投稿者 ダイナモ 日時 2010 年 2 月 08 日 21:33:22: mY9T/8MdR98ug
二一世紀の次の一〇年が幕開けした。この一〇年が幕を閉じる時、二一世紀の地球経済は二〇歳になる。ようやく大人だ。どのような大人になっているのか。二一世紀の三ラウンド目の一〇年に向かって、どのような状態で足を踏み出すことになるのだろうか。
まずは、ニラウンド目の冒頭における実態を考えてみよう。「リーマンショック」の呼び名が定着した二〇〇八年九月の金融大激震から、早くも一年余りが経過した。現段階で、地球経済の健康状態をどう診断するか。端的に言って、具合はあまり良くない。三つの症状が気掛かりだ。第一にもとの木阿弥病、第二に自分さえ良ければ病、そして第三に新型デフレ病である。
BISの焦燥−もとの木阿弥病
もとの木阿弥という言い方の由来は、ご存知の通りだ。盲人の木阿弥が、死んだ武将の替え玉を演じさせられる。御用済みとなれば、また元通り。大将軍の身分から、ただの人に逆戻りである。転じて、「いったん良い状態になったものが、再びもとのつまらないさまにかえること。苦心や努力も水泡に帰して、もとの状態にもどってしまうこと」(広辞苑)となる。
リーマンショック後およそ一年の現状が、まことにどうも、このもとの木阿弥そのものに思えてならない。年明け早々、BIS(国際決済銀行)が注目すべき動きに出た。スイスのバーゼルにある同行本部に、世界的な大手銀行の経営幹部たちを呼び寄せたのである。そして、彼らにお灸をすえた。「金融危機発生前にみられたアグレッシブな行動」が再燃しつつあることに警告を発したのである。まさに、元の状態に逆戻りしている、つまりはもとの木阿弥化しているではないか、ということにほかならない。
BlSといえば、「中央銀行たちのための中央銀行」の異名を持つ存在だ。そもそもは、第一次世界大戦後のドイツの戦争賠償を処理するために一九三〇年に設かされた。その役割を終えた後は、世界の中央銀行のための金融・決済機構として活動している。中央銀行同士の情報交換の場としても、重要な場を提供している。調査分析機能もある。いわゆる「BlS規制」が、財界的な金融監督の基本的指針となっていることは良く知られている通りだ。あらゆる意味において、BlSはいわば中央銀行業の総本山なのである。
そのBlSが、世界の主力銀行の責任者たちを呼びつけて、そのもとの木阿弥振りを厳しく諭したのである。これを看過するわけにはいかない。実際に、BlSが現状を憂慮するのは無理もない。アメリカの投資銀行たちは、このところ、まさにかつてと同じ「アグレッシブな行動」で高収益を上げるようになっている。どんどんカネを借り込み、そのカネの高利運用で大きく利ざやを稼ぐやり方が、早くもまた幅を利かせ始めているのである。いわゆるレバレッジ取引だ。このレバレッジのかけ過ぎと、金融証券化手法の濫用があいまって、彼らは今回の危機を引き起こした。それなのに、性懲りもなく、また同じことをやり始めている。まさしくもとの木阿弥というほかはない。
金融機関の行動がもとの木阿弥化すれば、どうなるか。答えは明らかだ。彼らの行状に対して、再び金融恐慌の鉄槌が下ることを覚悟しなければならない。再び金融が激震すれば、それに伴って生産はまたしても縮減する。生産が縮減すれば、雇用が受難する。かくして、カネからモノヘ、そしてモノからヒトヘと、衝撃があっという間に波及する。こんなことを繰り返していたのでは、たまらない。地球経済の屋台骨がボロボロになってしまう。もとの木阿弥病の蔓延は恐ろしい。BISが警告を発するのは当然だ。
ただ、ここで厄介なことが一つある。それは、もとの木阿弥病のウィルスをまき散らしている張本人が、実をいえばほかならぬ国々の中央銀行だということだ。ここが、BISとしても慨梶たるところだ。
BISに呼びつけられた金融機関たちが、いち早く旧弊に逆戻りしてレバレッジを高めるのは、要するにカネ余りで金利が低いからである。然らば、なぜカネ余りなのか。なぜ金利が低いのか。それは、各国の中央銀行がどんどん市中にカネを流し込んでいるからにほかならない。アメリカは事実上のゼロ金利政策を続行中だ。イギリスは、さらにその上を行って量的緩和に踏み切った。日本の二つのお家芸を米英の金融当局がそれぞれ真似して、超低金利と超カネ余り状態を作り出しているのである。これでは、金融機関が大々的にカネを借りて大々的に運用する行動に出るのは、当たり前だ。
現下の状況の中で、各国の通貨当局が金融大緩和に動くのは止むを得ない。生産が大縮減して雇用が大受難している中で、政策が手をこまねいているわけにはいかない。資金調達難で、企業の生産活動が行きづまるのを放置することは出来ない。潤沢な流動性供給に注力するのは、当然の政策対応だ。だが、それをすればするほど、金融機関のもとの木阿弥化を煽ることになる。そして、金融機関のもとの木阿弥病が悪化すればするほど、地球経済が再び次の大不況の谷底に落ちる恐れが強まっていく。この悪循環をいかにして断ち切るか。この課題の悩ましさと、それを目の当たりにしての焦燥感が、BISを金融機関への厳しい苦言提示へと駆り立てたのだろう。
いみじくも、もとの木阿弥の定義に上記の通り「いったん良い状態になったものが、再びもとのつまらないさまにかえること」というのがあった。金融恐慌が起きたこと自体を「良い状態になった」というわけにはいかない。だが、悪い状態にブレーキをかける効果はあった。それまでの金融大暴走に急ブレーキがかかったからこそ、その衝撃に耐えかねてリーマン社が破綻の奈落に転落したわけである。
悪い状態に歯止めがかかったとなれば、そこから良い状態に向かっての浮上が始まって然るべきところだ。だが現状はそうではない。元の悪い状態への回帰現象が起きてしまっているのである。BISが焦燥感を募らせるのも解る。
もっとも、この悪い状態への回帰が、リーマンショックをもたらした環境の完全なる再現を意味しているかといえば、少々違う。なぜなら、カネの世界は再びバブル化の様相さえ呈しているが、その浮かれ効果がモノとヒトの世界に及んでいるかといえば、そうではない。ことレバレッジとリスクの追求に関しては、喉元過ぎて熱さを忘れた金融機関たちも、モノとヒトに関する投融資については、むしろ、糞に懲りてなますを吹く行動が各国で目立つ。企業への融資に関しては、貸し渋り傾向が強く残っている。特にヨーロッパにおいて然りだ。
アメリカでもFRB(連邦準備理事会)がこの点を気にしている。要は、カネがカネの世界だけでばかり回ってしまって、経済活動全体の健全な拡大を支える血流としての役割を果たしていない。どうかすれば、モノとカネを置き去りにしたカネの一人歩き指向は、リーマンショック以前よりもむしろ強まっているとさえいえそうなのである。
保護主義への傾斜―自分さえ良ければ病
こうなって来ると、問題になるのが冒頭で第二に挙げた自分さえ良ければ病である。我が身さえ良ければ。我が社さえ良ければ。我が銀行さえ良ければ。我が国さえ良ければ。 カネの世界がその中だけで自己完結的にカネを回そうとするのも、一種の自分さえ良ければ病にほかならない。そのような金融環境の中で生き延びようとする企業たちは、価格競争力の強化を必死で追求し、そのためにコスト削減を極限まで徹底しようとする。生き残りをかけた彼らの自分さえ良ければの追求が、荷烈な雇用調整をもたらして、人々を痛めつける。痛めつけられた人々は、止むなく、節約指向を強める。彼らの節約指向が強まれば強まるほど、企業はモノを売りさばくことが出来なくなる。
経済環境が厳しくなればなるほど、あらゆるレベルで我が身かわいさが先行する。もとより、いずれも止むを得ざる自己防衛反応だ。個別的にみれば、しごく当然の選択である。だが、誰もがその道を選んでしまえば、どうしてもお互いにお互いの首を絞めることになっていく。自分さえ良ければ病に人々が集団感染した時、結局は、そこに勝者なしである。自分さえ良ければ病にかかったもの同士が、こうして不毛な闘いを繰り広げる。この問題を抱え込んでしまった分だけ、今の状況は、単なるもとの木阿弥状態よりはさらにたちが悪いといわざるを得ない。
勝者なき闘いではあるのだが、この闘いが始まってしまえば、誰にもそれを止めることが出来ない。闘うことを止めれば生き残れない。いずれにしても、誰も生き残れはしないのだが、それでも、率先して休戦を宣言することは自殺行為にほかならないから、誰もこの消耗戦を率先して止めようとはしない。かくして、自分さえ良ければ病に侵された人々の間の闘争は誠に空恐ろしい経済戦争に発展してしまう。
現に、リーマンショック後における国々の保護主義への傾斜は、止まるところを知らない。G20による第一回の金融サミットが開かれたのが二ズ○○八年一一月のことだ。そこで、G20の首脳たちは保護主義回避の誓いを謳い上げた。ところが、実際には、その彼らによって、ほぼ三日に一回のペースで保護主義回避の約束違反が行われて来た。それがこの問の現実なのである。G20の二〇カ国中、二○○八年一一月のサミット後に保護主義的措置を導入していない国は、何とたったの三力国しかないというのが実態だ。
かくして、内にあってはもとの木阿弥病に侵され、外に向かっては自分さえ良ければ病の典型的症状である保護主義で排除の論理を前面に出す。国々がこのような姿を呈し続けている限り、地球経済は健康体に戻ることが出来そうにない。
新型デフレ病
止むに止まれぬ自分さえ良ければ病の副作用として、新たに発生している病が新型デフレ病である。この病気は、日本において特に悪性化している観が強い。だが、決して日本に限定された問題ではない。程度の差はあれ、多くの国々の経済がこの病に侵されつつある。
デフレは怖い。死に至る病だ。とくに今、日本を襲っている新型デフレにはその傾向が強いと思う。新型インフルも怖いが、デフレ病の方が毒性が強い。
なぜ新型で、なぜ致死病なのか。新型なのは、経済成長率がマイナスではないからだ。本来なら、デフレとは経済の縮小現象だから、成長率はマイナスになるはずだ。だが、このところ、日本の実質経済成長率はプラスになっている。経済活動は萎んでいない。萎んでいるのは、物の値段だ。激烈な安売りで、何とか販売量を確保する行動が広がっている。
かつて、「数量景気」という言い方がさかんに使われた時期がある。製品単価はあまり上げられない。だが、量がはけるから、それなりに儲かる。かの「いざなぎ景気」などがこの類だった。
これに対して、今は量の確保のために、誰もが出血大サービス的値下げで対応している。要は出血景気だ。出血多量が行き過ぎれば、企業は存続出来ない。存続出来ない企業が増えれば、人々に職がなくなる。失職すれば、人々は最終的には生きていけなくなる。だから、新型デフレは死に至る病だ。どう考えても、この値段がまかり通るようでは、誰も生活が成り立たない。そう思わざるを得ないような事例が、近頃、良く話題になる。その最たるケースが九九円のセーターである。九九〇円ではない。たったの九九円である。
この値段で、セーターが買えれば助かる。そう考えてはいけない。その発想には、大きな落とし穴が潜んでいる。それを端的に示す事例に出会った。
ある若い主婦が、徹底した安物買いの追求で家計防衛に頑張っていた。するとある日、夫がリストラされてうなだれて帰宅した。夫を解雇した会社は、その主婦が喜んで安物買いに日参していた小売店への納入業者であった。妻の生活防衛行動が、夫を職場から追い立てる。「風が吹けば桶屋が儲かる」のブラックーユーモア版のような話だ。
こんな、ウソのようなホントの話が出て来てしまう。それが今日の実態だ。ここまで来ると、デフレを止めることは至難の業だ。夫がリストラされた妻は、愕然としながらも、結局はさらに一段の安物探しに走らざるを得ないだろう。するとまた、どこかで誰かのパートナーがリストラされるかもしれない。すると、そちらの家庭でも、安物買いはさらに極まっていくことになる。
新型デフレの悪循環の背後で、自分さえ良ければ病の力学が働いていることは、明らかだ。九九円のセーターを売るのも、それを買うのも、要は我が身のサバイバルのためである。誰も、決して我欲に走って自分のことだけを考えているわけではない。止むなき自己防衛行動がお互いを追い込んで行く。この流れを逆回転させることが、どうすれば出来るか。簡単に答えが出る問題ではない。だが、そこを考えて知恵を絞ることこそ、ポスト・リーマンショックの地球経済が健全性を取り戻すための不可欠な対応の一つだ。
地球規模のカネの偏在問題
ただ、それだけでも、問題は解決しない。もとの木阿弥病も、自分さえ良ければ病も、新型デフレ病も、元をたどれば、発生源は一つだ。それは地球経済を覆う大きくて本質的な不均衡問題である。要はカネの偏在問題だ。
資金不足のアメリカがあり、かたや、資金余剰の日本やドイツや中国が存在する。後者から前者へとカネが流れる。それはそれで当然なのだが、両者の間に存在する不均衡があまりにも大きくて、その問の資金移動の規模があまりにも大きい。その巨大な規模のカネに相応の収益を稼ぎ出させようとする資金運用行動が、レバレッジ・ビジネスを狂乱させ、バブルを生み、恐慌発生に向かうマグマの集積をもたらしてしまう。
この構図が是正されるためには、資金不足のアメリカは、世界から資金を引き寄せる代わりに、そもそも、資金不足そのものを解消する必要がある。それが実現するためには、アメリカにカネが集まりにくくなる必要がある。そうなるためには、ドルの通貨価値に対する過人評価が是正されなければならない。かくして、結局のところは、ドル高是正をもたらす通貨調整がどうしても必要になる。問題の本質はここにある。この点を見落とすと、最終解にはどうしても到達出来ない。オバマ大統領は、このほどアメリカの金融制度の抜本改革案を打ち出した。大きすぎてつぶせない銀行の存在を許さない。公益性のある金融サービスの担い手たちがギャンブル的資金運用に走ることも許さない。今回の改革案の底流を形成するこれらの考え方は、金融をその本来の役割に立ち戻らせようとするものだ。その限りにおいて、全く正しい方向性を指向していると考えられる。
だが、金融面におけるこの対応だけでは、地球経済を蝕む病弊群を完全に退治することは出来ない。そのためには、どうしても通貨面での調整が必要になる。ドルに関する基軸通貨幻想を、アメリカも世界も捨て去る日が来なければ、最終決着にはたどり着けない。そう考えるところだ。
国家破綻病の恐怖
ところで、新型デフレが自分さえ良ければ病の急性副作用であるとすれば、もとの木阿弥病にも、怖い副次的病を顕在化させる懸念が潜在している。その怖い副次的病とは、すなわち国家破綻病である。
もとの木阿弥現象をもたらしている政策主導の低金利・カネ余りには、実をいえば、もう一つの効用がある。それはすなわち、国債消化に関する側面支援効果だ。現状において、どの国も財政は大盤振る舞い状態にある。流動性供給に邁進する金融政策と歩調を合わせて、官製需要の創出に精を出している。そのためには財源が必要だ。しかしながら、これまた、どの国も今の情勢の中で税収の伸びは至って芳しくない。経済政策のための財源捻出は、どこでも大きな悩みの種だ。勢い、国債発行に頼ることになる。
かくして、大量に発行される国債をどう消化するか。将来的な利払い負担を、いかにして圧縮するか。これらの悩みに対して、もとの木阿弥病の原因となっている中央銀行主導のカネ余りが、結局は一つの抜け道を提供する格好になっているのである。カネ余りであれば、国債も買ってもらいやすくなる。低金利傾向が定着していれば、それに引き寄せられて、国債の利回りも低位に止まる。結果的に、中央銀行の手助けを得て国債大量発行を何とか市場に受け入れてもらう格好になっている。
これを言い換えれば、要するにそれだけ財政事情がのっぴきならないところに来ているということだ。中央銀行の実質的支援を得なければ、国債消化がままならない。これは国家財政にとって極めて厳しい状況だ。「次はいよいよ国家破綻」そんな言い方が世界の金融紙誌に登場するようになって来た。
そのような状況に陥ることにも、今の情勢下では不思議はない。公共事業を行う。雇用対策に乗り出す。窮地に陥った産業企業を支援する。中小企業を助成する。そして破綻に瀕した諸企業を国有化という形で救出する。これだけのことをやっていれば、財政事情が厳しくなるのは当然だ。しかも、圧倒的に多くの国々がただでさえ赤字財政に四苦八苦して来た。そもそも火の車状態であったところに、今回の状況に対処するために事実上、無い袖を振ることを迫られることになったのである。悩みが深いのは当然だ。
悩みが深いだけに止まるならいい。このままでは、いわばミイラ取りがミイラになる恐れがある。要は、民問経済の破綻回避に注力しているうちに、結局は国家が破綻に追い込まれるということである。どの国が一番先にミイラ化するか。その憶測が金融メディアを賑わす昨今である。ゾンビ企業を救おうとして、国がミイラになる。そんなシャレにならない事態を迎えることになるかもしれない。悪い冗談が現実になる。その日が来ないことを祈るばかりだ。
もっとも、既にして事実上その日を迎えつつある国々がないわけではない。「我々は第二のアイスランドではない。もちろん、第二のドバイでもない」。○九年の暮れに向かう中で、ギリシヤのパパコンスタンティヌウ財務人臣がそう言った。
アイスランドの二の舞を演じるというのは、要するに、まさしく、国家破綻状況に追い込まれるということだ。リーマンショックの煽りを受けて、北極圏の極小国、アイスランドがIMF(国際通貨基金)の管理下に入った。およそ一年前のことである。金融立国の夢破れての顛末だった。
ドバイについては、まだまだ結末がみえてこない。政府系持ち株会社、ドバイワールドが債務返済の一時凍結を債権者に要請した。「しばしのご猶予を」というわけである。これには世界が驚いた。しけたデフレ話ばかりが飛び交う世の中で、ドバイは地球経済最後のバブルの夢の大御殿だった。カネ回りもモノづくりも、真っ暗闇の中の一筋のきらびやかな光明を求めて、ドバイに殺到した。だが、それも今や、あまりにも文字通り過ぎる砂上の楼閣と化してしまった。
お隣のお兄さん国、アブダビが資金援助に乗り出したことで、いったんはパニックが鎮静する展開になった。だが、ここから先の筋書きは誰にも解らない。この場合にも、一番怖いのはミイラ取りがミイラとなることだ。手を差し伸べたものの、荷が重過ぎて結局は救世主もまた、転じて犠牲者となるかもしれない。手に汗握る瀬戸際芝居だ。
そうこうするうちに、ギリシャ問題が噴出した。対GDP比で六〜八%だといっていた財政赤字が、実は十二・七%になりそうだという。六〜八%でも、相当にひどい。ところが、そのひどい数字さえ、ずさんさからか、粉飾によってか、いずれにせよ、全く実態を反映していなかったということなのである。ひどい話だ。これでは、第二のドバイ、第二のアイスランド説を必死で財務大臣が火消しに回らなければいけないのも、当然だ。
究極の悪夢は
国というものが、家計簿の辻褄が合わなくて窮地に追い込まれた時、活路を求める突破口が二つある。その一がインフレで、その二がデノミだ。
インフレを起こすことができれば、話は簡単だ。国が何兆円の借金をしていても、物価が天文学的に上がってしまえば、今日の国の借金は、明日のおにぎり一個の値段に過ぎないかもしれない。かたや、デノミ自体は、単なる通貨価値の読み換えだ。一〇〇円を一円と言い換えるだけの話である。だが、それをやることをきっかけに、それまでの借金を期限つきで反故にする。そのような形でデノミを便おうと思えば、それが出来てしまう。
インフレにせよ、デノミにせよ、これはある種のまやかしだ。進退極まった国家の国民に対する裏切り行為だ。これには気をつけなければいけない。さらにいえば、インフレやデノミならまだいいかもしれない。もっとむきだしで暴力的な形で、価値の体系を破壊することも、不可能ではない。それを国家権力が断行する時、人々は統制経済という名の怖い状況に当面することになる。一夜にして、モノの値段が倍になる。一夜にして、モノの値段が上がることを許さない世界になる。そんな具合に政治が経済を管理しようとする時こそ、究極の悪夢が現実となる。
国家破綻が目の前にぶら下がって来ると、何か起こるか解らない。それには大いに注意を要する。ちなみに言えば、ギリシャの政府債務の対GDP比が一一三%だ。ドバイの場合が、推計一四〇%ということらしい。日本に関するこの数字がどうかといえば、実に一七一%と報道されている。横並びでこれらの数値をみるのはいけない。算定基準が違う可能性が大きい。経済規模の問題もある。だが、それはそれとして、我々は今の国々の出方を注意深くみている必要がある。「第二の誰かさん」にならないためということで、インフレやデノミをしかけようとする陰謀には、絶対的に要注意である。
「まさか」を直視すべし
こうして地球経済の現状をみれば、もとの木阿弥病に始まって、最終的には統制経済状況にまで到達してしまう恐れがある。極論すれば、そんな構図が浮かび上がって来てしまうのである。まさか、そんなことにはならないと思いたい。だが、およそ経済の歴史というものは、まさかが現実となる展開の連続だ。油断は禁物である。むしろ、「まさか」の三文字が頭に浮かんだときこそ、それが現実だと考えた方がいいかもしれない。かの名探偵、シャーロック・ホームズいわく、「不可能なものを消去していけば、残ったものがいかにまさかと思われようとも、それが真理だ」。
怖い「まさか」が現実化することを覚悟して、その時の対処法を考えておくことが肝要だ。リスク管理とはそういうものである。地球経済がポスト・リーマンショックの様々な病弊を克服していくには、まだまだ時間を要しそうである。もしかすると、二一世紀が成人式を迎えるまでの期間を、そのために費やすことになるかもしれない。まさかと言わず、焦らずしっかり新たな均衡点を模索するべきだろう。ずるずるともとの木阿弥化の道を滑り落ちて行くよりは、その方が遥かに前向きである。
雑誌 「世界」 3月号より
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