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国家戦略本部第17回 平成14年4月24日
「日本が担う文明創造」(1)
講師 正村 公宏(専修大学講師)
http://web.archive.org/web/20080927221549/http://www.vectorinc.co.jp/kokkasenryaku/index2.html
生年月日
1931年
現在
専修大学名誉教授
略歴
東京大学経済学部卒業
専修大学経済学部教授
国民生活審議会委員ほか多数の政府審議会委員を歴任
著書
改革とは何か(ちくま新書)
地球市民の経済学(日本放送出版協会)
成熟社会への選択
■正村 公宏講師
講師日本の今日の経済危機、更には社会の様相が大変危うくなってきております。こういう危機の時代には即席の対応策を探して駆けずり回るというのは泥沼にはまるということをしっかり考えないといけないと思います。言ってみれば、堤防の決壊をくい止めるための応急措置はやらないわけにいかないと思います。しかしながら、こういう時期にこそインスタントラーメンのような即席のハウツー探しやめて、少しまじめに、この危機の本質は何か、源は何なのか、なぜこうなったのか、WhatとかWhyを問う必要がある。現代文明はハウツー文化をはやらせてしまう病気があります。これと闘わないと学問も政治も健全性を取り戻せないと私は思っているのであります。
この危機の本質は何なのか、何に由来するのか、どこで誰がどう間違えたのかということをしっかり考えることが必要だと思います。「過去のことを言っても始まらないよ」というのは間違いであります。過去についての的確な判断、評価、認識ということができないでどうして未来の設計ができるか。「設計」というのはあまりいい言葉ではありませんが、未来についての展望を切り開くことができるのか。過去を正しく締めくくることができない人間に、あるいは過去のいろいろな時点におけるいろいろな主体の誤りについて残念ながら率直に言わなければならないとしたら、そのことを率直に言うという勇気をもつことができないで、どうして責任のある未来についての展望を語ることができるのか、というのが私の近年の思いであります。
総合的、長期的な国家のあり方、針路を考えるときには、回り道のようでも歴史をしっかりとらえ直すということが必要だろうと思っております。来年2003年は、ペリーが最初に浦賀にやってきた年からちょうど150年になります。私たちはこの150年の日本の近現代の歴史全体についての理解をもう一度しっかりともつことが必要ではないか。そのことがはっきりしないから絶えず近隣諸国といろいろな形の摩擦があります。150年の近現代の日本の歴史における光と影の両面をしっかり締めくくるといいましょうか、見直すということが必要であります。
歴史は「もしも」を問わなければいけない。特に近現代の歴史については「もしも」ということを問わないといけない。誰がどこで間違えたのか、あのときこういう路線を選ばないで、こういう路線を選んだらどうなったのかという推理をする楽しさを歴史を学ぶ子供たちにも教えないといけない。
歴史は必然的なものではありません。主体がかかわっているわけであります。ある時点における国家の戦略を読み間違えた、選び間違えた、指導者たちが選び間違えたためにとんでもないことになったという事実が過去にあるのであれば、そのことを子供たちに教えなければいけません。
そして、もしそのときに主体の選択が大きな誤りがなければ(小さな誤りは避けることができませんけれども)、あるいは別の戦略をしっかりと状況を認識して選択したならば、歴史はどう変わり得たのかということを子供たちに考えさせる。こういう歴史教育をやらなければいけないのに日本ではやっていないと思うのです。
「悪うございました」と言って過去については近隣諸国に頭を下げればいいわけではないんですね。それは主体性のない対応でありまして、歴史についてはやはり過去の主体の責任を問いながら厳しい状況の中で別の道はあり得なかったのか、ということを問い詰めるという姿勢が歴史を学ぶことであると同時に、未来に対する自分たちの責任を考えるということでもある。今日のような日本の社会と経済が大きな困難に直面している時代には、回り道のようでも歴史をもう一度考えるという空気をつくることはどうしても必要ではないかと思っております。
150年の歴史を振り返ってつくづく思いますのは、もちろん日本の指導者たちは国民の空気からまったく独立であったわけではないのですけれども、直接には指導者たちが世界の情勢を読み損なったということが非常に大きな災いをもたらした。紛れもなく、とてつもない大戦争を誘発したことは事実でありまして、やむを得なかったのだというふうに私は思いません。どこかで世界の動きを読み間違えたんですね。
あえて乱暴な言い方をしますけれども、19世紀は帝国主義の時代でありました。しかし、20世紀は帝国主義に対する反対の動きが無視できない力を持つようになった時代であったわけであります。列強の動きを見ましてもイギリスの国家戦略とアメリカの国家戦略は明らかに違っていた。少なくともある時期以後は違っていたわけであります。植民地主義に対する考え方が違っていたわけですね。日本は中国を敵に回し、泥沼にはまり、最後にアメリカを敵に回し大戦争をやって大敗北をした。その過程で当時のリーダーは、ごく少数をのぞき、そうした世界史の大きな変化を読み取れなかった。敵にしてはならないものを敵に回して無謀な戦争をやった。
その過程を見ますと、誤った戦術によって困難な状況をつくり出し、その困難な状況を打開しようと思って更に誤った戦術を選択する。地球規模の状況分析をやり直して国家戦略を建て直すということをやらなかった。やろうとした人がいたけれども、それは在野のごく少数の人であった。また、元勲とか元老とか言われるような指導者の人たちも薄々感じてはいたけれども、そういう立場から国家戦略を正面から問題にしようとはなさらなかった。暴力で威嚇されて非常に難しい状態だったかもしれないんですけれども。
しかしながら、急進的なことを言っていた人たちも、とんでもない方向に日本の国家を引っ張っていくことで危機を打開しようとしたんですね。このことを学びとる必要がある。状況は今ともちろん違いますが、私たち日本人は世界の動きを読まないといけない。
この危機の10年、バブル崩壊後の経済をめぐる議論に限定いたしましても、議論がものすごく内向きになっていると思います。世界を自分で読む。そういうことをあらためてやらないといけない。たまたま21世紀の初頭に立っている今、20世紀はどういう時代であったのか、21世紀はどういう時代になるのか、あるいはどういう時代にしないといけないのかということを考えるべきだと思います。
いま危機の状態にあるとは言っても、紛れもなく我が国は経済的には大国であるわけです。大量の資源を消費し、大量の環境負荷物質を排出している国民であるわけですから、地球に責任を負わないといけないと思います。そのことを私は強調したい。「国家戦略」ということをご議論になるのであれば、地球規模の状況判断、文明史的な認識、文明史的な転換の必要性と可能性についてご議論いただくということをぜひお願いしたいと思います。
相当前から私は、「20世紀型の文明を延長することは人類の自滅につながる」ということを繰り返し述べてきた人間であります。
考えてみれば当たり前のことを言っているにすぎないということも思うんですけれども、当たり前のことを声を大にして言わなければならない時期というのがある。これだけ資源浪費的で環境破壊的な20世紀型の文明は延長できない。よく言われます言葉を借りれば持続可能性がないということはますます明らかになっています。
今年の冬、「暖かくて過ごしやすかったですね」という電子メールをある方からいただいた。それに対するご返事を差し上げた。「個人としては過ごしやすかったですけれども、これは大変なことが起こっているのではないかということを私たちに懸念させるものがあります。」と。地球の温暖化というのは、一本調子でいくわけではありません。夏はものすごく寒くなるかもしれませんし、あるところは日照りで、あるところは豪雨だったりする。あるいは竜巻、台風のエネルギーが大きくなり、数は少ないけど、やってくると思いがけずものすごく雨が降るとか、そういう形で変化が進む。2100年に地球の温度が1度上がるとか2度上がるという議論が先行してしまうために、先の話だと思ってしまうんですけれども、地球の温暖化が進むことによって気象異変が起こり、そのことが思いがけず大規模な食糧危機を地球規模で発生させる可能性だってあるわけであります。私たちは軽く考えすぎていると思います。
日常に追われて、超長期のことは目の中に入ってこない。一般の国民が日常のことに追われているのは仕方がないのですけれども、国家を指導する責任を負っていらっしゃる皆さん方が、「日常のことに振り回されて超長期のことを考える暇がないよ」と言っていたら、過去と同じになると思いますね。そういうことをいま考えないといけない。
環境が破壊されているだけではありません。人間の再生産が危うくなっている。日本だけではないと思います。先進社会共通に犯罪が非常に大きくなり、家族の形が崩れてしまい、いろいろな形で、リプロダクティブ・パワーと言っておきますが、再生産力が破壊されている。いわゆる環境ホルモンという化学物質による生殖力の破壊は深刻な事態を生み出す可能性があります。確認することはなかなか難しいですけれども、専門家によれば男子の精子の数が確実に統計的に減っていることが確認されている。
そういう問題について私たちは不確実であるとか、まだ十分に証明されていないからといって目をつぶってしまうわけにいかない。本当にそれが表面化したら取りかえしがつかなくなる危険があるわけですから。リプロダクティブ・パワーというふうに言いましたが、生物学では「生殖力」というふうに言うのでしょうけれども、経済学者である私は「再生産力」という言葉を使っております。数が減っているということは、ご存じのとおりです。日本の場合、特にそうですけれども、先進国共通にその傾向がありますね。10年、20年のスパンで考えたら激減と言っても言い過ぎではないぐらいに減っていますね。それだけではない。質の再生産に失敗しつつある。
日本の場合、現実に子供たちの育ち方がおかしくなってしまって、少数ではありますが、犯罪に走る子供が0.5%から1%に増えただけでも、兆候としては深刻だと思います。
そういう、質的な面での人間のリプロダクティブ・パワーがおかしくなっているということを含めて、私たちの文明のあり方を考えないといけない。そういうところに来ているのだということを私たちははっきり認識する必要があると思います。
冒頭に申し上げましたように、堤防が決壊しそうになるときに、10年後にどういう堤防をつくるかといってのんびり図面を描いているわけにいきません。しかし、例えば学力低下の問題について議論をしていますけれども、学力の低下をどう考えるのかということについての根源的な問いが欠けていると思います。
「育て方をどうするか」ということを議論するよりも、「育ち方がおかしくなっていないか」ということをしっかり議論することが私は必要だろうと思います。
生育環境そのものが劣化している。急激な都市化が進み、商業主義の支配的な影響力が子供にシャワーのようにものすごい勢いで注ぎ込まれている。けばけばしいコマーシャルのテレビの前に子供たちはいるわけです。そしてゲーム機が売り込まれて、子供はゲーム機の前に座ることで熱中する。それで自然とのふれあいを減らし、生身の人間とのふれあいを減らしているわけですね。ゲーム機の中ではいったん死んだ人間がコロッと生きて帰ってきます。そういう不可思議な架空の空間、仮想の空間の中に没入して生きているわけです。こんなことをやっていて、子供が健全に育つはずがありません。
あるお医者さんのお書きになった立派な本があります。病気を治す医療もあるけれども、人を殺す医療もあるんだということをお医者さんの立場から率直にお書きになっている。その中で私の印象に残っていることの一つは、そのお医者さんが岩手県の山の中の村で育ったときに、春になって雪が少し解けていくと、スイセンが出てきて花が開いていく。それを見てものすごく感動した、その感動が自分の生涯の原点だというふうに書いておられるのを読んで、「これだ!」と思ったんですね。
そういう例はたくさんありますでしょう。田舎の裏に森がある農家で育った子供たちが子供のときに、森を渡る風の音を聞いて、風には音があるということを学ぶわけですね。そして不安を感ずる。小さい子供ならば、すごく恐ろしく思うこともあるかもしれない。
自然というものをそういうふうに受け止める。自然の美しさ、素晴らしさだけではなくて、自然の怖さとか、すごさとか、そういうものを学びとって育つ子供がいまどのくらいいるでしょうか。
だいぶ前の話ですけれども、「今の子供たちはどれがコメで、どれがムギかというのはわからないでしょうね」とある農業の専門家に言ったら、「正村君、今は田舎に住んでいる子供だって、どれがコメで、どれがイネか。まして、どれがオオムギで、どれがコムギかなんてわかりっこないんだよ。勉強、勉強、勉強で、そういうことを考えようとしないんだよ」という話を聞き、愕然としたことがあります。私は東京生まれ、東京育ちでしたけれども、戦争中に疎開をしたおかげで田舎へ行きまして、ジャガイモの葉っぱというのはこういうんだ、オオムギというのはこういうんだ、コムギはこういうんだって覚える経験をしました。大変厳しい通学環境で苦労もしましたけれどもね。つまり、生育環境がおかしくなっていないかということを考えるべきだと思うのです。
それから、学力の問題ですが、そういうことを言うときに、「90何%の子供が高校へ行っているけれども、何%勉強しているかね。これは過剰進学ではないのかね」という声を上げる必要があるわけです。大学だって短大を入れますと50%の進学率です。「勉強しているのかね、何%がやっているのか、こんなの無駄ではないのか。」とか、「本当に大学教育のあり方を根底から変えなければ駄目ではないか」という批判の声を上げないで、みんなが高校へ行かせたいからといって高校をどんどん増やして、受け入れはしたけれども、勉強はさせないということをやってきているわけですね。
もちろん、これは我々大学の人間にも責任があります。なんとかして変えようと思ったわけですけれども、抵抗勢力というのはやはりどこにもありまして、カリキュラム一つ変えるのもものすごい大喧嘩しなければならない。少しは変わりましたけれども、抜本的な改革はついにできないで退職を迎えました。
でも、声を上げなければいけない。過剰進学ではないか。そこをさわらないで、みんなが望むものはいいことだ、みんなが行こうと言っているのだからいいではないか、で済ませてしまったら本当に子供の質的劣化をくい止めることはできません。そういう率直さがいま必要とされていると思います。
いずれにせよ、物質的に豊かになりすぎて、ある意味では物質的な豊かさを優先目標として追求した結果として何か大事なものを置き忘れてしまった。この文明の形の全体を問い直すということが今私たちには大きな課題だろうと思っています。
アジアの中で真っ先に先進国と呼ばれるだけの生産力を獲得し、先を走ってきたことは事実ですね。一種のデモンストレーション効果が働いてアジア諸国が日本の後を追いかけて経済の近代化、経済の成長を追求しようとしている。こういう状況の中で日本人は21世紀、何を目指すのか。文明を否定するということではありません。文明の形を変えるということを率先してやろうではないか、ということをやはり問題にする必要があると思うんです。
非常に乱暴に近現代を締めくくってしまえば、ヨーロッパに起源をもつ近現代の文明は、アメリカを経由して日本に波及する過程で物質主義の色彩を非常に強く持つようになった。市場原理主義的な傾向を非常に強く示すようになった。日本を経由して東アジアに広がったときに、日本が明治維新以後の曲折を経て最初に欧米並みの所得水準に到達したということは、決定的に重要な意味をアジアにおいて持っています。この衝撃を受けながら日本は経済の近代化を実現した先例であるというだけではなくて、アジア諸国にとって大きな市場であり、技術や資本を受け入れる相手国として非常にいい環境にある国である。こういう状況の中でアジアの経済発展は起こっているわけです。
私は高等学校向けのテレビやラジオで繰り返し言ってきたんですけれども、1960年代の日本の高度経済成長を日本の国内だけで見てはいけない。国際的な文脈の中で考えたならば、1960年代の日本の高度経済成長、それに続く中ぐらいの成長期があった、日本の経済成長は、アジアの経済的勃興の序曲であったというふうに考えるべきである。日本もアジアの一国ですから序曲なんです。外ではないのです。そのインパクトを受けながらアジア諸国がいま経済の発展をはかろうとしているときに憂慮されるのは、そこに見られる大変な金銭主義、物質主義の跋扈です。心ある中国の人たちは、「金銭主義でイカレてる」と自分の国について非常に心配をしています。
よくも悪くもヨーロッパはまだキリスト教という非常に強い規範力のある宗教を土台にして文明をつくってきた。あるいは土台にして、それを壊しながら、複雑な関係をもちながら文明をつくってきた。そういう規範と規律を提供するような宗教をもたない地域全体が、一挙に物質的に豊かになったときに何が起こるかということを私たちは考えないといけない。
もし1960年代前後の日本の経済成長がアジアの経済的勃興の序曲であったとするならば、日本の2000年代から2010年、2020年代の日本の自己変革の努力は、ヨーロッパから出発し、アメリカを経由してアジアに波及した文明の形を変えるという取り組みに向かっての序曲にしないといけない。そういう性質の問題を私たちは突きつけられているのだということを考えないといけないのではないかというふうに思っているわけであります。
ついでに申し上げますが、2000年を迎えましたときにミレニアムという騒ぎがありました。私のテーマである経済をコアにして、経済と社会、経済と政治、経済と文化の関係を見る立場で考えたときに、ミレニアムをむしろ問題にするならばもっとこういうことを考えるべきではないか。過去の1000年はよくも悪くも中東にオリジンをもつ一神教が幾つかの有力な文明の基盤をつくった。ローマ帝国の末期はキリスト教と切り離せなくなった。更にイスラム世界がある期間、比較的安定した秩序をつくり上げて文明をつくった。ローマ帝国のギリシャ、ローマの遺産は直接西ヨーロッパにつながるというよりは、恐らくは中東のイスラム諸国、イスラム文明を仲介にしていわばヨーロッパに再輸入されるという形で伝わった。アラビア数字が我々が日常使っている数字であるというのは、その一つの象徴的な事実でありますけれども。
いずれにせよ、アジアの西のほうとヨーロッパ、ユーラシア大陸の西と南のあたりに歴史的に相次いで形成された文明のコアに一神教がある。一神教は先程申し上げた強い規範力をもっている。規範をつくり上げるという力を持っている。その意味で文明の安定性を保障したと思いますけれども、同時に排他的な一神教でありますから大変なトラブルの原因になっているわけです。イスラムの人たちは異教徒を武力あるいは力でもって変えさせるということが自分たちの使命だと考えるという長い歴史をもっている。キリスト教の場合も異端に対する態度というのは苛烈なものがあります。キリスト教の2000年史を描いた専門家のものを読んで暗然たる気持ちになりますね。血まみれの歴史なわけです。
この一神教が文明と表裏一体の関係で人類の社会の強固な基盤をなしていた状況は、今後の1000年も続くのかということを私は問いたいわけです。恐らく一神教の影響力は弱まるだろうと思います。
一つは、科学です。宇宙論や生命論の急速な進歩によって私たちは新しい宇宙観、新しい生命観を構築しなければならないという必要に迫られている。19世紀、20世紀を通じて高名な科学者、自然科学の分野の高名な専門家でさえもキリスト教の信仰を捨てないで、神というものを捨てなかった。私に言わせれば一種の妥協をしてきたと思うんです。これからは、科学的な研究によってつくられつつある新しい宇宙と生命に関する我々の知見が、伝統的な宗教の規範から人間が脱出して、新しい形の社会的な規範をつくり上げるということに成功するかどうかが問われる1000年になるのではないかと思います。1000年間生きる心配はありませんから、「おまえの1000年前に言ったのはとんでもない話だったよ」と責められる心配がないから壮大なことを言っているわけですけれども(笑)、考える価値はあると思います。
科学の進歩が一つの理由です。もう一つは、アジアの近代文明の組み込まれであります。アジアは儒教資本主義だという議論をした人がいますけれども、私は信じておりません。そういう中東にオリジンをもつ一神教の影響を受けない地域が、近代文明の波をかぶっていく中でどういう形の文明の規範と規律を構築していくのかということが問われると思います。そのときに排他的な強い一神教的なレリジョンが力を持つとは考えられない。何か別の規範を考えないといけない。それがこれから1000年の課題です。それができるのかということが課題になるだろうと思います。
私はそういうような問題を投げかけさせていただいているのであって、「こうだ」と断言するつもりはありませんが、そういう種類のことをもっと考える必要があるだろう。恐らく近代文明を通じて、多くの人が近代化ということに対して肯定的な価値を見いだしたのは、物質的な豊かさそのものではなかったと思うんです。貧しさから抜け出すという意味で物的生産力を高めることは重要な意味を持ちました。また、いわば国民の大衆、民衆によって歓迎されたと思います。しかし、多くの指導者たちが近代化ということに対して肯定的な価値を見いだしたのは、「人権」と「自由」という目標であったと思います。
「人権」と「自由」という目標がどこまで世界に広がるのか。今の惨憺たる状態にあるアフリカが、人権の守られた社会になっていくという展望をもつことができるのか。その前にアジアはどうか、インドや中南米はどうかということを考えなければならないところに来ていますね。
物質的な豊かさは目標ではない。私たちが今あらためて近代の価値を次の時代に継承するとすれば、「人権」と「自由」であります。そして、貧しさから抜け出すということは、「人権」と「自由」を保障するという観点から避け難く要求されるわけでありますから、その限りにおいて物的生産力の維持ということが求められる。
しかし、現代の世代が際限もなく豊かさを追求するために、未来の世代が使うべき資源を使い尽くしてしまう。子や孫の時代になってしまったら環境が住めない状態になるということを許容するわけにいきません。フローの効率ではなくて、ストックの効率を考えないといけない。年々の所得をいかに上げるかではなくて、我々が地球あるいは太陽から与えられている、限られた資源をどうやって永続させるのか、持続的に使っていくのかという、世代を越えたストックの効率的利用ということを真剣に考えないといけないと思いますね。
そういう状況の中で「人権」が守られ、個人の「自由」、社会的規範、社会的な共同事業を維持するということを前提にして個人の自由な選択がある範囲において、保障されるような社会をどうやってつくるかという、新しい社会のイメージを考えていかなければならないだろうと思います。
そういうようなことを少なくとも私たちは話題にする必要がある。
そういう壮大な話ばかりしていると、「あの人は経済学者なのかね」とか言われるおそれがありますから、経済の問題にふれながらいま日本がやらなければならないことは何だろうかということをもう少し具体的にいま考えていることを提起させていただきます。
まず最初に本当の改革とは何なんだろうか。ストレートにいま話題になっていることについて申し上げてみたいと思います。
いま改革しなければならないところに来ていることは明らかであります。私は70年代以来の改革派でありますから(笑)、これから申し上げることは70年代以来、繰り返し繰り返し仲間と誘っていろいろな提言書を出したり、審議会でいろいろ言いたいことを言わせていただいたり、新聞やテレビで語ったり、いろいろなところで言ってきたことの蒸し返しです。
でも、改革の必要性というのは、おそくも1970年代には切迫した課題になっていたと思います。日本が先進国並み、イギリス並の所得水準に一応到達したのは70年であります、年々のフローに関しては。生活環境とか労働時間とかそういう点は別ですが。つまり、生産力のいちばん基盤になるところに関してはヨーロッパ並みになったというのは70年代ですけれども、その時点から後発工業国型の先発工業国に追いつくことを優先課題としてつくり上げられてきた一連の社会経済システム、社会経済制度、それによってつくられた国民の生活パターン、こういうものを変えなければいけない時期に来ている、そうしないと行き詰まる、あるいは破壊的な結果がもたらされるというのが60年代後半から70年代にかけて、私が駆け出しの学者であったときからの認識でありまして、その思いはいま非常に切実に強くなっております。
しかし、「改革って何だろうか」ということを考えないといけない。先日もあるマスメディアの数人の記者たちと半日懇談したときにも繰り返し強調したんですけれども、「いちばん問題になるのは何だろうか」と聞かれたら、日本人が目標を失っていることだ、と答えます。目標を失い、確信を失い、信頼を失っている。
「目標を失っている」というのは、マクロ的には経済を発展させる、ミクロ的には今よりも豊かになる、もう一つ言えば、子供が自分よりは豊かな時代に生きられる、あるいはむしろ自分よりは社会的地位が高くなるということを願ってものすごく進学競争に子供を追い立ててきた。本当にそれでいいのかという目標が揺らいでしまっている。未来に対する確信がなくなっている。未来に対して確信がなくなっているときに、資金をダブつかせたって投資や消費が起こるはずがないんです。金融緩和の大合唱をやっている人たちがいますけれども、大間違いです。財政を引いてしまって、需要を縮小させて、景気を悪くするようなことをやったり、状況を見ないでペイ・オフをせっかちに強行して信金を幾つも倒す、つぶすようなことをやっておいて金融緩和をやれと言っている。ゼロ金利になっているのに、更にゼロ金利。0.0何%などという金利の下で金融を運営させておいて、更に金融を緩和しろというのは愚の骨頂です。そんなにおカネをダブつかせてどうするんです? ゼロ金利というのは景気対策ではありません。不良債権を抱えている銀行と不良債務(返せない債務)を抱えて倒産状態のところをウロウロしている企業の倒産を先送りにするための政策であって、堤防決壊のためのアリの穴をふさぐための政策かもしれないけれども、景気対策ではない。金融緩和をどれだけやったって景気がよくなるはずがないのであって、それよりは、不景気というのは生産力・供給力に比べて需要量が少ないというきわめて明瞭なことをあらためて認識する必要がある。
財政赤字を減らそうと思って財政をいっぺんに詰めたらば、景気が悪くなってとんでもない。税収が減ってしまって、赤字も減らないわけです。それは過去に繰り返し経験しているわけです。80年代前半の臨調行革も失敗だったわけです。行革や、国鉄の民営化とか、賛成なんだけれども、毎年支出を切り詰めた。「こんなことをやっていたら、どんな強い経済でも絶対おかしくなる。臨調行革は大変大事なことをやったけれども、日本経済にとっては破壊的なことをやってしまった。」と当時申し上げた。そのとおりになりました。内需を引き締め過ぎてものすごい円高が起こって、円高不況になって、今度はあわてふためいてアクセルを踏み過ぎてバブルを引き起こしたわけでしょう。
また、性懲りもなく、政府は「財政再建か、景気対策か」と二者択一型の問題提起を繰り返し繰り返しおやりになっている。私にとっては大変悲しいことであります。
財政再建を本当におやりになるつもりならば、財政危機が深刻であるだけに30年、50年の展望の中でやらなければいけない。3年、5年で格好つけようと思ったら経済が破壊される。この状況を直視する必要があると思うんです。リアリズムに基づく状況認識で状況をしっかり踏まえて改革ということを中心に据えて考えなければいけない。改革をやることは、財政を切り詰める、短兵急に赤字を減らすことでは全然ないんです。
私が強調したいのは、改革というのは古いものを破壊すると同時に、新しいものを創造するということでなければならない。「古いものはもう駄目だから壊そう」というのは改革ではありません。地ならしをしよう。特殊法人にしても郵便局でも何でも変えなければ駄目だ、「変えなけれ駄目だ」という主張はわかります。
しかしながら、壊したあとに何をつくるんですか。スクラップだけの提案があって、ビルドの提案が見えない。ビルドの提案がないということは、どういう社会をつくろうとしているのか、文明史の大転換にあたってかなり心ある人たちが地球温暖化の問題について心配しているときに、それにどう対応するのかということが出てこない。産業廃棄物がそこらじゅうにばらまかれて、危険な物質が日本の全国にばらまかれて越境して廃棄されているとき、これをどうするかという政策が見えない。自治体が四苦八苦しているのに任されているというのはおかしいと思います。
そういう、何を目指して、どういう社会をつくるのかということを考えないといけない。
スクラップだけがあるのではなくて、スクラップしたあとにどういう社会をビルドするのか、政府の役割をどうビルドするのかということを示さないといけない。それがなければ、スクラップだけが話題になるならば、改革は国民運動にはなりません。「行き詰まっているから何とかしたほうがいいのかもしないね。それでは改革って言っている人を支持しよう」と世論調査ではパーセンテージが上がるかもしれませんけれども、自分たちの社会をつくる問題として改革を取り上げるという選挙民が何人いますか。ビルドの展望がない。スクラップと同時にビルドをお示しいただかなかったならば、改革は本当の国民的な運動にはならない。人気投票でしかない。
国民的な運動にならなければどうなるかといったら、人々は当面の生活の必要に迫られて、その日その日を過ごすしかありません。政治家の皆さん方もビルドを目指して、本当の求心力、政治の求心力、政府の求心力を強めるということに成功されなければ、一生懸命になっていろいろな目先の利益と結びつけて票を集めるということに努力をしないと自分の議席が危なくなる。
我々大学教授だって日常的には飯を食わなければならないわけですから、いろいろあるわけです。現実をちゃんと直視すると、国民にとって魅力のある政策が示されない状況の中で、一人一人の議員が大変苦労なさって票集め、カネ集めをなさっている。でも、本当に心配なんですね。日本の民主政治はここまで来てしまったのか。
皆さん、選挙区に帰って一生懸命やる。政策の論議などしている暇はない。そうすると、ますます政策づくりができない。悪循環ではないでしょうか。これをどこで打破するかということをやはり考えないといけないような気がするんです。
どのような社会を目指すのか、子供や孫の世代にどのような社会を残すのか、どのような地球を渡すのか、どのような国家・社会を継承してもらうのかということをもっとまじめに私たちは議論しないといけない。
そういうことを考えるときに、みっともない状態になっているとは言っても世界のGDPの15%を占めている国家の政府は、やはり地球史的な課題に責任を負わないといけない。むしろ逆に地球史な課題を中心に据えることによって新しいナショナル・ゴールの体系をつくっていく努力をする。できあがったものを国民に示すのではなくて、国民に対話を呼びかける。そのイニシアチブをとる。出来上がったものを、「これがナショナル・ゴールだよ」と押しつけるのではなくて、「ナショナル・ゴールを再構築しようではないか」というビルドのためのディスカッションを提起していくということを指導的な立場にあるすべての人間が責任として負わなければいけないのではないか。
そして、目標、確信、信頼を取り戻す。日本の社会、将来のあるべき社会経済システムの可能性に対して信頼を取り戻す、そういうことが必要なのではないかというふうに考えております。
最後に私がずっと言ってきたこと、最近になってまたそれを少しモディファイして言っていることを箇条書き的に申し上げます。
第1は「規制改革」であります。これは「規制緩和」と言ってはいけない。「規制改革」だ。70年代以来、私は規制改革論者であります。参議院の調査会に呼ばれたときに、「誤解しないでほしい。私は規制改革反対、現状維持を言っているのではない。むしろラディカルな規制改革論者なんだ。70年代以来そうなんだということを理解してほしい」と申し上げました。産業を優先する、産業を成長させる、産業の利益を保護する、これはある範囲において雇用を守るということにもつながるから正当性を持ち得たのでした。しかし、農業や金融を含めてそういう方向に傾斜した産業の側から経済の安定性をはかるという方向に傾斜した規制は1度全部撤廃したほうがいい。国民の生命の安全と生活の安定にかかわる分野については思い切って規制を強化するということをやらないといけない、そういう趣旨のことをいろいろな形で繰り返し述べてきたものであります。この信念は変わっておりません。今も同じであります。
「金融の自由化」というから誤解されるのです。「金融の自由化」は自由放任ではないのです。預金者は金融業、金融機関の実態はよくわかりませんから、預金者に替わって金融機関を監視し監査する責任が政府にあるんです。日銀、預金保険機構、そして政府の金融庁が一体になって預金者に替わって今まで以上に厳しい規制と監査をやらなければいけません。支店をどこに置くかとか、金利を統制するとか、そういう規制はやめたほうがいい。それは競争と自己責任体制です。
でも、ちゃんと立ち入って、経理がいいかげんになっているとか、非常にリスクの大きいものに投資をすることで高い金利を約束して、預金者からカネを不当に集めているような経営者はぶっ飛ばさなければいけないわけです。それは預金者にはできませんから、委託された公的な機関が監視するしかないんですね。金融分野でさえも規制緩和ではなくて、規制改革です。ある面では規制強化です。国民生活を不安定にするような金融業の経営に対しては厳しくチェックをしないといけない。
まして、いわんや、食品の安全とか医薬品の安全という分野については、もっときちんとした規制をやらないといけない。考えてみてください。60年代、70年代、80年代と薬害が繰り返し起こっていますでしょう。60年代にはサリドマイド事件がありました。80年代には薬害エイズ事件がありました。その後も幾つかあります。70年代に志を同じくする人たちと語らって提起した規制改革の原理に従って日本の行政機関を根底から変えるという課題が繰り返し証明されていたのに、全然取り組んでいなかったということです。医薬品の安全にかかわる独立の機関をつくらなければいけません。医薬品業界の国際競争力とか成長に関心をもつ役所が、そのまま医薬品の安全を審査していたら駄目です。そういうものの利害にかかわっているお医者さんを呼んできてやったりしたら、絶対うまくいかないわけです。委員会があってそこで薬品の安全を審査するというアメリカ的な仕組みにすれば、安全をチェックする人がその委員の使命になります。使命感に燃えてやらなければならない。もし失敗したらその人が責任を問われるわけですから、責任の所在が明確なわけです。こういう仕組みをつくらないといけない。
食品の安全も同じです。いわゆる狂牛病(牛海綿状脳症)事件でもって政府のあり方が問われていますけれども、今頃何を言っているのですか、というのが私の思いです。国民の生命の安全と生活の安定にかかわる分野における規制を強化しながら、旧来の農業保護政策とか金融保護政策とかその他様々の産業側から経済を見ている規制をやめるということをやらないといけない。これが私の規制改革論であります。
2番目は、「社会保障、社会福祉の拡充・強化」であります。これらをばらばらに扱わないでください。医療、介護、年金、子育て支援とか、そういうのをばらばらにないで、総合的な社会保障、社会福祉の戦略をお考えいただかないといけない。ばらばらに提起されるから不安だけが大きくなる。
弱者救済というのは、私の理解では先進国の社会保障の目的ではありません。弱者になるリスクはすべてのものが負っている。高齢化すればハンディを負う危険はうんと大きくなるわけですけれども、国民のすべてに対して安心を給付するということが先進社会の社会保障、社会福祉の目的であります。
安心を給付することが目的なのであって、所得の再分配が目的ではありません。安心が給付されることが重要です。幸いにして倒れないで、ポックリ死んでしまって、自分の介護保険の保険料が掛け捨てというのは変ですけれども、払い損になったというのは、その人はハッピーです。だから、安心が給付されていたかどうかが問題です。
今までの日本を見ると、倒れたときに、特別養護老人ホームは満杯なので2年、3年待ってくださいと言われている。これは安心がないわけです。特別養護老人ホームなんていうのはいつも満杯でなければ経営が成り立たないようにしているのがおかしいのです。ホテルだって航空会社だって100%旅客がいつもいるということはありませんでしょう。あいていなければおかしいのです。遊びがなければいけないのです。それは30%の定員でもって経営が成り立つようなおカネのばらまきはやってはいけませんけれども、定員の7割、8割でもって経営が成り立つようにすべきなんです。倒れたその日にケースワーカーが飛んできて、本当に重篤で何とかしなければならないとしたら、特別養護老人ホームにその日に入れるということをやってください。そうしたら、本当に安心感のある状態ができますでしょう。
そうなったらある程度国民の負担が増えたって、国民は文句を言わない。国民が政府に対して信頼していないから、政府はだんだんジリ貧になってきて、おカネをケチるようになる。政府がおカネをケチるから、国民はますます政府を信頼しない。この悪循環が今までずっと起こってきたと思うんです。このことを根底から考え直さないと、前向きの建設的なビルドに向けての改革の提案というのはなかなかできないと思います。すべてを市場に委ねるわけにはいきません。
例えば退職して退職金をもらった人が、その市場で一生懸命運用して、どうやったらいいかということばかり考えて、公的年金がもしもなくなって、私的年金がどんどん市場に委ねられるとなったら大変不安になりますね。公的にやったほうがいいのか、私的な負担に委ねたほうがいいのか。すべてを市場に委ねるのではなくて、少なくともある範囲において、子育て、年金、医療、介護などについて公的な事業としてやりましょうという政策が必要です。
公的な事業、社会の共同事業としてやりましょうということはイデオロギーの問題ではありません。効率の問題です。どちらが有効かということです。効率というのは、能率ということではありません。有効性の問題です。少ない資源で、高い、いちばんいい効果が得られるのはどちらかということであって、今日においては社会保障、社会福祉をめぐる問題はイデオロギーの問題ではなくて、効率の問題です。社会的共同事業を強化したほうがいいのであれば、みんなで議論して、社会的共同事業を強化するという努力をする。そういう観点で社会保障、社会福祉の見直しをする。削るという方向ではなくて、どうやったら有効なナショナルミニマムが保障できるかということを考える。そういうプログラム、議論の手順というものをお考えいただくことが必要なのではないかと思います。
3番目は、生活空間の変革であります。日本の都市空間はめちゃくちゃになっています。景観もおかしいです。都市の景観、農村の景観、ひどいことになっていますでしょう。ひどいとお思いにならないかもしれないけれども、私は涙が出るぐらいひどいと思います。森がどんどん壊れているし、農村へ行ってごらんなさい。屋根の色はまちまち。建築材料がいろいろ出てきたら、みんな勝手てんでんばらばらにやっている。美しさは何もない。ワラ(葺き)屋根を残せなどということは言いませんけれども、生活の上で機能的であると同時に、やはりある美しさを感じさせる町や村をつくるということをやるのは、子育ての問題とも関係します。文化の問題と関係します。生活の中に文化がなくてどうして日本固有の文化をつくるなどということが言えるんですか。都市も同じです。ヨーロッパの都市を見て、「ああ、きれいだな」と思って帰ってきて、日本は駄目だって諦めて何も言わないという、これが日本人。いや、それどころか、ヨーロッパへ行っても都市の景観などに心引かれないで、おみやげを買いあさっているというのが日本の観光ツアーですね。情けない。成り上がりものの行動であって、それを変えなければいけないと思います。都市の姿を変えなければいけない。
バリアフリーを徹底すること。地下鉄を降りてここまで上がってくるのにエスカレータがないところがあります。階段を上らなければならないところが。私も老人の仲間に入っていますから、結構きついですけれども。日本の都市は自力では、車椅子で歩けません。車椅子でホームに上がれる駅がどのくらいありますか。東京駅でさえも自力で上がれません。
経済的に豊かになりながら、こんなことをほったらかしにしてきたというのは恥ずかしいです。バリアフリーは少数のかわいそうな人のための施策だと思わないでください。我々の社会、普通の人が障害者とふれあって暮らすことができる状態をつくらなくて、どうして子供たちが人間の心を持つことができますか。
そういう大事なことを忘れている。スウェーデンの人たちは核戦争の危険があるときに、国民全部が避難できる地下壕をつくったというぐらいにおおまじめな人たちです。だから、人間的社会のためにはバリアフリーが絶対必要だと考えたら徹底的にバリアフリーをやったわけです。郊外の団地に住んで、自分で車椅子を動かしている人は、郊外の地下鉄の駅からストレートに都心に行って、エレベータで上がって、都心で仕事をすることができます。日本でそれがやれますか。
こういうことにもっと目を向けないといけない。これを本当にやろうと思ったらおカネがかかりますね。やらなければならない事業があるわけです。もうやることがないわけではないのです。田舎にクルマの走らない公共の道路をいっぱいつくるよりは、そういうところにもっと目を向けて、現実に都市化が進んでいるんですから、もっと人間らしい町をつくるということに目標を示すということをどうしてできないんでしょうか。
4番目、「生活時間の変革」であります。労働時間を短縮しなければいけません。このまま行ったら、企業に残された労働者がものすごく残業をやらされて過労死・過労自殺が増えます。他方で失業が増えて、失業自殺が増えていますけれども、そういう状態になるでしょう。労働基準法を改正して残業割増賃金率を25%から50%に引き上げる。「今時そんなことを言われたって困るよ」というかもしれませんが、そのぐらいの覚悟をして働き方を変える。
ワークシェアリングといいますけれども、防衛的、戦術的なワークシェアリングではなくて、攻撃的、戦略的なワークシェアリングを考える。いろいろな働き方を可能にする。いろいろな就業機会を用意し、いろいろな労働供給を用意する。パートタイムで働きたいということであればパートタイムで働けるようにしたほうがいい。パートタイマーとして働くことができるという人はたくさんいるわけですから、この人たちに、フルタイマーと(賃金は同じであるはずはないですけれども)、基本的に同じ権利をちゃんと保障するような仕組みをつくる。日本の税制も社会保険料も保険制度もそういうことを阻害していますね。パートタイマーがある水準以上の所得を獲得したらものすごく負担がかかる。亭主の税金が重くなる。だから、労働供給を制限していますね。おかしいではないですか。こんなのを何十年もほうっておくというのは変です。
そうではなくて、利害関係者がいろいろいるからすったもんだするかもしれないけれども、すっきりした税と保険の体系にする。パートタイマーもフルタイマーも提供している労働の量に応じて報酬が変わるのは決まっているけれども、社会制度上差別されない状態をつくっていく。そうすると女性の労働力をもっと活用できるし、活用できるようになったら労働力を福祉の分野や育児の分野でうんと生かしたらいいわけです。教育も改善する。そういう攻撃的、戦略的なワークシェアリングを追求するための制度改革をなぜ問題になさらないのでしょうか。
最後は、「分権と自治」であります。私はもともとはマルクス主義的な経済学を勉強して、マルクス主義的な社会体制変革論に染まった人間でありますから、中央集権的な社会主義をイメージしていましたから、若いときは中央集権主義者でありました。でも、70年代に豹変いたしました。君子豹変って本当はいい意味なんだそうですけど、私はいい意味で強調しているんですけれども。なぜか。いろいろなことを考えて、中央と地方の財政を勉強し直して、行政のあり方を考えて、徹底した分権しかないと考えるようになったのです。
徳川幕藩体制というのは、集権と分権の絶妙な組み合わせだったと思うんです。徳川幕府は大名を替えたりなんかする権力を行使していましたけれども、藩の集めた年貢を徳川幕府が直接何%よこせととっていたわけではないんです。統治は任せていた。自治です。監視はしていますけれども。だから、各藩の侍たちは統治を経験しているんです。国を治めるということの難しさを経験しているんです。
この徳川幕藩体制の集権と分権の絶妙な組み合わせこそが270年にわたる徳川時代の安定を保障したと思いますし、それだけではなくて、ハードウェアとソフトウェアとヒューマンウェアの面で大変な遺産を近代に残した。
特に、今言ったように多くの人間に統治を経験させ、片方で共通の言語を育てながら他方で文化的多様性を残したわけです。この徳川幕藩体制の残したものを使って、近現代の日本は急速に先発工業国に追いついたわけです。
でも、振り返ってみると、その過程でだんだん、いろいろな理由で中央集権が強まったんです。行き過ぎた中央集権と商業主義的な擬似文化の影響でものすごい画一化が進んだ。そしてせっかくの過去の集権と分権の組み合わせがつくり出したヒューマンウェアを中心とする遺産を食いつぶしつつある。中央依存がものすごく強くなって、画一的な志向が強くなっている。責任の意識が薄れてしまっている。
こういうことを考えると、「分権」と「自治」の徹底ということは、民族のエネルギーの基盤を耕しなおす仕事なんだというふうに考えるべきではないかと私は思っているわけです。
「分権」と「自治」はイデオロギーとしての民主主義を克服しながら、民主制というものを機能させるためにどうしても必要である。恐らく世界は、例えばヨーロッパ連合を見てください、国家を越えた組織をつくって、いろいろなすり合わせをして法律を統一しようとしていますけれども、ヨーロッパ連合が進めば進むほど分権が見直されると思います。大事なことについては国家を越えた連合体で考えていきますけれども、その中でそれが進めば進むほど、ネーションステートというものが相対化されていく。統治単位はネーションステートしかないんだという思い込みは克服されていくと思います。それぞれの国の中に少数民族もいるわけですし、少数言語もあるわけですし、その価値が見直されていく。そういうふうに考えるべきだろうと思います。その兆候はいろいろあります。
国家を越えた協力の時代であると思います。自由貿易地域をつくるとか、国際連合を強化するとか、国際的な連携プレーをテロに対してやっていくとかなど、ひとつひとつが重要な課題です。そういう中にありながら、もう一度あらためて「分権」と「自治」ということの重要性が認識されるべきだと思います。「分権」と「自治」の重要性を強調することはネーションステートの否定ではありません。21世紀の展望の中では、ネーションステートは簡単には克服できない。むしろ、ネーションステートのガバメントの機能を改善するということが課題になるだろうというふうに思います。ガバメントの機能を改善するためにも国民の民主的政治への参画をいろいろな形で進めて、国民の資質を高めていくという観点からも「自治」ということを真剣に考える必要がある。半端でない形の「自治」を真剣に考えていく必要がある。
全体として21世紀の文明が目指すべきものは、共通の文明のルールを持ちながら、確立しながら、例えば地球環境問題、貿易問題との取り組みとか、自然保護と貿易自由化をどうやって両立させるのかとか、大変な難問がたくさんあります。それを乗り越えるために新しい共通のルールを獲得していく。犯罪の防止もあります。変な国が核兵器を持つことをどうやって阻止するか。核ミサイルの開発をやろうとしている国に対してどういうふうに抑制、抑止していくのかということも含めて真剣に考えなければいけません。甘く考えてはいけない。国家の安全……。日本人が拉致されるという拉致の疑惑がたくさんあって、現実に人権が侵されているわけですから、こういうときに目をつぶっていてはいけないので、どうするか。国際社会の中で新しいルールをつくっていくということをやらないといけないと思います。
共通のルールをつくると同時に、文化的多様性をもう一度大事にして見直していくという「分権」と「自治」もそうですし、地方的な文化的多様性を尊重する。
伝統のすべてが継承されるべきものではありません。伝統のあるものは捨てなければいけない。伝統だって過去につくられたものですから、現代的な基準に照らして人権、自由の思想に反する伝統はあえて破棄して記録に残すということをやらないといけないと思います。選択しないといけない。
しかしながら、文化的多様性をなくしてしまうような画一主義と、行き過ぎた集権主義に対しては断固として闘うということが21世紀の恐らく先進諸国の多くの人たちが受け入れる共通の目標になるだろうと私は考えております。
http://web.archive.org/web/20080927221549/http://www.vectorinc.co.jp/kokkasenryaku/index2.html
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