかった。
本来、こうした巨悪を討つ者が「ヤクザ」社会であるはずだった。しかし、権力が「ヤクザ」を「暴力団」だと庶民社会に誤解させることに成功した結果、暴力団対策法などの新法施行が正当化され、権力者はいかなる犯罪および反社会的行為を働いても討たれない特権を手にしたのである。
権力は、庶民社会の為ではなく自己防衛のために「ヤクザ」を「暴力団」と位置づけたのである。権力の自衛手段は、行く手を阻む者は敵と看做し容赦なく殲滅して自己の防衛に尽くすのだ。政官の世界が生み育てた巨悪がいかに日本の国家を蝕み、喰らい、歪めいずれ我が日本を自壊させるだろう。
ここで再び、大相撲を観戦していた「暴力団」に話を戻そう。
これまでの筆者の見解に眉をひそめる向きは、まず普通に考えてみればいい。相撲を観戦すること自体が犯罪であろうか?
力士の取り組みを見守る観戦者が、たとえ「ヤクザ」と呼ばれる立場の者であったとしても、彼らはその場所で反社会的な行動を示したわけではない。「ヤクザ」に入場券が渡ったことを以て、反社会的勢力の脅威というならば、小売店を通じて「ヤクザ」が買う煙草ひとつですら問題となり、TOYOTAやベンツの高級車を販売する自動車ディーラーもその車を「ヤクザ」が所有すれば社会的制裁を受けなければならないことになるし、縁日の際にはいずれも「ヤクザ」と歴史的交流を持つ香具師(テキヤ)の屋台が並ぶ日本中の神社と寺院は取りつぶされることになる。
「ヤクザ」が犯罪を行ったのであれば、その「罪」は然るべく裁きに合い「罪人」は罰を受ける。しかし、犯罪を行ってもいない「ヤクザ」を「暴力団員」の呼称の下に社会的に隔離し断罪しようとすることは、「差別」にほかならない。
最近では銭湯や遊園地などの私営プールでも「刺青がある入場者のお断り」をしている。「刺青」をしている人間は「暴力団」を想起させ、ほかの客の精神衛生を害し、また反社会的行動が予想されるという、あまりにも稚拙な「社会浄化」の概念も、権力装置とメディアによる「暴力団」キャンペーンによって常識化している。
いまの庶民社会は、どこかに違和感を抱えながらも「暴力団」を否定し排斥することは国民的義務だと考えるようになっている。筆者も賛成だ。それが「暴力団」であるならば。
憂うべきことだが、いまの日本には「偽ヤクザ」も少なくない。弱者を助けなければならない「ヤクザ」の代紋を持ちながら、振り込め詐欺や闇金融によって享楽を得ようとする愚かな者たちが、庶民社会に吹聴された「暴力団」の概念を補完し、権力に与するという本末転倒を惹起している。
そのような任侠組織社会の精神文化のゆるみが、権力に扇動された庶民による「ヤクザ=暴力団」という観念を温存している。
だが一方では、自己権益の肥大化のために「ヤクザ」という存在の人権すら排斥する権力の極めて恣意的な運動によって、「ヤクザ」が法を犯す「暴力団構成員」に変質されたという側面を庶民社会は否定できない。
「食うのに困ったら犯罪をしても仕方がないと考えること自体が『暴力団』の性行であり、だから排斥しなければならない」または、「生活苦にあえいでいても、法を犯すことなく人を傷つけることなく生きている人間はいくらでもいるし、そのほうが『普通』なのだから、やはり『ヤクザ』は悪いのだ」と意見する人がいるなら、それは大きな誤謬だ。
仮にあなたが役人で、ある日突然「役人は民の税で生きているのだから、映画も芝居も相撲も観ることは許されない。血税を払っている人間だけが娯楽を楽しんで良いのだ」といわれたら、どう思うだろうか?また、そのような社会が庶民に望まれていると思うだろうか?
議論の飛躍ではない。いま報じられている山口組の相撲観戦問題は同じことをいっているのだ。
犯罪や反社会的行為を行った人間は罰せられて当然である。それが役人でも代議士でも資産家でも「ヤクザ」でも。
しかし、違法に入場券を奪ったのでもなく相撲を観戦した者が「ヤクザ」であったというだけで反社会的だとするのは、明らかに人権に反する考え方である。実際には、犯罪や反社会的行為に手を染めても、役人や政治家や資産家は逃げおおせることのほうが多いではないか。筆者の知る政治家の大半は、悪しき事を致すのを当然とし、余程の悪でない限りその筋はそ知らぬふりをしている。たまさか政治家が悪しき事で逮捕される確率は、競馬で大穴を当てたのと同じである。いっそのこと政治家の皮を被っている連中を「特別暴力団」と呼称すべきだと思うが。
今回の相撲観戦問題では「一般の相撲ファンがなかなか入手できない維持席のチケットを「暴力団」の威嚇力によって入手したことが問題だ」とする意見もあった。
それはすべて「差別」を肯定する意識から生まれる考え方である。なぜなら、どんな世界のどんな関係者にも情実的な処遇というものはあるからで、チケット入手が難しい人気歌手のコンサートでも、その関係者に予め席が用意され、一般ファンの枠が減らされているということは珍しくはない。
このように話を進めると「暴力団とコンサート主催者を一緒にするな」と反論されそうだが、そうした反論は人権というものを正しく理解していない人の感情論でしかない。
チケットを手配した親方たちが、仮にそれが「ヤクザ」に渡るものだと知っていたとしても、そのこと自体が反社会的な行動であるはずがない。「ヤクザ」がなんらかの犯罪行為を目的に相撲観戦したというならば、あるいは犯罪幇助とされないこともなかろうが、彼らは観客として観戦していただけである。
ほかにも「テレビを通じて受刑者となった仲間(特に今回では六代目山口組組長)に姿を見せる目的もあった」などという報道もあったが、これこそなんの犯罪性があるというのだろうか。
強いてここに犯罪性を見つけようとするなら「暴力団の結束力を高めさせてはならない。なぜなら、結束した暴力団は社会を破壊するからだ」という支離滅裂な理由による。
これらの解釈は、「ヤクザ」はなにをやろうが「ヤクザ」というだけで悪であり、「ヤクザ」を自認する人間同士が組織してはならないという前提を、疑いもなく主張していることになる。
重複するが、「ヤクザ」と犯罪者は違う。現行法でも、たとえ指定暴力団の構成員だからという理由だけで、なんらの容疑もなく検挙することはできない。つまり、論理的矛盾は「ヤクザ」を「暴力団」とした時点に遡る。
国家的な洗脳によって庶民の多くが「ヤクザ=暴力団」という条件を無防備に受け入れ、それゆえに「いかなる場合でも」ヤクザ社会の住人は社会に敵対する存在であると信じている。
いや、庶民の心底では「ヤクザ」が絶対悪などとは信じてはいまい。ただ、権勢が作り変えた「特権者にとって有益な社会」から流布された目くらましの常識論が「ヤクザは犯罪者ではない」といえない空気を醸造してしまったのである。イジメの構造に等しく、それを口にすれば「おまえも暴力団関係者か」と指弾されることを怖れる庶民が増えてしまった。軍国主義に反する民主主義者を虐殺したかつての日本や、異教徒を処刑していた前近代時代の欧州となにが違うのだろうか?
重ねて付言しておきたいが、筆者は「偽ヤクザ」や「犯罪者」の味方ではない。ただし「ヤクザ」なら堂々と擁護する思想的立場をとる。それは誰にでも与えられなければならない人権という観点、同時にあらゆる「差別」の廃絶を主張する立場からである。
日本が理想的な人権国家などというのは事実誤認というべきだろう。監視カメラの運用や犯罪容疑者の取り調べや拘留、受刑者への処遇などにおいて、わが国は主要国で最も遅れた人権意識に基づく法制度を維持していることは国際的に知られている。
現在、日本の自殺率は過去最高値を記録し、いまだにホームレスが溢れる。犯罪者ですら刑務所という行き場がありながら、「ヤクザ」というだけで目の前から排除しても彼らは「どこかで」は生きなければならない。また生きる権利がある。
いまの相撲観戦問題は、日本社会の人権意識の劣悪さを露呈すると同時に、益々、格差社会を拡大し、犯罪の潜在化と凶悪化を助長する大変に深刻で危険な、反社会的キャンペーンであることを指摘したい。
行政調査新聞社社主 松本州弘
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