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国家戦略本部 第4回 平成13年11月12日
「 21世紀日本の構想」(1)
講師 河合 隼雄( 京都大学名誉教授)
http://web.archive.org/web/20080927221549/http://www.vectorinc.co.jp/kokkasenryaku/index2.html
生年月日
1928年
出身
兵庫県
現在
京都大学名誉教授、臨床心理学・教育学博士
略歴
京都大学理学部卒業
京都大学大学院
ユング研究所(スイス)
京都大学教授
日本国際文化研究センター所長
著者
昔話と日本人(大仏次郎賞)
明恵 夢を生きる(新潮学芸賞)
その他日本文化、教育、心理学に関する著作多数
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21世紀のことを考える場合、日本だけではなく、私は世界中だと思っているんですが、大変難しいのは、一つの理論というか、一つの考えで筋を通してするということがもうできない時代ではないかと思っております。一つの理論、一つの体系でいくと非常にきれいに説明できるんですが、どうしても現実と合わなくなってくる。その一番よい例が唯物史観だと思います。あの理論は非常にきれいで、何でも説明しているように見えながら、結局は現実に合わないということで、長い実験の末に敗れてしまった。
だから、これは私の解釈なんですが、20世紀に社会主義と資本主義が対決して、資本主義のほうが優れていて勝ったというのではなく、資本主義国のほうが社会主義的な考え方を非常に上手に取り入れたからではないかと思っているんです。特に日本なんかはその最たるものではないかと思いますが、資本主義でありながら、非常にうまく社会主義的な考え方を政策の中に取り込んできた。だからよかった。ところが、社会主義国は資本主義的なものを全然取り入れられませんから、その弱さがあって、こちらのほうが弾力性があった分、強かったのではないかと私は思っているんです。 それで同じように、21世紀は、そういう一見矛盾しているような、あるいは一見対立するようなものを、すごく上手に踏まえていったものが成功するのではないか。だから、議論もなかなか難しいし、政策も難しいのではないかと私は思っております。 そういうことが一つの非常に大きい前提なんですが、21世紀日本の構想懇談会でもそのことは実は随分話題になりました。なりましたが、そういうことはなかなか書けなくて困ったんです。
それから、これは私がアメリカに行ったときに、アメリカ人を大いに笑わせているんですが、パーティーに行ったときに「おまえ、何を飲みたい」と聞かれると非常に困る。というのは、日本人は、自分はいまここで何を飲みたいかというより、ここで何を言うのが適当かというのを先に考えてしまうんですね。だから実際、私の友達で、一番初めに「おまえは何を飲みたいか」と言われて、「アイ・ドント・ノー」と言った省がおるんです。それでものすごく冷やかされて、日本人は自分の飲みたいものもわかってない、自分というものを全然持っていないというので、ぼくも腹が立ったから、「彼がアイ・ドント・ノーと言ってるのは、自分が飲みたいものがわからないと言ってない。この全体の状況がわからないと言ってるんだ」というように説明したら、あ、なるほどというんです。
このことを私がアメリカ人に説明するときによく言うのは、あなた方は一人称の主語はアイしか持っていない。ところが日本人はいっぱい持ってるんだ。おれとかわしとか、拙者とかいっぱいあって、しかも、使い分けしてる。例えば私が家へ帰って、「今日、私としましてはビールを飲みたいと思います」と言うと、家内は気が狂ったんじゃないかと思うと思うんです。「わしはビールや」と言わなダメですし、ここで急に私が「おれはですね」なんて言うと、みんなも全然聞かれないと思うんです。ケンカのときはやっぱりおれでいかないといけないというか、つまり、アイと言う前に、場の認識を先に持ってるんです。これはアメリカ人には絶対考えられない。アメリカ人はアイから出発してる。
つまり、日本人の場合は、パッと集まったら、場とかシチュエーションということを考慮せずに発言するのは非常に危ないんです。それをやると、よほど正しいことを言っても大体、後でどっかへやらされたり、左遷されたりしてしまうことが非常に多いと思います(笑)。だから、全体の場を配慮してものを言わねばならない。それは子供のときからずっと訓練されてきてるわけです。
このことを私がアメリカ人に説明するときによく言うのは、あなた方は一人称の主語はアイしか持っていない。ところが日本人はいっぱい持ってるんだ。おれとかわしとか、拙者とかいっぱいあって、しかも、使い分けしてる。例えば私が家へ帰って、「今日、私としましてはビールを飲みたいと思います」と言うと、家内は気が狂ったんじゃないかと思うと思うんです。「わしはビールや」と言わなダメですし、ここで急に私が「おれはですね」なんて言うと、みんなも全然聞かれないと思うんです。ケンカのときはやっぱりおれでいかないといけないというか、つまり、アイと言う前に、場の認識を先に持ってるんです。これはアメリカ人には絶対考えられない。アメリカ人はアイから出発してる。
しかし、これを間違う人は、アメリカ人は利己主義だなんて言う人がいますが、全然そうじゃなく、利己主義ではなくて、自分からものごとを出発するけれども、相手の言うことも聞いて、ディスカッショをして決めるというのが彼らのやり方です。我々は、場を考えて発言する、場を考えたものが発言して、あとまとめていく。結局のところは同じようになるかもしれませんが、発想の根本のときに、個というものをそれほど確立していない。これは非常に難しい問題です。
というのは、そのことを私が意識して説明したりすると、アメリカ人も感心してくれるんですが、説明なしにやっていると、ものすごくばかにされるんです。つまり、私が向こうに行っている間によく言われましたが、日本人は自我を持っていないとか、日本人の顔がないという言い方をされます。あれはみんな、私は誤解だと思いますけれども、そういう方法で我々はやってきた。
もう少し翻って原理的なことを言いますと、私はそのときに、これは欧米の人に説明するときに非常に通用しやすいんですが、日本人とかアジアの人に言うときにはちょっと通用しにくいんですが、欧米の人に通用しやすい言い方でいいますと、物事の考えに父性原理と母性原理とあって、違うと。この父性原理と母性原理の差を説明するのに私はよく使うんですが、私の子供がスイスにおりましたからスイスの幼稚園に行ったんです。そうすると、背の高い子がいますので「あの子、背が高いですね」と言ったら、1年から幼稚園につい最近、落第してきた」と言うんです。私はすごくびっくりして、日本では1年から幼稚園なんか絶対落第させない」と言ったんです。そのときの挨拶がびっくりしたんですが、向こうの先生がどう言ったかというと、「日本人はそういう不親切な教育をして、うまくいくのか」と言ったんです。
そこで親切という言葉を遣われたんで、はっと気付いたのは、父性原理の親切というのは、1年でできない方は幼稚園にしてあげます。ゆっくり来てもらったらいいんで、これは非常に親切な話ですね。日本は、1年生で何もできなくても、2年生にしてあげます。これが日本の親切なんで、これは母性原理で、全部包み込んで、包み込んだものは絶対離さずに一緒に行きましょうと。あちらはできる者とできない者を分けて、できる者は飛び級でどんどん行きなさい、できない者はゆっくり行きなさいというのが、そのときに親切という言葉を遣うというんで、すごくびっくりしたんです。
我々なんかは日本の親切のおかげで大学を卒業してきたわけですけれども、ご存じのようにアメリカとかヨーロッパの大学は、入るはやすいけれども、厳しくやられますのでなかなか卒業できない。そのときに、皆さん、すべて考えてくださったら結構ですが、私の考えでは、どちらが正しいということはないと思っています。つまり、母性原理の考え方も非常に面白いし、父性原理の考え方も非常に面白い。ただ、近代科学は父性原理を背景に生まれてきたものであると、この認識は絶対持ってなくてはならないと思うんです。 つまり、父性原理というのはいま言いましたように、良いものと悪いものと分ける、重いものと軽いものを分けるというように、切断する力が非常に強いんです。そうしますと、物でもどんどん分けていって、最後は原子、その原子もまだ分けるという具合に、どんどん区別して、個々のものをはっきりさしていって、その関係を見るというのが近代科学の考え方です。このようなすごい父性原理がヨーロッパで生まれてきたというのは、やっぱりユダヤ・キリスト教を不問にするわけにいかないと私は思ってます。
ご存じのように、ユダヤ・キリスト教は、父性原理の非常に強い宗教です。神と人は明確に違う、人とほかの被造物は違うと、非常にはっきりと分けているわけです。 それに対して我々の宗教観は、どちらかといえば人も動物も一緒、仏教で、日本の仏教の場合、特にそうですが、木や石まで仏心を持っていると我々は考えます。そのように全体を包んでつながって、みんなでということをうんと考えるほうが母性原理で、どんどん分けていこうというのが父性原理なんです。
そのときに、ヨーロッパだけであれほどの科学ができてきたということは、やっぱり父性原理のいいほうといいますか、すごいほうといいますか、それを徹底的にやっていった、これがヨーロッパの文化、文明だと思います。それは非常に便利なものを生み出しましたので、日本人は今も取り入れております。世界中でそれを取り入れようとしているわけです。
だから、日本人は和魂洋才ということで、うまいこと西洋のものを取り入れてきたんですけれども、とうとう上澄みを取り入れるだけでは済まなくなった時代がきている。それはなぜかというと、グローバリゼーションということがありますように、もらうだけもらって、あとはあんまりつきあわんでもいいわという感じできてたんだけれども、今は絶対つきあわざるを得ない。あらゆることにおいて日本はどう思うかとか、日本はどうするのかとか、日本はどう考えるかということをどんどん言われるだけじゃなくて、今までだったら、いわば政治家、外交官、少数の人だけでよかったと思うんですが、今はもうインターネットもありますし、どんどん交流が起こっている、その中で父性原理に基づく個というものをはっきり打ち出すことができない限り、日本人は相当苦労するのではないか。あるいは現在、相当苦労しているわけです。
実は、ちょっと話が横へ行って申し訳ありませんが、2週間ほど前にフランスの、外人の名前をよく忘れるんでちょっと名前を忘れて申し訳ありません、大臣の方が来られて、21世紀日本の構想の座長の私と、幹事をやっていた山本正さんという方がおられますが、2人に会いたいということでフランス大使館に会いに行きました。どんな話を聞きたいのか、何を聞きたいかと言うと、びっくりしました、日本人の宗教について聞きたいということでした。それを徹底的に聞かれました。
つまり、今、テロ事件が起こってます、そのことも背景にもって、外から見ている限り日本人の宗教ほどわかりにくいものはない。こういうときに一体どう考えているのかということをはっきり知りたいということで、長い間話をして、だいぶわかってもらったんですが、そういうふうに、こういう問題を考えていくと背後に宗教の問題があるんです。 それで実は、21世紀日本の構想懇談会の報告書の中に、宗教のことを入れるか入れないかというのでだいぶ話し合いました。私は何とか入れたいと思ったんですが、政府に提出するもので、政府が取り上げる場合に、やはり宗教のことを前面に言うのはやめたほうがいいだろうということで、あれには書いておりません。書いておりませんが、私はすごく責任感を感じてるんです。この問題を抜きにして日本は21世紀やっていたら、外国とのつきあいとか、非常に困るのではないかと思っているわけで、そんなわけで背景まで考えねばならないと私は思ってます。
そして、いまも申し上げましたように、発想の根本に個人がある。私はこう思う、あなたはどう思うかという、発想が個人として出てくる背景は、まずキリスト教から出てきたと私は思っているんです。なぜかといいますと、キリスト教では私と母とのつながりとか、私と兄とのつながりよりも大事なのは、私と神とのつながりであります。だから私という個人は、まず神とつながっているわけです。その神につながっている私は、私の考えを堂々と述べる。その代わりに外の人も神につながっているから、切れてはいないわけです。神を介してみんなつながっているというつながり方が彼らの考え方ですから、個人というのはちゃんと生きたらいいんですが、神とつながってるからばかなことはしてはいけないと。だから、各人が倫理観が非常に厳しい。倫理観の非常に厳しい中で、個人というものを生きよう。つまり責任ですね。責任は絶対に取りますという、これがヨーロッパの個人主義なわけです。
ところが我々日本人は、そんな考え方で生きていないわけです。我々日本人は、このことは絶対に知っておくべきだと思いますが、日本人の場合は唯一の神とつながるなんていうのではなくて、非常に長い間やってきたのは、家という考え方です。これが世界の中で非常に珍しいと言っていいんです。
どう珍しいかというと、河合家というものを大事にしているんです。ところが、中国の方も韓国の方もインドネシアの方もファミリーをすごく大事にしておられますが、どこが違うかというと、あちらはみんな血縁、血のつながりが大事なんです。そうすると、私の息子がどんなに能力がなくても息子が一番大事というのが、ほかのアジアの国々の家の考え方です。ところが、我々日本人は家が大事ですから、長男がダメだったらやめて、三男を跡継ぎにするとか、極端な場合、廃嫡にして養子をもらう、そういう意味で日本はすごい養子の多い国です。なぜかというと、家が大事ですから。
皆さんご存じのように、大阪の老舗なんかは娘のほうが跡を継いで、番頭が婿入りするという、そうすると家は確実に続くわけです。ところが、中国とか韓国とかインドネシアとか、あのへんのところはみんな血のつながりでいきます。そうすると、血のつながりの家族は大家族にずっとなっていきますが、その大家族が大事で、大家族のためであれば何でもやろうと頑張って、あの方たちはやってこられたので、近代化が非常にしにくいんです。
なぜかというと、私が大臣だったら、私の弟は絶対何かにならなきゃいかんし、私が総理大臣だったら、弟は法務大臣になって、いとこは経済何とかになってとか、そういうことをやるから、能力が生きてこないんです。ところが日本は、面白いのは、家を存続さすためには、家の中では能力主義なんです。この考え方が明治のときに、日本の国の一大事というのはみんな、お家の一大事と思ったわけです。そうすると、もしも一番下の侍でも、能力があったら頑張ってやれと。だから明治維新のときに身分を無視して、能力のあるものがどんどん上がってやったということがあって、そういうことをやりましたから、日本の国はほかの国とは違って、家というものを大事にしながら、家を拡大して考えたりすることによって、上手に能力主義を使っているんです。
しかし、上手に使っているのであって、西欧ほどの個人主義ではありません。しかしその中途にあったために、日本だけが相当近代化できたのではないかという説がありますが、これは私、面白いと思います。
もう一つ、ついでに申し上げておきますと、古い家という考え方は封建的だというんで、新憲法で潰されたわけです。潰されて日本人はどうしたかというと、企業を家に見立てた人が非常に多いんです。そうすると、私が例えば三菱なら三菱というところへ入ったら、三菱という家を繁栄させれば私のアイデンティティは確立すると。なぜかというと、三菱は永遠ですから、私は死んでもいいと、こういう考え方です。だから、日本人は各企業にものすごく頑張って尽くした。このことが、日本が戦争に敗けてから50年の間にすごく強くなってきた一つの原動力だと思います。日本人はみんな月給以上に働いたと思います。月給をもらって働いてはいるんだけれども、それよりも会社に尽くすということが自分のアイデンティティと関係しているわけです。
そこで困ったことは、男はみんな会社のほうへ行って、会社の子供になってますから、家のほうは、母親が父親役も母親役も全部やらなきゃいかんという、しかしそれも、日本はわりとやり切ってきたんです。そういう構造で日本はずーっと上がってきたんだけれども、もう今はその格好が続かなくなってきたんです。
これはご存じのように、もっと厳しくなりましたから、会社を家だと思っていたのにリストラは起こってくる、家のほうでは奥さんが非常に強くなってこられましたから、そんな何もかも私はしないというわけで、夫との対話とかいうやつをやろうとされます。ところが、言うてみたら、そんな人と人が対話するなんていうことをしないから会社で出世してるわけです(笑)。自分の言いたいことを言わずに、みんな辛抱したり、みんなのことを考えたりして、ずっと出世して、家へ帰った途端に奥さんが「あなたはどう思う?」なんて、「まあ、そら考えとくわ」とかと言うて(笑)、これは我々もよくやってるんですが、男の世界で考えるっていうのはお断りということなんですね(笑)。
ところが、そういう日本語は家庭では通用しませんので、奥さんと子供はお父ちゃんは考えてるらしいとか言って、一週間待ってるわけです。一週間たったら、「お父さん、考えたか」「あ、忘れたわ」「何を言ってますか」となって、放り出されたりしまして(笑)、最後は落ち葉になったりするんですが、大変なことが起こってきた。
こういうふうな、いろんなことがこんなに起こってきたということはどういうことかというと、西欧の上澄みに日本のものを足して、相当いい線まで、ものすごくいい線までいったんだけど、いい線までいったところで、もういっぺんほんとに考え直さないと、いろんなとこで大変なことが起こってる。いま一番起こってるのは家庭だと私は思います。
それはさっき言いましたように、会社はまだ会社の組織を持ってる。組織を持っているところは組織で動いてますから、まだまだ日本的家感覚というのが生きてまして、うまくいってるんですが、家族のほうが家感覚でなくなってきてるんです。
それから、ちょっとついでによその国のことを申し上げますが、ほかの国は血のつながりを大事にするということを、近代化のためにどうして断ち切るかという、ものすごい難しい問題に直面しています。今まで見ておられたらわかると思いますが、韓国などはそれで随分苦しんできたわけです。それを何とか断ち切ろうと思って苦労しておられるのが、今の金大中大統領だと私は思ってますが、大変苦労しておられます。
ほかの国はいろいろ問題がありますが、ついでに言っておきますと、中国の場合は、家族のつながりでアイデンティティを持つのをやめさせて、潰して、毛沢東が唯一のアイデンティティの中心にしようと、毛沢東は考えたわけです。そのために、家族間の密告をものすごく奨励したんです。文化大革命のときに、つまり父親が子供を訴えたり、子供が父親のことを密告したりすると、ものすごいほめられるのです。あるいは地位が上がったりします。それで家族関係がめちゃめちゃになるわけです。そうすると、血のつながりはダメだ、何に頼ったらいいかといったら、毛主席に頼ろうという格好にして、アイデンティティをつくろうとしたのに、毛沢東自身も潰れましたから、中国へ行きますと中国の人たちが、我々は今、何をもってアイデンティティを考えたらいいかわからなくなってると。
私の知人の中国の方はこういう言い方をしましたね。「河合さん、あなた方を見てたら、中国人はすごくおカネのことに一生懸命になってるように見えるけど、我々としてはおカネ以外に頼るものがないのだ。そこのところはわかってくれ」と言った人がいます。ああ、なるほどと思いました。今はしかし、中国も徐々に、やはり昔の家族関係に返りつつあるそうだそうです。どうなっていくかわかりませんが。
それで日本のことに返りますが、日本は、家も捨てて個でいこう、個の確立なんて言っているけれども、その個の確立を何が支えているのかという、ものすごい問題があるんです。西欧の場合、今も言いましたように、キリスト教文化圏は唯一の神が支えている。ところが、先に言いますと、実は欧米でも非常に困っています。
というのは、ご存じのように、唯一の神とのつながりが前よりもそれほど強くありません。それから、今の欧米の人と話をしてたら、個人主義がほかの国から見てて、キリスト教に支えられているということをもう意識していません。ぼくらが言うと、あ、なるほどそういえばそうだなと感心しますが、自分たちはキリスト教と関係なく、公民としてやるべきことをちゃんとやっているんだという考え方です。神と関係なく、正しいことをやり、悪いことはやめると。
ところが、神との関係とか、先祖との関係とか、そういうものとの関係で倫理を考えているのと、それを全部抜きにして倫理を考えだしますと、結局、法律がすごく強くなってくるわけです。法律に従っているか従っていないか。ということになりますと、皆さんご存じのように、アメリカはものすごい弁護士の数の多い国です。これは日本と逆です。ご存じのように弁護士が多くて、訴訟がものすごく多くて、その問題はアメリカでは非常に深刻になってきていると思います。いわば訴訟に勝つものが勝ちということになりますから。
私は日本のことを非常に心配してますのは、ビジネスの世界で、アメリカの弁護士たちが日本を食い物にするということをもっと積極的に考えだした場合に、非常に恐ろしいのではないかと思っているんです。どういうことかという、極端な例をあげますと、例えば日本でAという会社がいろんな面白いやり方をして管理をしていても、日本ではそんなのはよろしいなというだけですが、それをアメリカ人が知った場合、それと非常に似たようなものに何々方式という名前を付けて、アメリカで登録すると、それは特許になってしまうんです。そうすると、今度は逆に、法律的には、その特許をおまえの会社は盗んだのではないかと言えるわけです。そうすると日本の会社は、いや、これはもともとわしらが考えてたんだと言ったって、法律論争としては絶対負けてくる。
そういうときに日本人はすぐに、示談にするから、カネを払うということになる。そうすると、簡単に言ってしまえば、もう全く丸儲けになるわけです。それをちょっと考えついたというだけで。そういうふうなことがこれから起こりかねまじというか、そういう感じを持ってるんです。
そういうことにも、向こうがこれでくるんだったら、こっちもこれでいって、法律でくるんだったら法律でいくということができないと、日本人はそこを何とか示談にしましたと言って日本で喜んでいても、国際的にすごく損をするんではないか。これは現実にあちこちで起こっているんじゃないかと私は思います。
日本のよさを我々、ものすごく意識しなくてはならないと思ってます、大事だと思ってますが、そういうことを言ってて、あちらに負けるのは腹が立つというのが私の考え方なんです。日本人のよさばかり言ってるときに、ほんとの個ということだけ考えて、しかもキリスト教倫理からちょっと離れて、法律ということを盾に取ってパッときた場合、こちらがそれに対抗できなくて負けるとしたら、こんなばかなことはない。だから、実際、今、外交官にしろ政治家しろ、ビジネスマンにしろ、第一線で活躍してる人たちは、そのへんのことをすごく考えながらやってると思いますけれども、それが日本とアメリカの関係の中でもっと広がってくると思うんです。その中で、ちゃんと対抗できるぐらいの個の強さというものを日本人は持っていかないと、損をするのではないか。
これをまた全く違う考え方で、我々の世界で言いますと、例えば学者でも、ノーベル賞をとられる可能性がある方がある程度わかります。アメリカだったら、その人がノーベル賞をとったら大学もうれしいしというわけですと、その先生にだけバンと大きい予算を付けます。そうするとその先生は、カネが多いですから、秘書を3人雇って、助手を2人雇ってということができるわけです。そしてバーッと仕事をされるから、どんどん研究してノーベル賞をとられる。
日本の場合、どうなのかといったら、あれはできそうだといったら、今度、学部長をお願いしますということになるんです。偉くなったような気がしますが、要するに小使いになったみたいなものでして、すっごく忙しくなる。そのときに、私はノーベル賞をとりそうですから、助手を3人にしてくださいといっても、絶対に通らないですね。日本は個ということを考えるよりも、全体のバランスを考えているから、みんな同じようにというのが日本の考え方です。そうすると、日本の大学ではそれができません。
だから、現実に私があの人はノーベル賞をとるんじゃないかと思っていた方がとれなくて、学部長をされていて、残念だなと思ったことが実際にあります。野依先生の場合にもすごく心配していたんですが、うまくとられて有り難かったんですが、こういうことを考えると、もうちょっと個ということを考えて、個人の能力なり個人の力なりを、もう少しみんなよりは伸ばすということを日本が考えないと、日本人全体が損をする。
それでも、日本の小学校で飛び級にするなんていうことはまだまだ絶対できないでしょうね。外国はそんなことは当たり前になっているわけです。フランスなんていうと、飛び級する人もいるしゆっくり行く人もいますから、飛び級する人と落ちてくる人とを入れますと、6年間を6年で出る人のほうが数が少ないと思います。
http://web.archive.org/web/20080927221549/http://www.vectorinc.co.jp/kokkasenryaku/index2.html
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