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神から出て神へ、アーメン
聖句 創世記1:1-8
「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ』 こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。神は言われた。『水の中に大空あれ。水と水を分けよ』 神は大空を造り、大空の下の水と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である」
聖書の第一の書であります創世記。創世記はわたくしどもに、はじまりのこととを告げております。
はじまりのことについて、わたしたちは、世界がどのようにはじまったかということを、自分の力で知ることはできません。そうしてまたわたしたちは、おわりのことについて、世界がどのようにしておわるのかということを、自分の力で知ることはできません。
この、わからないはじまりと、わからないおわりというものがあって、この、わからないはじまりと、わからないおわりとの真ん中へ、裸で放り込まれているのが、わたしたち人間という存在であります。そこに、わからないゆえの不安がございます。哲学者マルチン・ハイデッガーは、人間とは不安な存在である、と申しました。画家ゴーギャンは、わたしはどこから来たんだろう、わたしはどこへ行くんだろう、わたしとは何だろう、と、わからないゆえの不安を口にいたしました。
これへ対して、聖書は、「恐れるな」と、わたしたちに告げております。繰り返し繰り返し「恐れるな」という言葉を告げております。そうして聖書は、はじまりがいったいどうであったかを、おわりがいったいどうなるかを、わたしどもに明瞭に告げております。
はじまりについて、明瞭な光を与えるのが、聖書の第一番目の書、創世記でありまして、すべてのはじまりに神がいましたもう、と告げております。
おわりについて、明瞭な光を与えるのが、聖書の最後の書、ヨハネの黙示録でありまして、すべてのおわりに神がいましたもう、と告げております。
すべてのはじまりに神がおられる。すべてのおわりに神がおられる。そうしますと、わたしたちの現在における立ち位置というのは、どういうものになるんであるか。それは使徒パウロがローマ書11章36節で言いますとおり、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向っているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」という、そういうアーメンなのだという、このアーメンの中にこそ、いま現在のわたしたちの立ち位置がある、ということになります。
神がすべてを、そうして、神が、ほかならぬ神が、このわたしをはじめてくださった、アーメン。このアーメンのうちに、もう不安は薄らぎます。神がすべてを、おわりにおいて待ち迎えたもう。そうして、神が、ほかならぬ神が、このわたしをもおわりにおいて待ち迎えたもう、アーメン。このアーメンのうちに、もう不安は薄らぎます。
さて、では、すべてのものが神から出て、すべてのものが神によって保たれ、すべてのものが神に向って行くという、この一連の宇宙的の動きが、どういうふうに展開し、どういうふうに進んで行くんであろうか。
創世記冒頭を見ますと、神様はその御言葉でもって「もの」を分割された、というふうに言われております。すなわち「もの」というのは、最初はなんかこう混沌とした、曖昧模糊としたものだったんだけれども、これへ対して神様が御言葉を出された。御言葉を出された。すると、その御言葉によって、その御言葉でもって、曖昧模糊とした「もの」が分割せられ、切り分けられて、そうして切り分けたひとつひとつに名前が付けられることによって、個々の、それぞれの、はっきりした「こと」が現れて来た、というふうに言われております。これが創造における神の主権であります。
すなわち、「神は言われた。『光あれ』 こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた」 神様の御言葉が「もの」を切り分け、切り分けたものそれぞれに名前をつけて、それが、光と闇になったんだという。同じようにして、神様の御言葉が「もの」を切り分けて、切り分けたそれぞれに名前をつけて、それが、大空の上の水と、大空の下の水になったんだという。さらにまた、同じようにして、神様の御言葉が、切り分けて、切り分けたそれぞれに名前をつけて、それが、海となり地となったんだという。さらにさらに、草、木、太陽、月、星々、魚、鳥、動物、家畜、人間になったんだという。仕上げに神様の御言葉は、人間を切り分けまして、これが男と女とになったんであります。
このように、神様の御言葉が、切り分けて、切り分けたものへ名前を付けることによって、すべてのものがつくりだされたんだという、こういう世界のはじまりの有様を聖書は明瞭に告げておりまして、だから、御言葉によって世界は出来たんだ、御言葉によって宇宙は出来たんだ、御言葉によって万物は出来たんだ、ということになる。世界は御言葉によって出来たんであるから、新約聖書のヨハネ福音書がこう宣言しているのは、至極当然のことであります。すなわち、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(ヨハネ1:1-3)
かくして、世界創造のはじまり、宇宙創造のはじまり、すべてのものごとのはじまり、万物一切のはじまりに、神様の御言葉があったという。このことが明瞭に理解せられて、このことへ対してわれわれが心からアーメンと言えるなら、そのアーメンの度合いに応じて、われわれの不安というのは、薄くなってまいります。
では、どういう種類、どういう段階のアーメンがあるのであるか。
いまそのひとつひとつを見てみますに、第一に、わたしとは切り分けられた存在である。切り分けられ、限界を付けられ、限度を定められておるがゆえの、わたしという存在である。この、切り分けということに対しての、アーメンであります。すなわち、わたしという人間は、無限ではない、限度があり、限界がある。何でも思ったとおり願ったとおりできるわけでない、どこまでも狭く限られたところの存在、区切られているところの存在である。だが、そういう限度があり、限界があり、狭く限られているからこその、わたしである。それがまたわたしの個性であり、ひととなりである。これに対して、この事実に対して、ああ、ほんとうにそうです、と、感謝して、ありのままに受け取ります、アーメンです、と言えるなら、もう不安が消え始めております。
第二に、わたしとは名前を付けられたがゆえの、わたしという存在である。この、名前を付けられ、呼び出されているとういことに対しての、アーメンであります。すなわち、わたしという人間は、もう曖昧模糊とした存在ではない。意味のない、目的のない、生き甲斐のない存在ではない。それどころか、神様の御言葉が、わたしを見てくださって、神様の御言葉が、わたしという個性を、そのひととなりを知ってくださって、神様の御言葉が、わたしに名前を付けてくださって、神様の御言葉が、わたしという存在を呼び出してくださった。「おまえは、ひるがえって生きなさい」と、わたしを呼んでくださった。生きよ、と、わたしを呼び出してくださった。神様の御言葉によって招かれ、生きるよう呼び出されているところの存在、それがわたしである。これへ、この事実に対して、ああ、ほんとうにアーメンです、わたしはそう信じます、と言えるなら、もう不安が消え始めております。
いったいこの、神様がわれらの名前を呼びたもう、神様がわれらを招きたもうということについては、創世記からはじまってヨハネの黙示録に行くまでの聖書の間に、枚挙のいとまがございません。
神様はアダムとエバに向って「おまえはどこにいるのか」と呼びかけていたもう。神様はノアに向って箱舟を作れと呼びかけていたもう。神様は砂漠の中からアブラハムに声をかけ呼び出していたもう。神様は燃える柴のうちに現れてモーセを呼び出していたもう。神様は、眠っている少年サムエルに「サムエルよ、サムエルよ」と声をかけていたもう。神様は、神殿に満ちる栄光の輝きのうちから「だれがわれわれのために行くか」と言ってイザヤにお声をかけていたもう。イザヤ書43章はこう申します。「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」(イザヤ43:1-2)
こういう、神の御言葉によって、名付けられ、呼び出され、生きるよう招かれている、それがわたしという存在であるという、この事実、このことへ対して、心の底から、まったくそうです、アーメンです、そのように思い、そのように考え、そのように信じます、と言えるなら、もう不安は消え始めております。
第三に、神様の御言葉が、かたちをとって、わたしたちのもとへおいでくださった。それがイエスキリストだ。人となりたもう神の御言葉としての主イエスキリストという、これが、わたしたち最大最後のアーメンでありまして、すなわち、ヨハネ福音書第1章に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」とあり、また、「恵みと真理はイエスキリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方(主イエスキリスト)が神を示されたのである」(ヨハネ1:14,17b-18)これであります。
わたしを切り分け、わたしをわたしたらしめてくださった神の御言葉。わたしを見て、わたしを知って、わたしに名前を付けて、生きるようにと、ひるがえって生きよと、わたしを呼び出してくださった神の御言葉。その神の御言葉が、いまや、人のかたちを取って、わたしたちのもとへおいでくださった。それがイエスキリストであります。
神の御言葉イエスキリストは、なおもわたしたちを呼び給う。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く」(ヨハネ10:3-4)という、これは主イエスキリストご自身の言葉でありまして、主イエスはわたしたちを呼び給う。ひとりひとりを呼び給う。そうして、主イエスは、わたしたちの先頭に立って、われらの旅路を導きたもう。これが、人生の同伴者としての主イエスキリストであります。
人となりたもうた神の御言葉は、ただに人生の旅路を連れ立ち歩きたもうというだけではない。主イエスご自身の言葉によるならば、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:10-11)という、実に神の御言葉、主イエスキリストは、わたしたちの罪の身代わりの十字架にかかって、そうすることによって、わたしたちに命を与えてくださった。
わたしたちの罪の身代わりであります。いったい何がわたしたちの罪であるかと言えば、第一、わたしたちが、自分は切り分けられた存在だ、ということを忘却しておることが、わたしたちの罪であります。自分の限界、自分の限度を忘れて、神様抜き何でも自分できるかのように錯覚しおるという、これがわたしたちの罪であります。第二、わたしたちが、自分は呼び出された存在だという、これを忘却しおることが、わたしたちの罪であります。自分が神によって知られていることを忘却し、自分が神から招かれていることを忘却し、自分が神から呼び出されていることを忘却して、まったく神と無関係のうちに閉じこもっておること。これがわたしたちの罪であります。
そういうわたしたちの罪を、主イエスキリストは十字架でもって残らず全部償ってくださった。その上で、主イエスキリスト、神の御言葉は、重ねてわれらを呼びたもう。なおもわれらを呼びたもう。われらの名前を呼び給う。みんなから嫌われ憎まれているザアカイに向って「ザアカイよ、下りて来なさい、わたしはおまえのところに泊まるから」と呼んでいたもう。真っ暗な墓穴に向って「ラザロよ、出て来なさい」と言って、死から命へと呼んでいたもう。イエスなんか知らないと三度も裏切ったペトロに向って「ペトロよ、おまえはわたしを愛するか」と名前を呼んで招いていたもう。クリスチャンたちをさんざんいじめて苦しめたサウロに向って「サウロよ、サウロよ、なぜおまえはわたしを迫害するのか。むしろおまえは、わたしを伝える伝道者になれ」とパウロを呼んで召していたもう。
そうして、すべてのことのおわりを告げるヨハネの黙示録において、主イエスキリストは、このようにおおせられているのです。すなわち、「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(黙示録3:20)
主イエスキリスト、神の御言葉が、わたしたちを呼んでいたもう。わたしたちの名前を呼んでいたもう。今日、おまえの心の扉を開いて、わたしを迎え入れなさい、と、主イエスは心の戸口に立って、呼んでいたもう。
これへ対してわたしたちが、まことにまことにアーメンです、どうぞ主よ、お入りください。どうぞ主よ、あなたがわたしにとって王の王、主の主、救い主となってくださいますように、アーメン、と真実に言うことができるならば。この最も大事なアーメン、最大最後のアーメンを、わたしたちが心の底から言うことができるならば、もう一切の不安が消え去ってしまうでありましょう。
かくして、あの使徒パウロの言葉、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向っているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」という、このアーメンは、わたしたちのアーメンにおいて、こういうアーメンとなるのです。
すなわち、わたしは神の御言葉、主イエスキリストから出た。わたしは神の御言葉、主イエスキリストによって保たれている。わたしは神の御言葉、主イエスキリストに向っている。栄光が、神の御言葉、主イエスキリストに永遠に、いついつまでもあるように、アーメン。
これが、わたしたちのアーメンでありますでしょうか? わたしたちが今日言うアーメンは、こういうアーメンでありましょうか? もしそうであるなら、もしアーメンであるならば、もうわたしたちに不安はありません。最後に、コロサイ書1:13-20をお読みして、お祈りいたしましょう。
「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。また、御子は、その体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、ご自分と和解させられました」 アーメン
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