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国家戦略本部 第28回 平成15年3月26日
「イタリアの政党政治と政権公約」
講師 後 房雄(名古屋大学教授)
http://web.archive.org/web/20080927221549/http://www.vectorinc.co.jp/kokkasenryaku/index2.html
今日はイタリアの事例をお話しする趣旨をまず簡単にお話をしてから始めたいと思います。
マニフェストの場合、ご承知のように、政権政策についてイギリスでマニフェストというふうに呼んで、それを軸にした政権選択型の選挙をやっているということで、今回もモデルとしてかなりイギリスが意識されています。それとの関係で言いますと、イタリアというのは、必ずしもそういう政権選択型の選挙が長く定着してきたという国ではない。つい最近まで日本と同じように、政権交代というのがほとんど機能しない、わりと固定した万年与党体制という状況があった。
これは、ひょっとしたら皆さんのイタリアの政治のイメージとちょっとずれるかもしれません。イタリアというのは、政府が非常に不安定でころころ変わっているというイメージがたぶんあると思います。実際それはそうですが、実は同じ五つぐらいの政党ばかりで連立政権を組んできたわけです。この五つの政党は、以前は比例代表制でしたから、何回選挙をやっても、そう大きく勢力比は変わらない。政党の自己主張が非常に強いものですから、大臣のポストの数などいろいろなことで揉めて、政権自体はころころ変わったりしますが、それを構成している政党はいつもほぼ同じだった。それ以外の政党は万年野党ということになっていました。表面的には非常に変化が激しいように見えますが、五つの政党というのは、極端に言えば、例えば自民党の五大派閥だと考えれば、根底にあるのはほぼ同じ構造でもあるわけです。
そういう状況から、ちょうど1989年の東欧の社会主義の崩壊がありました。そのころから政治が激変をしていくというのは、ちょうど日本と軌を一にしています。当然ながら、それは政権が事実上ずっと固定していたということもあって、深刻な汚職が発覚したのをきっかけに、最終的には選挙制度の改革というふうになったという点でも、非常に日本と似ています。
一種の過渡期にある事例で、ある意味では日本と非常に似た形で、政党選択肢が複数あって、有権者が選挙で政権を代えられるという意識をもてるというのとはほど遠い状態から、イタリアでも「政権交代のある民主主義」という言い方をしますが、そういう方向に向けて選挙制度を変えながら歩み始めているという事例です。非常に立派なモデルというよりは、わりと日本に身近で、同じように移行しつつあるような国の事例として位置づけていただくと参考になると思います。
イタリア政治と日本政治。一見非常に違うようですが、かなり共通点があるということです。共通点があった上で、どのへんがどう違うかという話が改めて問題になります。まず共通点のところを、少し順を追って述べてみます。
戦後のイタリアは最近まで完全代表比例制で、上院と下院の二院制です。しかも上院と下院というのはほとんど権限が同じで、なおかつ、上院も解散がある。総選挙のときは、慣例上、上院と下院の両方とも解散して一緒に選挙をするというやり方で、戦後10回前後、総選挙をやってきています。
そういう中で、92年が比例代表制の最後の選挙です。キリスト教民主党が大体第一党でずっと来ていますが、初期のころはキリスト教民主党一党だけの政権も戦後一時期あったのですが、比例代表制ですから、単独で50%行くということはどんな国でもほとんどありません。そうしますと、50%を切って過半数に議席が足りなくなるに従って、小さい政党をだんだん与党に入れていくようになった。そういう意味で、政権は代わると言えば代わるんですが、先ほど言いましたようにキリスト教民主党があくまでも中心であって、そこにどの政党を入れるかということでの変化がだんだん起こってきています。キリスト教民主党中心の政権という意味では、政権交代がないという状況がずっと続いてきたこともあって、汚職等も深刻化しました。
92年から、タンジェントーポリ(汚職の都)というふうにイタリアでは呼ばれていますが、ミラノを糸口にしてイモづる式的に汚職がどんどん摘発された。最終的に国会議員の3分の1ぐらいが関与したということで、3分の1が次の選挙に立候補しないで引退という状況になりました。特に第一線の政治家たちが一斉に入れ代わったということで、かなり大きな激変になりました。人的にも激変しました。
日本でリクルート事件とか佐川急便等々が問題になっていた時期に、イタリアでは五つの五党連合が全部汚職にかんでいまして、いろいろな公共事業のキックバックなどがあるときに、五つの政党の中で何対何対何で分けるかというようなルールまであったりして、そういうところまで汚職がある意味で構造化していました。その五つの政党は事実上、その2〜3年の間に消滅するか分裂するかで、同じ名前の政党がほとんどなくなるということで、政党としても激変をするという時期がありました。それで政治改革の一つの切り札として、完全比例代表制に変えて、小選挙区制を導入するという方向になりました。
イタリアの場合、ある意味で日本と同じで、いわゆる与野党を横断して一種の改革派的な勢力が形成されて、それが小選挙区制を支持するかどうかということを非常に大きな軸にして対抗しました。
最終的には、小選挙区制の導入は、イタリアの場合、国民投票が制度としてあるものですから、国民投票を使って実現しました。基本的にはそういうことで選挙制度改革が、イタリアの場合は93年8月に正式に国会で可決されて成立しました。
このときの制度は、厳密に言うと、並立制というよりは、一時日本でも話題になりました連用制というものです。小選挙区で当選した人の票数を比例代表のところの政党配分から引くということで、小選挙区制で負けたところの政党が比例制のところではやや優遇されているという要素を入れています。小選挙区制が75%というので連用制というのと、日本の場合は60%小選挙区制で並立制ということですので、総合するとほぼ日本と同じような効果と言ってもいいだろうと思いますが、そんな制度が導入されました。
汚職の打撃も含めて、選挙制度の変更とともに、政界自体が大再編成の時期に入っていきます。イタリアの場合は、再編成の方向は非常にはっきりしていまして、ほぼ二大勢力化と言っていいわけです。
確かに、これまでずっとあった政党の名前が全部変わったり分裂したりということで、本当は小選挙区制だから政党がある程度集約されるはずなのに、小選挙区制が導入されて以降、かえって政党の数が増えるようなことで、おかしいではないかという議論もありました。しかし、政党の数よりは、小選挙区に本格的に候補者を立てる勢力が幾つあるかということが小選挙区制では非常に重要です。
イタリアの場合は、政党の数は十幾つ、数え方によっては二十幾つあります。それが選挙のときは政党連合を左右ともにつくって、小選挙区制型の選挙を戦います。要するに1議席を争うわけですから、いわゆる共倒れが不利だということは明らかです。ですから、大きく言って中道左派と中道右派という二大勢力がだんだん形成されてきているわけですが、それは5つとか10の政党が、全国のあらゆる小選挙区で自分たちの候補者を統一するということで、政党連合を組むという形になっています。
具体的に言いますと、93年に小選挙区制が導入されてから、3回、総選挙をやっています。94年の総選挙は最初の小選挙区制での選挙です。このときは左右両極が中心でしたが、中道派が一部残ったものですから、大体三極で総選挙をやったということです。これは、日本の96年の第1回目の小選挙区制の選挙と非常に似ています。自民党対新進党の間に旧民主党があったということで、ある意味では三極でしたが、イタリアでも1回目はそれに近い三極という構図で戦われました。事実上は、あらゆる小選挙区で右派連合と左派連合とが1議席を争うという選挙でしたので、事実上、二極化に非常に近い傾向がすでに出ていました。
96年、これは繰り上げ総選挙で、2年で選挙になったわけですが、このときはほぼ完全に、中道派自体が左右に分裂しまして、それぞれの陣営に加わるという形になったものですから、完全に中道左派連合と中道右派連合という二極構造になりました。
イタリアの戦後政治史の特徴ですが、イタリアでは旧共産党が非常に強くて、76年には得票率が三十数%となったこともあります。ほとんど第一党に並ぶ勢力を持っていました。ただ、この共産党は異色の共産党でして、事実上、社会民主主義政党に非常に近く、正式に91年に左翼民主党というふうに名前を変えました。社会主義インターにも加盟してという形になって、その左翼民主党が中心の中道左派連合──これを「オリーブの木」と言って、日本でも多少報道されたりしました──が勝ったのが96年の総選挙です。これによって今までの与党的な勢力は野党に回り、これまでの野党だった勢力は与党に回るという非常にはっきりした断絶がここで一度起こったというのが、96年です。この中道左派政権は5年間の任期を全うしまして、2001年に任期満了で、3回目の小選挙区制の選挙をしたわけです。
このときは、中道右派連合が勝ちました。今、いわゆるベルルスコーニ政権ができています。これによって、ほぼ二極になった中道右派勢力と中道左派勢力それぞれが、96年と2001年に非常にはっきりと勝利をして、恐らく中道右派政権も2001年から5年間続くだろうと思われますが、勝ったほうが5年間の任期を全うするということで、お互いにチャンスがあるという感じになってきています。小選挙区制はほぼ完全に定着をして、こういうタイプの政治構造に今後は完全に移行すると思います。
そういう意味では、96年も一つの区切りだったのですが、逆の側が勝った2001年もかなり大きな区切りで、この2回を通じて、ほぼイタリアの政治スタイルが変わったと位置づけていいだろうと思います。
このときに、二大政党連合の小選挙区の戦い方としては、それぞれ幾つかの政党でつくっている連合の統一首相候補を事前に決めて、首相候補を中心に選挙を戦うということになります。各政党は、一歩引いて、かなり意識的に統一首相候補を前面に立てた形で選挙をするということになります。その人が中心になって、いわゆるマニフェストに当たる政権政策を発表して、それがその連合全体の政権政策ということになります。
それに当たっては、当然ながら、小選挙区で1議席を争う。その小選挙区ではそれぞれの政党連合が候補者を統一するということになります。こういう戦い方がほぼ定着をしてきているということで、選挙の戦い方もかなり変わってきました。小選挙区での個別の候補者の選挙運動は非常に不活発になります。テレビ討論で首相候補同士が2回ぐらい直接討論をします。アメリカの大統領選挙が典型ですが、その直接の討論での出来、不出来が選挙にかなり大きな影響を与えます。そうすると、首相候補が悪ければ、個別の小選挙区の候補者がいくら頑張ってもなかなか勝てない。全国的に同じような票の動きになりますから。そうすると連合として首相候補中心にどれだけ戦えるかということ次第で、小選挙区の個々の候補者の運命も大幅に左右されるということになる。そうなると個人の活動に独自にエネルギーやおカネをかけて頑張って運動するというのはあまり意味を持たなくなります。ひどい人になりますと、ほとんど運動しないで、勝つときは勝つし、負けるときは負けるという感じになったりします。そういう選挙のスタイルにもなったわけです。
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