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国家戦略本部第22回 平成14年6月11日
「テレポリティックスの時代」(1)
講師 川上 和久(明治学院大学教授)
http://web.archive.org/web/20080927221549/http://www.vectorinc.co.jp/kokkasenryaku/index2.html
生年月日
1957年
出身
東京都
現在
明治学院大学教授
略歴
東京大学文学部卒業
東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得
東海大学助教授
著書
情報操作のトリック(講談社現代新書)
メディアの進化と権力(NTT出版)
■川上和久講師
本日は、「テレポリティックスの時代」ということで、テレポリティックスという言葉に象徴されるように、メディアと政治の関係が変わってきた背景の分析を行い、その中で、メディアと政治のどのような関係が21世紀の国家戦略にとって望ましいかについて、私なりの考えを述べさせていただきたいと思います。
ところで、政治家の方々は、日常、メディアの方々と接する機会が多いわけですが、自分たち政治家とメディアの関係はどうあるべきかということを、メディアの方々と、じっくり話し合う機会は、あるようでいて、実際には、なかなかないのではないかというのが私の予想であります。
これはよくわかるのです。例えば私、結婚して十何年になります。でも、家内と夫婦関係がいかにあるべきかなんていうことを話し合ったことは1回もないんですね(笑)。それは当たり前だと思います。毎日一緒に生活していて、私もそんなことをする必要があるとも思わないし、家内もそんなことをする必要があるとは思っていないはずです。政治家とメディアの関係は、大事な関係なのにおたがいにそのあり方をあらたまって話し合わない、夫婦関係にも似ています。
そこで本日は、政治とメディアの関係というのものが、なかなか当事者同士では話しにくいが、あらたまって、第三者として見るとどうなるかという視点でお話いたします。国民から見てどういう政治とメディアの関係が望ましいのかということも、21世紀の国家戦略ということからも考えなければいけないのではないかと思っております。
理想的には、政治・メディア・国民の理想の関係というのは、情報を媒介として政治・行政が国民からの付託を受けて権力を掌握しているわけですから、政治・行政と、メディアと、国民がお互いに情報を流通させながら、お互いにチェック機能を果たし、一つの望ましい方向に向かっていくことが望まれます。
消費者運動家のラルフ・ネーダーの「情報は民主主義の通貨である」という言葉を拾うまでもなく、メディアにとっては「知る権利」を行使して、政治や行政の監視をしっかりと行う。その結果として、国民に対して、国民が望むような政治情報とか判断基準を提供し、同時に、世論を国民の要求として政治や行政にも指し示していくことが理想であります。
ですが、政治にとっては、メディアを通しての国民の要求よりも、国民からの直接的な要求を受けなければいけないことが、むしろ多いかもしれません。以前、自民党の代議士の方に、私の大学でご講演いただいたとき、「一般の国民からもプライベートな要求というものがたくさんある、政治家の悩みというのはそれをどうやってパブリックに濾過していくかということで、これに日夜頭を悩ませている」ということをお話になられました。学生に後から聞きましたら、政治家の発言としてそういう言葉というのは非常に印象的だったと言っていました。
政治家というのは、永田町の中で、テレビに出て、国会で演説したり非常にかっこいいことをやっている。一つの「作られたイメージ」を壊す実像の象徴として、プライベートな要求を公的に濾過するためにいかに努力しているかということが、学生にとっても非常に印象的だったんでしょう。
政治家にとっては、こういった国民からの要求をパブリックに濾過しつつも、メディアからの要求も、ある程度パブリックになっている要求として忖度しなければいけない。それから、何よりもメディアから監視されているということに対しての緊張感を持つということも必要だと思います。
メディアから監視されるからということでなくても、国民からプライベートな要求があったときに、それをこういうプロセスで公的に濾過していくという透明性・公正性を確保していくことで、メディアを通しても国民に対して非常に透明性の高い情報が流れるし、政治的なアウトプットも有権者から評価されるというのが理想の形だと思います。
政治学の教科書にもよく書かれていることではありますが、当然なこととして国民は、情報へのアクセスを活性化させることによって、政治的なアウトプットを強化し、適正化していくというのが理想の図式です。しかし、現実はどうなのかということで考えてみますと、メディアと政治の不幸な関係、そして相互不信が生まれているのも確かであると思います。
これは昭和30年代の相互不信とは、また違う形ではないかと思います。吉田茂元首相はマスコミ嫌いで有名だということをよく聞きます。彼はマスコミ嫌いで、マスコミが何を言っても何も答えようとしない。だけれども、吉田茂元首相がとった政策というのは、後世に評価されているという部分があります。
ですから、昭和30年代、マスコミをはねつけているような政治家であっても、きちんとした方向性を持って、世論から評価されるような政治家がいたわけです。そういう関係とは違うメディアと政治の相互不信というのが今あると思われます。これはメディアのみの責任でもないし、政治のみの責任でもないと考えております。こういった相互不信・相互努力の不足が、結果的にワイドショー政治とか、テレポリティックスへの逃避を生んでいるのではないか。両者に責任はあると思いますけれども、私は、これを55年体制の崩壊による「システム不良債権」の一つであると考えています。
政治とメディアの関係も、システム不良債権を引きずっていて、とりあえずテレポリティックスという形に無党派層が逃避している。システムとしてそういう不良債権を処理して、新しい形を考えていかなければいけないのではないかと思うのです。
では、メディアと政治の関係というのは、本当に不幸な関係ばかりで、相互不信が増幅されているのでしょうか。最近も、テレビ朝日のワイドショーでの放送について、どういった事情かというのは、ワイドショーを見ていなかったので、自民党のホームページを見て初めてわかったんですが、放送内容について自民党が抗議をし、テレビ朝日の方が、不適切な放送であり謝罪があったということがありました。こういう形で、政治とメディアの間のトラブルが頻発しております。
これはひとことで言うと、やはり55年体制が崩壊した一つの余波であろうと思っております。55年体制の中においては、やっぱり政治の果実があった。その果実の分配ということで、例えばマスメディアが多少野党側の立場に立ってものを言っても、政権党である自由民主党は、それをある程度取り入れる、あるいは野党が国会で取り上げたような政策を自民党が政策として取り入れる果実の分配機能があったと思います。そういう形で、自由民主党が包括政党として、野党的な政策も取り入れていたので、国民の広範な支持を集めていくことができたと思います。
その意味では、メディアがむしろ野党的な機能を持って、「ある政策を取り入れろ」と主張する。いわば自民党と社会党が棲み分けている部分があったわけですから、メディアの側がそういった問題提起をして、それを自民党が取り入れていくというプロセスがあることで、国民も納得していた部分があるのではないかと思っています。
しかし、今はそういう果実がなくなってしまった。果実がなくなってくると、果実があるときには、多少自分が関係しないようなところに仕事を落としても、全体のパイが豊かですからあまり国民の側も厳しいことを言わなかったかもしれません。しかし、今、プライベートな要求を、半ばプライベートに充足するようなことが政治に許されなくなってきている。そうすると、いわば「果実なき時代」にあって、国民の側のメディアに対しての要求も、野党的な立場での、新たね果実の分配調整を要求するということとはたぶん変わってきたのではないかと思っています。
どこが変わってきているかというと、第一には、行政とか政治の分配の機能不全ということに対して、そういった分配の機能不全を解消するコミュニケーションの努力が欲しい、メディアにも、そのコミュニケーションを円滑化する役割を演じてほしいというのが、国民の側の一つの要求ではないかと思っております。
例えば、政府は、都合の悪いことを隠すのではなく、むしろ積極的なコミュニケーションで、「ある分野には分配できないけれども、こういう分野には分配していく」というようなことを説明する必要がある。これは小泉政権の中では「痛みを伴う改革」というような言葉で表現されたと思います。では、そういう痛みを伴う改革の中身は何かということになりますが、少なくともメディア報道を分析していく中で、それが十分に伝わっているとは思えない。国民の目から見ると、分配の機能不全というものを解消するようなアカウンタビリティー(説明責任)が果たされていないというのが、正直なところの意識ではないかと思います。
2番目には、プライベートな利益を追求していくというのは、自由主義社会においてはやむを得ないのです。それを公的に解決していく濾過装置が必要です。もちろん政治家一人一人が努力しているということはあると思います。しかし、先ほども申し上げましたように、メディアもそういう濾過装置を一つには果たすべきではないかと思います。1番目の分配の機能不全とこれは関連してくるところですが、「プライベートないろいろな要求はあるけれども、公的にはこういう解決の方法があるのではないか」ということを提示していく濾過装置としてのメディアの機能も、国民から期待されているのではないかと思います。
3番目には、東西冷戦構造が崩壊して、資本主義に対抗する意味での社会主義というのは、もうほとんどつぶれたわけであります。そういう中で、何を争点(issue)にしたらいいかということに関する定義が、きちんと提示されていない。
もちろん、政治家の方々に個別にいろいろ伺うと、与党・野党にかかわらず争点はたくさんあるんだ、とおっしゃるんですね。確かにそうだと思います。選挙のときに、いろいろな政党の方々とお話をすると、特に争点はあり過ぎるほどあるように思えます。ただ、争点があり過ぎて、どういう優先順位をつけたらいいかわからない。ただ、そういう争点が何であるのか、どういう優先順位があって、それをどういうふうに解決していったらいいかということを提示する装置としてメディアが機能しているかというと、どうも機能していないという部分があります。「テレポリティクス」的には、争点の提示は地味すぎて、扱いにくい部分もあります。
4番目、これはアクセスメディアの多様化によるニーズの変化、ということになります。インターネットも普及しているわけですから、そういう多様化によってアカウンタビリティーへの期待が非常に高まっています。政策評価など、いろいろな努力をして、行政セクターは、ある程度アカウンタビリティーを果たす努力をしていると思います。また、例えばe−Japan重点計画を一生懸命後押ししようということで、自民党では特命委員会を作っています。では、そのe−Japan重点計画が完成し、ITの粋を集めたようなコミュニケーションが可能になった暁に、何をやるのかということを議論していく段階において、メディアに対しても、アカウンタビリティーを果たしてほしいという期待が恐らく高まってくるのではないかと思っております。
こういった、有権者のメディアに対する期待が満たされているのかどうかということが問題だと思うのです。政治不信に対する解消を行い得ているのかどうか。それから、プライベートな要求を公的に濾過する装置としてメディアが機能しているのかどうか。そして東西冷戦構造が崩壊しても争点はたくさんある。でも、その争点をちゃんとメディアが提示しているかどうか、それから、多様化するメディア社会において、メディア自身もアカウンタビリティーを果たしているか。
そういう幾つかの状況を考えると、いろいろな新聞の見出しがたぶん思い浮かぶのではないかと思います。例えば、昨年の参議院選挙のときにどういうことが言われたか。「争点なき選挙」ということを平気で見出しで使ったりする。あるいは、プライベートな要求を公的に濾過するというような形でも、そういう負の部分でこういうことをしなければいけないという部分だけがクローズアップされます。どういう公的な濾過装置がいま日常の政治活動の中で働いているのかということについて、あまり触れている記事はない。
ですから、55年体制が崩壊した以降の有権者のメディアに対する期待というものがなかなか満たされない。そして、もちろん政治に対する期待が満たされていないというところが、テレポリティックスといわれているような無党派層の浮遊する政治意識に結びついている部分があるのではないかと思います。
政治意識が浮遊してしまったというのは、メディアだけの問題でもなければ、政治だけの責任でもないわけです。しかし、特にメディアとのかかわりで言うと、労働組合、農漁協、宗教団体、同業者団体といった組織の利益代表の色合いが低下して、相対的比重が低下している。そして、いい意味でも悪い意味でも、政治改革関連法を成立させて党営選挙に誘導したわけですから、選挙制度にしても、メディアを活用した政策論争に対する期待が生まれてきているというのが一方であります。
でも、そういうメディアを活用した政策論争がまともな形でなされているかどうかについては疑問です。メディアの側も、政策論争というよりも、むしろテレビ受けするような人材をテレビに出す。「改革」という大きな10年来のトーンにのせて、改革派と目されるような人たちと、改革に対して反対する人たちをテレビの中で並べる。テレビの中でそういうふうに対照させることで、結果的には、ただでさえ善悪二元論に落とし込みやすいメディアが、なおさら善悪二元論になってきている。
それから、何かの意図があるかないかに関わらず、テレビを利用して、そういった一つのパターンをつくり上げていこうとしている。活字メディアと異なり、結果的にそういったパターンがつくり上げられてしまうのがテレビの特質ではないかと思うんです。この10年来、「改革」という言葉を唱える人たちが登場しました。小泉政権もそうだと思うんですね。
それから「加藤の乱」も、二元論でテレビが中心になって盛り上げていく。加藤さんは改革の旗手であるという形でどんどん持ち上げてしまう。そういう一方で、コメントしていただくのは野中(広務)先生が出てきて、やはり善悪二元論のような形になる。総裁選もそうであります。守旧派VS改革派のような善悪二元論の形になる。
しかし、そういう改革を唱えていっても、その中味についてはテレビではなかなか伝えられるものではないわけですね。それで、テレビ的な、テレジェニックな改革派の人たちが出てくる。
私は、深夜番組の「朝まで生テレビ!」に出てきて、テレジェニックな若手の優秀な政治家が勝手なことをしゃべるというのは、有権者の側は許していると思います。たとえ政策的なアウトプットがなくても、若手政治家が出てきて一生懸命しゃべる。それが自民党の政策とは多少違っていても、若手の政治家が一生懸命やっている、これは民主党も公明党も自由党も同じだと思います。そういうテレジェニックな人たちが出て一生懸命やっているということで許されると思うんです。
でも自民党のある程度の地位がある人、加藤さんや小泉さん、それから93年の例でいえば、細川さんや羽田さんなどの新党のリーダーがそうですが、そういった政党のリーダーの人が出てきてしゃべる時は、国民は政策的なアウトプットを期待しているのではないかと思います。
ところが、そういうアウトプットがなかなか出てこない。アウトプットを出しているよという反論もあると思います。アウトプットを出していたとしても、それをメディアが報じないという現実があって、そういった実際の政策には結びついていないというイメージを国民が持ってしまう部分があるのではないかと思うんですね。
そうすると、やはり有権者としては、田中眞紀子さん的な、「凡人、軍人、変人」とか「私はスカートを踏まれ続けていた」というような、「サウンドバイト」の方に関心を示すし、その一言で大体すべてを受け入れてしまう。テレビを見ている国民の政治意識に根っこがない、浮遊する意識があるのは、政策的なアウトプットがない現実感を反映していると思います。
もし政策的なアウトプットがあって、生活者ネットのようにシングル・イッシューでずっとやっているようなところがあれば、あまりテレジェニックなサウンドバイトや、ワンライナーなりというものは効いてこない。現実には田中眞紀子さんの一言が非常に効いてくる。国民が喝采をする。
私の個人の考えでは、国益を損なっているわけですから、田中外相を切ったのは当たり前過ぎるほど当たり前のことであります。でも、巷の方々の考えはこれとはだいぶ違っていて、田中さんを切ったということだけで20%内閣の支持率が下がるということがあるわけです。
それはやはり外務省の政策や、国益というものがいかに重要であるのかという認識を政治から伝えていなかったし、メディアもそういった部分についてしっかりと伝えていなかった。ワイドショー的におもしろおかしく伝えていたために、田中さんを切ったのはかわいそうだわとか、そんなことをする小泉さんはひどいとういうことで支持率が落ちてしまうような現実になってしまうわけです。
こういった、「イメージと現実とのギャップ」があって、テレジェニックないろいろな有権者あるいは視聴者向けの発言と、政策的なアウトプットとが必ずしも一致していない。これは政党側の責任でもあります。自民党も民主党も、包括政党化しているわけです。そうすると、自民党は昔からそうでしたけれども、政党内の政策の距離が非常に乖離している部分がある。一方で、政党間の政策距離というのは近接化している部分があるわけです。そうすると、大体9割方の政策が共通している。残りの1割のところで、党首討論で細かいところでやっている。そうすると、9割の政策が共通していると、非常に細かいところで、政府首脳の発言がどうだったとか、重箱の隅をつつくようなところで争わざるを得ないという現実もあると思うのです。
この10年というのは、不良債権処理や公共事業のあり方、高齢化社会に対応した年金制度、医療保険制度など、外交・内政どれをとってみても、21世紀の国家ビジョンに関わる重要な政策が目白押しで、さまざまな争点について国民的な議論をしなければならないにもかかわらず、どのようなビジョンを構築していったらいいのかということに対する国民的なコンセンサスを得ないままに、表面的な受けに走って、ワイドショー政治や、一言でおもしろおかしく政治を表現するようなところに流れてしまっているところに政治の不幸があると思います。
そして、政党の側も、努力不足があるのではないかと思います。というのは、東西冷戦構造が崩壊して、保守も革新もなくなってきた。革新の人はごく一部で、ほとんどの方々が中間から保守の方々であります。中間からちょっと革新的な考えを持った方々も、世論調査をしてみると、政治的な保守・革新という意識はなくなってきている。むしろ革新というのは、システムを変えていかなければいけないという積極的な意味でとらえている。政治的に言えば、非常に中間的です。靖国神社には絶対参拝しなければいけないとか、徴兵制を復活しなければいけないというような意味での政治的保守の方はごく少数です。それから、憲法9条を絶対かえてはだめという方もごく少数です。従来型の政治的保守・革新という意味では、どちらでもない真ん中の部分の方々というのが非常に多いんですね。その真ん中の部分の方々が、新聞はちょっと別ですけれども、テレビや週刊誌などに現れている政治情報を見たときに、自分たちに必要な争点が提示されていると感じるかどうかというと、これがなかなか提示されていない。
そして、各政党とも一生懸命提示しているとおっしゃるんですけれども、有権者には少なくとも伝わっていないという現実があると思います。自民党にも、民主党にも包括政党の広報戦略というものが構築されていない。今までの55年体制をガラガラポンにした上での、中道・保守にいる人たちの、緩やかな組織化をやっていこうというポリシーがなかなか感じられない。
こういったいろいろな要因があるために、政治意識構造というものが結局は溶解し、構造的な無党派層が増大をしていってしまう。そして、アウトプットに結びつかないような「メディアイメージ」が跳梁跋扈することによって、政治的な無力感が生まれているというのが現実であると思います。
政策を伴わずにイメージが先行するというのは、日本だけではないじゃないかという反論があると思います。アメリカもイギリスもドイツでも同様な部分はあります。ただ、アメリカというのは、まだ政治意識が安定している部分があると思います。政党支持にしても安定をしております。戦後、民主党支持、共和党支持、そしてインディペンデント、比率はそんなに変わっていない。
ところが、日本の場合にはどうなのか。例えば、93年、細川連立政権ができたときに、世論調査で日本新党は15%の支持を得ました。ところが、1年たったら政党支持率は5%を切ってしまった。1年で激減です。新進党もある時期は17%ぐらいの支持がありましたけれども、1年たったときには7%で、10%も支持が落ちてしまう。あるいは民主党も、98年の時点では20%近くあったのが、今では5%程度の支持しかありません。
いろいろな政党ができて、日本新党、新進党、民主党など、短期間で支持率が激変しています。そして自民党も、2001年の小泉ブームで支持率は上がったんだけれども、わずか1年でまた10%以上も支持率が降下しています。1年程度で政党支持率がこのように上がったり下がったりする現象は、民主主義にとって私は望ましいことではないと思います。
政党支持率というのは、基本的には、その党の政策を浸透させていくことによって増えなければならない。国民が「この政策でこの正当に一定期間、5年や10年やらせてみよう」というある程度持続した支持がなければ、きちんとした政治はできないと思います。そして、メディアの側も、そういったことをむしろ伝えていくべきではないかと思っています。しかし、どんどんイメージを先行させて、有権者を観客として、政策の外側に追いやっている。ですから、有権者は、投票には行かないのだけれども、開票速報になると、みんな一生懸命テレビの前にかじりつくというような現象が起きてくるわけです。メディアの依存度が高い一方で、政治的関心が低下しているという不幸な現実があります。
こういう、ある意味での現実逃避としてのテレポリティックスを良いと思っている有権者もそんなにいないはずです。田中さんがおもしろいことを言ったからというので、ワイドショーの視聴率が上がるような政治がいいと思っている方々は、私はいないと思うし、政治学を教えている人間としても、そういうふうに信じたいわけです。
では、望ましい「政治とメディア」の関係は一体何か。これは、もちろんメディアにも報道の自由があるわけですから、そういった自由なことに任せなければいけないという部分があるかもしれません。しかし、あえて、これまでのこともふまえて、今まで足りなかった部分を指摘したいと思います。
まず、政治の側に求められる努力ですが、1番目としては、政治家がどういうコミュニケーション活動をしているのか、政治家の日常の活動についてよく見えない部分があると思うんですね。業者と特定の利益で結びつくのは望ましくありませんが、そういう疑惑の表面しかメディアが伝えない。ですから、政治家が日常的にいろいろ官僚と渡り合ったり、e−Japanをどうしたらいいかとか、経済政策で不良債権をどう処理したらいいかとか、そういう政策的な部分について、一般有権者も見えていない部分があるんですね。ですから、そういう部分についてどんどん開示をしていく。そういう部分については、雑誌も含めて、メディアが民度の向上のために協力するという意味で、政策的な部分での報道量を増やしていく必要が私はあると思います。「政治家のコミュニケーション環境の理解を進める」、そのためにメディアも協力するということです。
2番目は「メールマガジンなども活用した政治家の情報発信の強化」です。小泉内閣もメールマガジンを210万配信しておりますけれども、中身をわざわざ見るという人は、正直言って少ない。いかに熱く小泉内閣が構造改革について語っても、国民にとってはなかなか面倒くさくて読まないというのが現実なんです。
日本が戦争になったり、経済が本当にどん底になって、どうしようもなくなれば、政治は何をやっているんだということで見ると思います。でも今の段階では、政治家の方々は専門家として、このままでは将来大変なことになるということが予見できるわけですが、国民が一般的な情報から予見するのはなかなか難しい。したがって、そういったパブリックな解決について、依存しようとはしない。しかし、政治家がメディアに対して、これまで以上に敏感になって、メディアでフレームアップされた課題についての政治家としての見識を載せるなどして、情報発信を強化し、国民の判断材料を上手に提供するような、政治家の個々の努力も求められると思います。その意味で、政治家は、メディアのフレームアップ機能を上手に利用する才覚が必要になります。
3番目として、政党のコミュニケーション能力を高めていく必要がある。現行システムはやっぱり「党営選挙」ですから、党のプライオリティーの高い課題について、フレームづくりの戦略を宣伝させるということも必要ではないかと思います。小泉さんがワイシャツをまくって小泉改革に力をということは、もちろんイメージとしてはいいわけですが、では、その中身は何かといった、「フレームづくりの戦略」を洗練させることが必要であると思います。
4番目として、情報の縮小均衡ということが現実として政治とメディアの関係にあることを考えると、情報の拡大均衡に寄与するような、インターネットを活用したIT選挙が将来必要でしょう。現在、総務省でこの点については鋭意検討されているわけですが、それによって、メディアによってもたらされる情報も、いわば相対化され、メディアの側にも緊張感が生まれてきます。
5番目として、さらに進んで、e−Japan重点計画が完成した中で、有権者、あるいは国民が参加しながら自分たちが政策を創造していける政治システムというものを、政党が今度は提言をしていかなければいけないと思うんですね。そういったことによって、双方向の政治が活性化していきます。キーワードとして語られるのは、情報公開、アカウンタビリティー、政策評価、住民参加、・参画、政策のクリエートとか、こういったことに共通して、国民という一つのプレゼンスを拡大していくような「政治の情報化戦略」というものを、ぜひ21世紀の国家戦略として策定していただきたいと私は思います。
次に、政治との関係で、メディアの側に要求される「努力」も幾つかあります。1番目に、もちろん取材能力を強化していく。政治がいかに情報を隠そうとしても、それを許さないような取材能力というものを充実させていくことが大前提です。
2番目に、行き過ぎた人権を侵害するような報道に関して、自浄作用というものを強化していくことも欠かせません。放送でいえばBRO(放送と人権等権利に関する委員会機構)の能力を強化していくとか、メディアの側の自浄作用です。
3番目に、有権者のリテラシー向上に資するような仕掛けの工夫です。先ほど申しましたように、「客観報道」というそれ自体が有権者の政治の観客化、政治の劇場化を招いている。これは「失われた10年」というか、55年体制がだめになった中でのシステム的な不良債権なわけでありますから、そういう不良債権を何とか処理して、新しいシステムをつくっていかなければいけない。
4番目として、インプット・アウトプット関係の明確化です。国民にとっては、永田町の現場とかメディアが思っている以上に、政治のインプット・アウトプット関係がわかっていないのが現状だと思うのです。すべてのイッシューに対して、全部インプットとアウトプットを明確化するのは、なかなか難しいと思います。
地方自治体のレベルでは、ホームページで一つ一つの予算費目について、インプット・アウトプット関係を明確化する試みが始まっております。道路の予算をつくるについても、どういう意味があって、どういう効果が見込めるのかについて、川崎市役所とかホームページ上で全部見られるところがありますけれども、私的な要求をこういうふうに公的に濾過している、というレベルのものも含め、取材能力を生かしてインプット・アウトプット関係というものをきちんと示していく。ホット・イッシューに対していかに対応して、国民の期待を形成していくか。そうすると、メディアの側も期待を受けて、期待効果で変わらざるを得なくなってくるのではないかと私は思います。
5番目として、あくまで公正中立な中でのメディアの「政治的なプレゼンス」をどうやっていくのかということが問題になる。例えばワイドショー的な過剰表現が、センセーショナリズムを煽るとして問題になりますが、ニュース自体もちょっとワイドショー的になっている部分があると思います。例えば音楽にしても、ジャジャーンとかいう音楽を流したり、1960年代の、淡々としたニュースとは変質してきている。ニュース報道というもの自体が変質しているという部分がありますけれども、そういうワイドショー的な過剰表現が一方である。もう一方では、やはり政治的な公正中立という立場から、例えば選挙が近くなると政治家のテレビ出演があまりできなくなるとか、政治広告に対して規制がかかっているとか、言いたい表現ができないという制約があります。表現できれば自分たちの党の政策が伝わるにもかかわらず、それが言えない。アメリカのような自由な表現ができないということがあります。
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