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侍が求めたもの(千葉邦雄) http://www.asyura2.com/10/hasan67/msg/666.html
千葉邦雄のニュースの落とし穴 ■水に映った満月
日本の経済は、バブル崩壊後約20年間も、経済が少しずつ縮小し続けている流れである。日本民族の自立を、アメリカに丸投げしてきたツケが、政治にも経済にも教育にも表れてきている。私たちは、経済活動の中で、消費者としてどうでもいいことばかりを必死に追い求めて、新製品や流行のブランドや自分のエゴを満たしてくれる物なら何でも手に入れようと、悪戦苦闘してきた。
少しでも幸せになりたくて、欲望の渇きを満たそうと、美味しそうな飲み物を飲めば飲むほど、なんだか塩水を飲んだみたいに、飲む前より、さらに喉がかわいた感じなのだ。どうもそれは自分だけじゃなく、皆同じ気持ちに捕らわれているようだ。水に映った満月を手に取ろうとして、触れた瞬間に、ゆらいで壊れてしまうあの感じに近い。どんな物質も、所詮それはスクリーンに映った影であって、シンボルはあくまでシンボルであって、真実の存在ではないのだ。
消費社会で生産された商品や物質に囲まれ、それに頼ればたよるほど、私たちは、安らぎを得られなくなるのだ。物が豊富になればなるほど、それに比例するように、私たちのこころは貧しくなるのだ。現象は、私たちの想念が表した影絵だとするなら、望みもしないのに、大量の物や新製品に囲まれてしまったなら、私たちは不幸になるしかない。ナポレオン・ヒルは「思考は現実化する」と唱えているが、その反対に望みもしないのに、次から次と流行のブランドや使い捨ての量産品や物に過剰に取り囲まれてしまった場合、私たちは、果たして、これからも幸福でいられるのだろうか。
■この世の栄華のすべてを与えん
聖書の中でサタンは、イエスに向かって、「ひれ伏して吾を拝せば、この世の栄華のすべてを与えん」と五感にうったえるように巧みに説得するが、イエスは、これに対してきっぱりと「サタンよ、去れ」と答えている。サタンは、五感がとらえる現象や物質をエサにして、快楽や物欲や虚栄心を刺激することで、私たちに、常に目に見える物質世界を拝させ、跪かせてきた。
私たち日本人も、経済の発展と物さえ豊かになれば、それでいいと思って、人間の支柱である精神的なこころを蔑ろにして、戦後ずっとサタンに跪いてきたのだ。そのツケが、いま私たち日本民族に回ってきている。私たち日本民族は、経済戦争でさえ生き残れば、他のことはアメリカ様まかせでいいと思ってきた。その結果として、中国とアメリカに政治的に巧みに利用され、唯一の頼みである経済的利益まで、骨までしゃぶられている状況になっている。
ローマもカルタゴも、自分の国を自分で守れなくなった瞬間、国の自尊が失われ、滅亡していっている。このままでは、日本はどんどん墜落して、民族としての自信を失っていく流れとなる。私たちは、いつのまにか「こころ」の中までモノで埋めつくしてしまったようだ。そしていつのまにか自分のことだけ良ければいい、自分の欲望を満たし、自分の欲しいブランドやお金や仕事さえ手に入れば、人のことや世の中のことがどうであろうと、まったく無関心になってしまったのです。
いまや世界と自分は、完全に切り離されていて、自分の幸せを満たすことだけで、頭の中がすでに一杯なのです。それが私たち現代人のスマートな生き方というわけです。そんな風な自己中心主義のわがままな考えが、現実の現象面に「影絵」として投影されたのが、現実の私たちの姿なのです。スクリーンに投影された不甲斐ない日本の状況や、いつも孤独で、安らぎのない私たちの消費生活は、私たちが理解できるできないと関係なく、実際のところ、モノを崇拝し跪くところの私たち皆の想念の集積が源なのです。
求めても求めても、幸せがすり抜けていく無常なる競争社会のすべての原因は、物質文明に跪いて、拝金主義になってしまった私たちの利己主義のなかに、そのわがままな「こころ」の中にあるのです。現象としての「物質」ではなく、目にみえない霊的な「こころ」に、私たちは、この不幸をチャンスととらえて、振り向かなければならない。そのためには、物質至上主義の悪魔のサタンに巧みに操られた「自我」を捨て、「物質」に対する執着心を捨てなければならない。
■人間の窮地は神の好機
墜落しつつある日本を救うために、既成の宗教組織ではなく、もしかしたらキリストのような新たな「救世主」が日本に必要なのかもしれない。それほど、今の日本社会は、何よりも大切な「精神的な支柱」が失われてしまっている。現象面である肉体を否定して、霊的な久遠の力、すべてのすべてである神の存在が私たちの中にあり、その力を信じる度合いに応じて、現象面に「奇跡」を起こせることを説いた救世主キリスト。
またジョン・フレーベルという人が「人間の窮地は神の好機である」という言葉を1690年に記していますが、完全なる自我の否定によって、初めて霊的なる神の力を受け入れることができるようになる。窮地に直面し、運命に対する自分の無力さを知らされ、自分よりも大きな超越した神なる力に全面降伏した瞬間、私たちは、予想に反して大いなる力に抱かれ、味わったことのない安らぎを引き出すことができるようになる。
あらゆる窮地や艱難は、私たちの魂を進化させ、逃げ場のない状況をして、私たちを久遠の人生の原理に目覚めさせる。そしてようやくストレスから開放され、調和が訪れる。人間的な利己主義に絶望した時、私たちの奥にある霊的で無限な力が現れてくるのである。ジョギングしている人なら、知っていると思うけど、ある意味でランニング・ハイみたいな感覚のあらわれである。
人間的にもっとも絶望したものが、逆に最も強者になるのである。かつて侍たちは、主君のために、桜が散るようにいさぎよく命を捨てることを、誇りある使命と感じていたからこそ、彼らは「強者」だったのである。
■私たちが生れてきた意味
大量消費時代に生れた私たちは、快適な生活を保障してくれる「物質」を拝むことで、イエスの言うサタンに跪いて、消費し続けねばならない物質の海に溺れている。だから、物質や目に見える現象を崇拝して、目に見えない霊的な神を、本当のところは信じていないのである。私たちの多くは、常識的な日常の行為として、意味もなく神や仏に儀礼的に拝しているだけで、つまり、信仰心はないのである。
しかし私たちが信じているいないに関係なく、宗教的に或いは哲学的に神というか、宇宙霊というか、生命の根源というか、呼び名はともかくとして、それは宇宙の原理として、宇宙が生れた最初から存在し続けていることは間違いない。また最新の量子力学では、それはサムシング・グレートとも呼ばれて来るようになってきている。
ありあまる商品、ケイタイやパソコン等の「物質」ではなく、霊的な宇宙の原理に振り向き、その久遠の豊かさを信じることができた度合いに応じて、私たちの「こころ」は平安を見出し、些細なことで「こころ」が動揺しなくなる。これらの霊的な力が自分に働いて、世の中の流れが自分に不利に働いているような時でも、逃げ場のない悲しみに包まれているような時でも、常に無限の完璧なる力が、自分を守っていてくれているのだという自覚が生れてくる。
その信仰の変化が、私たちの運命を変化させることになる。見えざる手という、いつも自分を支えてくれ、ひたすら自分の願いを実現するように協力してくれているという自覚が、昨日までの下降気味の運命からくる不安感を消滅させ、逆に希望に導かれるような明るい気持ちに、いつのまにか変化するのである。
■確かな自信
神に「こころ」を振り向けるようになったことで、あらゆる出来事の奥に、自分をいつも支えてくれている「愛の手」があることを感じることで、私たちは、絶え間なく変化する競争社会の中で、負け犬になるかもしれないという恐怖心から、あるいは夢を追いかけても、たぶんその願いが叶わないという苛立ちからくる嫉妬や怒りから、開放されるのである。神の愛が何よりも確実で、変わりなく、唯一の力であることがわかると、私たちは、始めて本当の自信を手に入れることが可能となる。
人間的な五感の快適さにたよっている限り、私たちは日々劣化していくことになる。逆境に見舞われ、自我が破壊されることで、私たちは、強烈な力を手に入れ、世の中の「強者」に変身できる。五感による凡庸な肉体の快楽を追求するのではなく、安らかな霊的な喜び、世の中の悲しみや絶望を癒すためには、私たちは何を与えればいいのか、打算や取引ではなく、無償の愛そのものが、自分の喜びになってくる。
深く安らかな霊的な喜びが、いつしか自分の喜びに変わってくる。財産も別荘も肉体も、死んでしまえば何の意味もない。死んだとき、霊的な魂だけが永遠で、久遠なのである。霊的な魂が進化をとげて、自己実現するために、私たちは、しばらくの間、肉体を与えられてこの世に送られてきたのである。
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