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昔、「人生不可解なり」と発して、華厳の滝に身を投じた学生がいたとか。以来その名言は金字塔となって、誰もその答えを見つけた人はいないと聞く。
悠久の昔、釈迦は人生の真理を探求したが本当に真理を究めたのであろうか。今に残る仏典は美辞麗句のてんこ盛りであって、真実のゴータマ・シッダッタの足跡を記したものは現存していないであろう。
もしも現代社会のように詳細な記録が残されていたならば、釈迦牟尼仏に対する評価は大きく異なるのではなかろうか。
「何年何月何日、天候晴れ、今日は朝から座禅を組んで深く深く瞑想するが、足はしびれるし肩もこる。それにしても腹が減った。ああ、こんなことをして何になるのだろうか。時間の無駄のような気がするのだが、間違っていないだろうか。・・・」
とうとう餓死寸前になって通りかかったスジャータに乳がゆを飲ませてもらって、「ああ、あなたは神だ仏だ観音さまだ。スジャータ様だ。有難や有難や。」と思ったか思わなかったかは知らないが、これが史実ならゴータマ・シッダッタ青年はスジャータ様から何かを悟ったに違いないであろう。
ところで、人間は何のために生まれてきたのであろうか。「飯を食って糞をして眠って、次の日もまた飯を食って糞をして眠る。人間は立って半畳で寝て一畳。」とは何とか禅師の名言とか。
それにしても飯を食って糞をするのが人生だとしたら、なんと寂しく虚しい人生であろうか。とは言うものの、多くの人々を見るにつけ、あながち間違いとも思えない。
多くの人は泣きながら生まれてきて、泣きながら死んでゆくという。笑って死ぬ人は少ないのではないだろうか。願わくば笑いながら死んでゆきたいものだと思う。
そのためには人生の目的を解読することであり、人世の意味、宗教の意味、科学の意味、地球の意味、太陽系の意味、銀河の意味、あらゆる意味の解読に挑戦しながら人生を全うしたいものだと思う。
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