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国家戦略 第18回 平成14年4月24日
「21世紀の日本人について」(1)
講師 長谷川 三千子(埼玉大学教養学部教授)
http://web.archive.org/web/20080927221549/http://www.vectorinc.co.jp/kokkasenryaku/index2.html
生年月日
1946年
出身
東京都
現在
埼玉大学教養学部教授
略歴
東京大学文学部哲学科卒業
東京大学大学院博士課程修了
東京大学文学部助手
著書
からごころ
バベルの謎(中央公論新社、和辻哲郎文化賞受賞)
正義の喪失(PHP研究所)
民主主義とは何なのか(文春新書)
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前々から国家戦略が必要だということは前々からいろいろな方が口を酸っぱくして言ってこられました。それでは一体国家戦略をつくるというのはどういうふうにして可能なのか。いざ、実際に国家戦略をつくるという仕事にかかってみると、これは単に現在の政治情勢、軍事情勢、経済情勢の裏表を全部情報収集をして、それをコンピュータにぶち込めば自動的に国家戦略は出てくるかというと、そういうものではないわけですね。わが国が一体何を目指すのか。我々自身が一体いかなる国家を理想としているのかという、言ってみれば我々自身に対する知識・認識というものなしには、国家戦略というものはいくら情報がたくさんあっても出来上がらないわけです。
そういう意味で、この国家ビジョン策定という委員会ができたということは非常に自然な成り行きでもあり、かつ必要不可欠のことだったのではないかというふうに理解しております。
中でもここで八つテーマをお立てになって、7番目に「国家のアイデンティティ」という部門をお立てになった。私はこの7番目という順番に大変奥深いものを感じるんですが、これは決して大事なのもから並べていって、最後にちょっとついでにアイデンティティも並べようかというふうな話ではなくて、そもそも国家戦略というものを立てなければならない、我々自身をつかまえなければならないという本家本元、大本のところが「国家のアイデンティティ」の模索という形で出ているのではないか。この7番目のテーマは、私は真打ち登場というふうなことではないかと理解しております。
そういう意味で、今日の私の話も、この「国家のアイデンティティ」というテーマを中心にいたしたいと存じます。実は、われわれ日本人自身が、自分たちのことについてよく解っていない。これをもう一回正しくとらえ直すということを今日のテーマにしてみたいと思っております。
例えば、もし我々がイスラム国家やイスラエルでの国民であったとすると、国家のアイデンティティを探るなんていうことはまったく必要ないんですね。あるいは、国家ビジョン策定委員会そのものが必要ないかもしれない。
というのは、例えばイスラエルの場合ですと、もうイスラエルの建国の中心にユダヤ教というものが真っ正面から柱としてあるわけです。イスラエル国民のみならず、世界中に散らばっているユダヤ教の同胞たちを全部まとめて支えているトーラーと呼ばれる、いわゆる旧約聖書が、この世でのあり方をもすべて律する律法として、彼らのまん真ん中にあるわけです。もちろん、現在では3000年近く前にできた律法の全部がそのまま守られているわけではなくて、多少緩やかにはなってはいますが、相変わらずそれがイスラエル国民の心の中心の支えになっていることは変わりがないわけです。
あるいはまた、イスラムの国民にしても同じことで、彼らにとってコーランの教えというものが政治のありとあらゆる場面を通じて中心の柱になっている。お互いにそういういわば宗教原理国家として存在しているので、我々から見てため息が出るほどお互いに妥協のない戦いを繰り返すということにもなる。しかもその反面、国家ビジョンをつくるとか、国のアイデンティティを探るという苦労はまったくないと言えるわけです。
それでは、我々はまったくの徒手空拳で、ゼロからスタートして、我々の持つべき政治道徳、国家ビジョンを探らなければならないのかというと、決してそうではないんですね。実は、非常に早い時代から、我々の祖先は国際的な荒波にさらされて、その中で自分たちは一体何なのかという、アイデンティティ探しというものをやってきている。それがまた文書になって残っているわけです。
今日ご紹介する古典がそれです。実は『古事記』にしても『日本書紀』にしても、その実際のあり方というものを振り返ってみると非常に現代的なものなんです。
「現代的」というのはどういうことかといいますと、『古事記』『日本書紀』は、どちらも8世紀はじめに、編纂されたものですが、既にその100年ばかり前に日本は例の白村江(シラスキノエ)の戦いで敗戦を体験しております。つまり、それによって初めて国際的な戦争に破れて、半島への進出の夢を断たれたという、既にそういう経験をしていたわけです。
それから更に重要なことは、その数百年ぐらい前(数百年を通じて)大陸からの新しい文化が様々にドッと移入してきた。なかでも文字の輸入ということが、決定的な意味を持ちました。現在でも我々の社会で非常に問題になっておりますのが、コンピュータの問題です。コンピュータというものがこれだけ普及して、コンピュータなしには、立ち行かないようになっている。ところが、コンピュータのシステムというものがほとんどアメリカによって基本的なソフトを牛耳られていて、我々は知らないうちにアメリカン・スタンダードというものに追従せざるを得ないような形になってしまっている。例えば、東大の坂村(健)先生なんかは一生懸命トロンの開発によって対抗しようという愛国的な戦いをしていらっしゃのですが、いろいろなところで我々は知らず知らずのうちにアメリカン・スタンダードに追従せざるを得なくなっている。そういうことが心ある人たちの間では、問題(・・)と(・)し(・)て(・)意識されているわけです。
ところが、『古事記』『日本書紀』が書かれた時代、それに先立つ数百年というものを振り返ってみますと、とうていそれどころの騒ぎではないんですね。というのも、その当時(つまり、紀元後2世紀、3世紀から)の日本人というものは、まったく日本語を書き表す文字を持っていなかった。そこに初めて漢字という文字を手に入れた。そういう状況だったわけです。これはもうコンピュータのソフトどころの騒ぎではない。
我々にとってはまったく当たり前になってしまっている、字を書くというと言う行為、この時に外国語を使わないとできないわけですね。かなり最近になるまで日本の知識人というのは、すらすらと漢文を書けることが知識人の要件であったということがずっと伝統として続いてきました。これは片方で日本人が日本語を表記するということを確立したからこそ、いわば安心して漢文を操れるようになったのですが、考えてみると、下手をすれば日本語そのものが完全に消え去っていたかもしれない。そういう状況だったわけです。しかも、帰化人もたくさん日本にやってきております。いま中国人の留学生たちに、「1000年以上前には、我々の方が留学して、日本に来る中国人はみんな先生だったんだよ」と言うと、「えーっ、そんなことってあるんですか」ってびっくりしているんですが、まさにそういう状況だったんですね。
つまり、日本を支配する力をもっている人たちが大陸から大量に流入してくる。そして日本語を書き表す手段というものもすべて中国製である。そしてもちろん、それと一緒に中国から儒教であるとか仏教であるとか、様々な新思想が流れ込んでいる。まさに国際化の光も影も一緒に当時日本に襲いかかっていたというわけです。
そのなかで、しかし、我々は日本人としてどういう国を理想とするのか、どういう国をつくっていくことが理想なのか、言ってみれば、それを神話と歴史の形で書き残したのが『古事記』であり『日本書紀』だったわけです。
この二つの文書は、厳密に言えばそれぞれに個性が違っていて、本居宣長のような人は、『日本書紀』の方はあまりにも中国流にすぎる。大体『日本書紀』なんていうタイトルからして中国を意識しすぎている、と言って嫌いました。
つまり、我々が「日本(にっぽん)」を「日本(にほん)」と言うことは、常に外を意識するから「日本(にほん)」というとらえ方ができるわけで、我々がまったく外と交渉のないときに「日本(にほん)」という国語自体があり得ないわけです。
しかし、いま我々が振り返ってみると、『古事記』『日本書紀』というそれぞれに異なった形で、日本のアイデンティティというものをしっかりととらえておいてくれた。これは大変ありがたいことなんです。殊に『日本書紀』のほうは政治道徳という側面にかなり重きを置いて、我々日本の政治道徳の伝統はいかにあるべきか、というところを様々に描き出している その点で非常に解りやすいと言えます。
しかも、これはユダヤ教のトーラーやスラムのコーランのような聖典として我々をがんじがらめに縛るという性質のものではない。非常にさりげなく、「我々の祖先はこういうふうにして自分たちの道徳をしっかりと立てた。さあ、それに続く君たちはどうするかね」という非常に自由な形で書きおいてある。そういうものです。
ですから、これは我々がいろいろな危機に直面したときに、常にそこに立ち戻って我々なりに解釈し、そこからいろいろな我々にとっての大事なヒントをもらってくる。そういうことのできるものではないかという気がするんです。
ですから、いま21世紀の初めにあたって、日本人は非常に自信を失って、どこを向いて、何を支えにして考えていったらいいのか、わからなくなっているという、精神的な危機に直面しておりますが、こういうときにこそ『日本書紀』『古事記』という千数百年前の書物が、我々の同時代の書物として、我々の友になるべきものではないかという気がするんです。
もちろん、『古事記』や『日本書紀』はいろいろなおとぎ話のようなエピソードを交えながら展開されていて、必ずしも全部が全部堅苦しい政治道徳の話というわけではありません。しかし、国家戦略を立てるというときに、一番重要な、〈我々の国家目標は何なのか〉ということ これを、この二つの書物は教えてくれるのです。
一口に言えばそれは、「わが国の伝統的な国家目標は、蒼生の安寧である」と思います。「蒼生安寧」という言葉は、水戸学の藤田東湖(維新にも大きな影響を与えた)『弘道館記述義』の中に使っていた言葉ですが、要するに非常に簡単なことで、「国民の福祉と安全」ということです。(いま有事法制というものが問題になっています。これもまた蒼生・安寧という非常に大事な我々の国家目標の一端を担う法案ということができると思います。)
これは、平凡と言えばきわめて平凡、当然と言えば当然至極の国家目標なので、「蒼生の安寧が国家目標でないような国はないだろう」ということも言えます。
ただ、ここで、これがわが国の伝統的な国家目標であった。そうでなかったことは一度もないんだということを確認しておくことが大事な意味をもつ。この事実を知っておくことが、わが国の歴史と伝統に対する自信につながると思うんです。
つまり、大東亜戦争に破れて以来この50年間というもの、とにかくひたすら「日本という国はよくない国である」、「駄目な国である」、「日本は占領軍によってはじめてまともな国として歩み始めたん」だというようなことを大真面目に信じてしまった日本人というのはかなりたくさんいるんですね。たぶん、皆さんも国会で日々顔を突き合わせている多くの野党議員の方々がこういう思いに凝り固まっていらっしゃると思います。我々は民主主義によってはじめて国民の福祉、安寧ということを国家目標にするようになったんだと信じている人が、実は学者の中にもたくさんいるんです。この思い込みというものをきちんと正しておく。あらためて我々の、もう『古事記』『日本書紀』の時代からの連綿と続いてきた国家目標として「蒼生の安寧」ということをとらえ直すということ、これが実は非常に大事なことではないかという気がするんです。
例えばその証拠にということで、「憲法十七条」(『日本書紀』巻第二十二)と『日本書紀』の「巻第十一・仁徳天皇の巻」をご紹介します。皆さんもよくご存じの、仁徳天皇が高台に上って、「煙が出ておらんなあ」と心配なさって、3年間税を廃止したところ、また煙が立ち上るようになったという、あの有名なエピソードでございます。
実はこのエピソードのいちばん大事なところは、さらにこの後半の天皇と皇后の会話の中にあるのではないかと思うんです。ちょっと読んでみます。
「七年の夏(なつ)四月(うづき)の辛未(かのとのひつじ)の朔(ついたちのひ)に、天皇(すめらみこと)、台(たかどの)の上に居(ま)しまして、遠(はるか)に望(みのぞ)みたまふに、烟気(けぶり)多(さは)に起(た)つ。是の日に、皇后(きさき)に語りて曰(のたま)はく、『朕(われ)、既に富めり。更に愁(うれへ)無し』とのたまふ。皇后(きさき)、対(こた)へ諮(まう)したまはく、『何をか富めりと謂(のたま)ふ』。」仁徳天皇が、民の家々にけむりの立つのをごらんになって、家に帰ってああよかったよかった、と喜んでいらっしゃるのに、皇后はご不満なんですね「宮垣(みかき)壊(くづ)れて、脩(をさ)むること得(え)ず。殿屋(おほとの)破(やぶ)れて、衣被(おほみそおほみふすま)露(つゆにしほ)る。何をか富めりと謂(のたま)ふや」なんておっっしゃる。言ってみれば、「あなたね、もう垣根なんかボロボロなんですよ。屋根も雨漏りがしちゃって、服が濡れて困るんです。一体何で、あなた、そんなのんびりと『朕(われ)、富めり』なんておっしゃるんですか」というところです。すると、「天皇の曰はく、『其(そ)れ、天(あめ)の君(きみ)を立(た)つるは、是(これ)百姓(おほみたから)の為(ため)になり。然(しか)れば君(きみ)は百姓を以(も)て本(もと)とす。是(ここ)を以て、古(いにしへ)の聖王(ひじりのきみ)は、一人(ひとりのひと)も飢(う)ゑ寒(こ)ゆるときには、顧(かへり)みて身(み)を責(せ)む。今(いま)百姓貧(まづ)しきは、朕(わ)が貧しきなり。百姓富(と)めるは、朕が富めるなり。未(いま)だ有(あ)らじ、百姓富みて君貧しといふことは』とのたまふ」。
これは解説によれば、中国流のいわゆる「仁」の理想を、輸入したものだろうと言います。まさに仁徳(・・)天皇のお名前通りの話ですね。実際にこのとおりの会話があったかどうかは知るよしもありません。
しかし私が非常に重要だと思うのは、『日本書紀』というものは、ほかでもない皇室が編纂したものなんです。多くの歴史学者たちは、これは皇室の正当化のためである、というふうなことを言うわけです。ですけれども、ここに、皇室が編纂した文書の中で、「其(そ)れ、天(あめ)の君(きみ)を立(た)つるは、是(これ)百姓(おほみたから)の為(ため)になり」 つまり、「君主というものはほかでもない。国民のためにあるので、国民のためでなかったら、君主は意味がないんだ」ということを君主自身が言ってしまう。これはすごいと思うんです。古今東西の政治思想の中でもこれだけはっきりこういうことを言ってのけたものは珍しい。
たとえば、中世から近代にかけてのヨーロッパにおいては、君主と国民との間というのは、たえざる力の綱引きであって、「国王は国民のためにあらねばならぬ」ということを言うのは、大体が国王と対立する側が言うわけです。
ところが、日本の場合はこうやって皇室それ自体がそれを宣言している。これがわが国の尊ぶべき政治道徳である、ということを言ってのけている。これは本当にわが国のいわば誇るべき伝統と言っていいと思うんです。
もちろん、現実に、これがいつでも実現したとは限らない。天皇によってはただ遊びほうけて、国民がどうなろうとかまうかと歌ばかり詠んでいる。あるいは権力の座からはまったく遠ざけられて、そんなところに意を用いることもできなかった治世も何年もあるわけです。しかし、政治道徳としてこのように宣言されているということは大変重要です。
これは言い換えれば、常に支配する者と支配される者とが一体になってある。それが理想であるということですね。実は、この正反対なのが、民主主義という近代の政治イデオロギーなんです。これは以前、『民主主義とは何なのか』という新書の中でるる説いたところですが、いくらいい政治をやろうとスローガンを掲げても、民主主義というのはいつでも支配者に対する不信というものが根強くあって、上と下が心を合わせて政治を行うという、それがどうしてもできない。いわばトラウマのようなものがつきまとって、常に健全な政治の足を引っ張っているんです。
それに対して、わが国の伝統的な国家目標というものは、支配者自身が常に自らを犠牲にしてでも国民を助けなければいけないという道徳に支えられている。
これはたぶん皆さんも与党の立場で政治をなさっていらして非常に歯がゆく感じるところではないかと拝察するんですが、「これは国民のためなんだよ」、と言って法案をつくると、新聞やテレビが、「これは国民に対する統制である」、という形で必ず反対をしてくる。そこで必ずてんやわんやの論争になる。最後には多数決で事を決めると、「数の暴力だ」というふうなことを言われる。ほんとに歯がゆい思いをしてきていらっしゃると思うんですが、実はそれは我々の伝統的な国柄のあり方からすると、非常に逸脱した形なんですね。これはいずれ、わが国の憲法を改正するときに、前文の形なりなんなりにおいてはっきりと記しておかなければいけないところではないかという気がいたします。
もう一つ、我々が自信をもって、これこそわが国の伝統であると主張してよいというところが、「道理にかなった政治を行うこと」ということです。これが「憲法十七条」のいちばん有名な第一条のところです。これが今日、皆さんにぜひお伝えしたかったところの一つですが、非常に多くの人が第一条を誤解しているんです。大体の人が最初の1行しか読まないんです。
「一(ひとつ)に曰(い)はく、和(やはら)ぐを以て貴(たふと)しとし、忤(さか)ふること無(な)きを宗(むね)とせよ」。
以前、『論争』という雑誌がありまして、その巻頭エッセイで、四・五人の筆者がこれを取り上げているんですが、「このようにして日本人は論をあげつらうということを嫌って、なあなあで済ませてきた。これがよろしくない」ということを言っている。実はこれはまったく正反対なんです。
この、「和(やはら)ぐを以て貴(たふと)しとし、忤(さか)ふること無(な)きを宗(むね)とせよ」というのは、実は論争の勧めなんですね。ただし、論争というものが論争のための論争になってはならないということなんです。
その続きをちょっと読んでみますと、「人皆(ひとみな)党(たむら)有(あ)り。亦(また)達(さとる)る者(もの)少(すくな)し」。
これは政党政治というものを近代のほとんどすべての国が採用している以上仕方のないところですが、徒党を組むということがある意味では非常に議論を難しくしているんですね。皆さんもたぶん個人的には野党の方たちと大変親交がおありになって、一人一人話せば非常にわけのわかった人間たちなのに、いざ国会での論議となるとどうしてああ話がわからないか、と実感なさることが多いと思います。党というものをつくると、とにかく赤が勝つか、白が勝つかという勝ち負けだけが問題になってしまう。「本当に正しいことは何なのか」ということを目指して論が行われなくなってしまう。ここに言う「人皆(ひとみな)党(たむら)有(あ)り。亦(また)達(さとる)る者(もの)少(すくな)し」というのは、そういうメカニズムを語っていると考えていいかと思います。
「是(ここ)を以て、或(ある)いは君父(きみかぞ)に順(したが)はず。また乍(また)隣里(さととなり)に違(たが)ふ。然(しか)れども、上(かみ)和(やはら)ぎ下睦(したむつ)びて、事(こと)を論(あげつら)ふに諧(かな)ふときは、事理(こと)自(おの)づからに通(かよ)ふ。何事(なにごと)か成(な)らざらむ」、これが聖徳太子の「憲法十七条」の第一条なのです。
つまり、どうやれば事理が通った議論ができるのか。そのちゃんとした議論をするための心構えとして「和(やはら)ぐを以て貴(たふと)しとし」ということが語られている。これが、広く言えば、「憲法十七条」の全体を通じての思想といってもいいものだろうと思うんです。
この「憲法十七条」というものは、大体仏教を中心にしていると言われていまして、次の「二(ふたつ)に曰はく、篤(あつ)く三宝(さむぼう)を敬(ゐやま)へ。三宝とは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほふし)なり」(仏法僧の三つだ)なんていう言い方を見るだけで、ああ、これはもう仏教思想の受け売りか、と思う人が多いんですが、決してそうではなくて、この「憲法十七条」の全体を見ていきますと、あるときには仏教からとり、あるときには儒教からとり、あるときは論語をとり、あるときはまた日本の伝統的な神道の考え方を採用しているという非常に自由自在なものです。
これは聖徳太子が書いたんではないという説もありますが、私は、それについての伝々は本質的な問題ではない、と思っています。重要なのはこれを書いた人自身が、自分自身の理性を働かせて、どうやれば人間の理性というものはいちばん正しく働くのか、それを説いて聞かせた、ということなのだと思います。そういう意味ではまさに哲学的な理性を用いる法と言ってもいい。
人が議論をするときに、何がいちばんサワリになるかというと、まさにこの「忤(さか)ふること」。つまり、「ああ、あんなバカなことを言っているやつがいる。あいつ、どうしてあんなバカなことを言うんだ」という怒りの心が起こる。ただその間違った人間を叩きつぶそうという、そればっかりが念頭に来てしまって、何のための議論をしていたか忘れて、ただ相手を叩きのめすことだけを考える それが真実から人をそらしてしまう元凶なのですね。
ここに「上(かみ)和(やはら)ぎ下睦(したむつ)びて」という表現があるんですが、実はこれは2枚目のほうを見ていただきますと、第十五条のところに、同じ表現が出てまいります。
十五条のいちばん最後に、「初(はじめ)の章(くだり)に云へらく、上下(かみしも)和(あまな)ひ諧(ととのほ)れ、といへるは、其(そ)れ亦(また)是(こ)の情(こころ)なるかな」と。
つまり、第十五条に言っていることが「上(かみ)和(やはら)ぎ下睦(したむつ)びて」ということの真意なんだよ、ということを聖徳太子自身が言っているんですが、それではこの十五条というのはどういうことかというと、「私(わたくし)を背(そむ)きて公(おほやけ)に向(ゆ)くは、是(これ)臣(やつこらま)が道(みち)なり。凡(すべ)て人私有(あ)るときは、必(かなら)ず恨(うらみ)有り。憾(うらみ)有(あ)るときは必(かなら)ず同(ととのほ)らず。同(おなじか)らざるときは私(わたくし)を以(も)て公(おほやけ)を妨(さまた)ぐ。憾(うらみ)起(おこ)るときは制(ことわり)に違(たが)ひ法(のり)を害(やぶ)る」。
つまり、私心が起こる。これは自分が反対されたという、例えばそういう怒りの心といったようなものが起こると、ああ、あいつ、俺に反論したやつだな、ということで恨みが残る。そういう恨みを抱えたまま公を預かる人間がいろいろな論争をしていては「公(おほやけ)を妨(さまた)ぐ」ということにならざるを得ない。
この2〜3ヵ月の国会のあり様というものは“ワイドショー政治”と悪口を言われまして、まさにこの「私」の恨みのぶつけあいを我々国民は拝見したわけです。その“ワイドショー政治”のどこがいけないかというと、結局いちばん大事な「わが国にとって何がいちばん大事なのか」という、その大切なことをみんなで心合わせて議論しようという、本来の国会の義務というものが忘れられてしまうということですね。
これは単なる仲良し、なあなあでやれということではない。むしろその正反対なんです。もし仲良しであっても、誰かが間違ったことを言ったらズバズバと、「それは違うよ」と言いなさい。ただし、ズバズバと、「それは違うよ」と言われたからといって怒ってはいけない。それは公のためにいちばんいい方策を探ろうとして言っているのだから、自分もまた、ああ、そうか、やっぱり相手の言うことにも一理ある、そういうことで考え直さなければいけない。
そのあたりを非常に丁寧に言っているのが、第十条です。「十(とほ)に曰はく、忿(こころのいかり)を絶(た)ち瞋(おもへりのいかり)を棄(す)てて、人の違(たが)ふことを怒(いか)らざれ。人皆(みな)心(こころ)有(あ)り。心各(おのおの)執(と)れること有り。彼是(かれよみ)すれば我(われ)は非(あしみ)す。我是(われよみ)すれば彼(かれ)は非(あしみ)す」。
つまり、お互いに意見が反対になるということはよくあるものだ、ということなのですが、そこで大切なのが次の教えです。
「我必(かなら)ず聖(ひじり)に非(あら)ず。彼必ず愚(おろか)に非ず。共(とも)に是(これ)凡夫(ただひと)ならくのみ。是(よ)く非(あし)き理(ことわり)、劾(たれ)か能(よ)く定(さだ)むべけむ。相共(あひとも)に賢(かしこ)く愚なること、鐶(みみかね)の端无(はしな)きが如(ごと)し」。
つまり、お互いに賢いところもあれば、間違っていることもある、グルッと回っていったら鎖のひとつながりの輪みたいなものだ。そういうふうに心得ろと。
「是(ここ)を以(も)て、彼人(かれひと)瞋(いか)ると雖(いふと)も、還(かへ)りて我が失(あやまち)を恐(おそ)れよ。我独(ひと)り得(え)たりと雖も、衆(もろもろ)に従(したが)ひて同(おな)じく挙(おこな)へ」。
議論に勝とうと思うな。自分が間違っていないかどうかを心配しろ、と、この心構えで論じるときに初めて公論、公の論というものができあがる、というわけなのです。
最後に「十七(とほあまりななつ)に曰はく、夫(そ)れ事独(ことひと)り断(さだ)むべからず。必(かなら)ず衆(もろもろ)と論(あげつら)ふべし。少(いささけ)き事は是軽(これかろ)し。必ずしも衆とすべからず。唯(ただ)大(おほ)きなる事を論ふに逮(およ)びては、若(も)しは失(あやまり)有ることを疑(うたが)ふ」。
つまり、大きいこと、大事なことを議論するときは、必ず衆論ということが必要だ。独断は駄目だということですね。
「故(かれ)、衆と相(あひ)弁(わきま)ふるときは、辞(こと)則(すなは)ち理(ことわり)を得(う)」。
明治維新に際して発せられた「五箇条御誓文」の第一に「万機公論に決すべし」という有名な一条があります。これはまさに民主主義の原理とぴったりと一致するわけですが、これは決して明治の人が早々と西洋の民主主義を担ぎ出したということだけではなくて、むしろこの「憲法十七条」の「夫(そ)れ事独(ことひと)り断(さだ)むべからず。必(かなら)ず衆(もろもろ)と論(あげつら)ふべし」が、維新の人たちの頭にあったのではないかという気がするのです。
つまり、明治維新のときにはじめて民主主義が採用されたということはない。そのときにもう既に1000年以上にわたる「衆論が大事だ」という伝統が出来上がっている。しかもその衆論というのは、単なるポピュリズムということとはまったく違うんですね。この「衆論が大事だ」ということの背後には、この「十に曰はく」に言っているような、非常に行き届いた、いわば議論心理学と言ってもいいようなものがあります。議論のときはみんなカッカ熱くなるものだけれども、頭を冷やして、相手の言うことに耳を傾けて、あ、こいつの言っていることはいいこともあると。そういう仕方で議論を積み重ねていくときに、はじめて「必ず衆(もろもろ)と論(あげつら)ふべし」という議論が生きてくるわけです。
そういうわが国の伝統というもの、これが「一(ひとつ)に曰(い)はく、和(やはら)ぐを以て貴(たふと)しとし」ということの真意なんですね。
それを考えてみると、我々の政治のあり方というものがどうあらねばならないかということは、もうおのずと明らかと言えるのではないかという気がいたします。
つまり、一言「道理を通す政治をする」とだけ言っていればよい。これは決して、我々が西洋人に学んだことではなくて、もう最初からの我々の国家についての認識の内に刻み込まれたものなのですね。こういう認識に基づいて、国家戦略を編み、国家ビジョンを策定する。もうその大筋が決まれば、あとはただもうひたすら虚心に外側の情報を解析していくだけという気がしております。
例えばこれを現実の応用問題にして考えてみますと、いま不審船の引き揚げ問題というのが問題になっております。先日、チラッと新聞を見ましたら、金大中さんが、「もしひょっとして引き揚げて北朝鮮の船だったらどうするんだ。困るではないか」ということをおっしゃっていらっしゃる。これは下手に我々の「和(わ)を以(もっ)て貴(とうと)しと為(な)す」、これだけを国是だと考えていますと、ああ、そのとおりだ、金大中さんの言うとおりだと考えてしまうかもしれないと思います。つまり、「和(やはら)ぐを以て貴(たふと)しとし」というのは、揉め事を避けることである。なんかやっかいなことがあったら、「まぁ、とにかく、まぁまぁまぁ、こっちが悪かったんだ」と言って収めてしまう。これが「和(わ)を以(もっ)て貴(とうと)しと為(な)す」だというふうに誤解していらっしゃる方が非常にたくさんいるのではないかという気がするんですが、これがわが国の伝統でもなんでもないんですね。
第一、聖徳太子という方が、まず中国に小野妹子を派遣したときに、「日(ひ)出国(いずるくに)の太子、日没する国の天子に与(あた)ふ」といってあの親書を書き出したという人なんですね。つまり、もうバンと打ち出すところは打ち出す。道理をもって、あくまでもこっちに道理があるんだというときには、自信をもってその道理を押し通し続けること。これは実は「和(やはら)ぐを以て貴(たふと)しとし」というわが国の国是に決して反するものではない。むしろそれにかなったことであるという気がするんです。
我々がどこまでも冷静に議論をする国民であるという自信をもって事に望めば、北朝鮮に対してあくまでも、「あなた、これはどういうことですか」と徹底して理をもって問い詰めるという、その仕方で通す自信が出てくると思うんです。もっと小さな事柄に関してもありとあらゆる場面で、外に関しては必ず道理をきちんと主張する。そして内側では、「十に曰はく」と第十条に言われたような「自らを振り返って相手の言うことに耳を傾ける」という和の精神において理にかなった議論を重ねる。これがさしあたって21世紀の我々が目指すべき国民としてのあり方でないかというふうに思っております。
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