http://www.asyura2.com/10/bd59/msg/348.html
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(回答先: 蘇我入鹿慘殺から~國日本は百濟に乘つ取られてゐた 藤原五攝家とは百濟亡命王族だつたのだ 投稿者 不動明 日時 2011 年 2 月 19 日 02:15:38)
では佛魔、謀略邪惡靈能集團の眞の本體、中樞部はどこなのだらうか。
藤原鎌足は興福寺に葬られてゐる。
此の事實は極めて重大な意味を持つ。
意味も無く興福寺に葬られてゐる譯が無い。
春日大社は藤原氏の氏~を祀つてゐる~社。
此の興福寺と春日大社こそ佛魔邪惡靈能集團の總本山だつたのだ。
ところで興福寺と云へば國寶阿修羅像がある寺でもある。
あっはっはっはっはっはっはっー
こいつはたまげた!!
成る程、だから私を導き護つて呉れてゐる靈的守護勢力は、
此處阿修羅掲示板に投稿させてゐたのか。
何とユーモアのセンスのある我が守護靈團よ。
興福寺 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/興福寺
興福寺
五重塔と東金堂(共に国宝)
所在地 奈良県奈良市登大路町48番地
位置 北緯34度40分59.97秒
東経135度50分0.98秒
山号 なし
宗派 法相宗
寺格 大本山
本尊 釈迦如来
創建年 天智天皇8年(669年)
開基 藤原不比等
札所等 西国三十三箇所9番(南円堂)
南都七大寺2番
西国薬師四十九霊場4番(東金堂)
神仏霊場巡拝の道16番
文化財 五重塔・木造弥勒仏坐像・乾漆八部衆像ほか(国宝)
南円堂・木造薬王菩薩・薬上菩薩立像ほか(重要文化財)
世界遺産
興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺である。古代から中世にかけて強大な勢力を誇り、鎌倉・室町両幕府は大和国に守護を置くことができなかった。南円堂は西国三十三箇所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。
歴史
創建
藤原氏の祖である藤原鎌足(614年 - 669年)夫人の鏡大王(かがみのおおきみ)が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)山背国(山城国)山階(京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り、地名(高市郡厩坂)をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。
和銅3年(710年)の平城遷都に際し、鎌足の子息である藤原不比等(659年−720年)は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し、「興福寺」と名付けた。この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。
その後も、天皇や皇后、また藤原家によって堂塔が建てられ整備が進められた。不比等が没した養老4年(720年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになった。
南都北嶺
興福寺は奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護された。平安時代には春日社の実権をもち、大和国一国の荘園のほとんどを領して事実上の同国の国主となった。その勢力の強大さは、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」(なんとほくれい)と称された。寺の周辺には塔頭と称する多くの付属寺院が建てられ、最盛期には百か院以上を数えたが、中でも天禄元年(970年)定昭の創立した一乗院と寛治元年(1087年)隆禅の創立した大乗院は皇族・摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えた。
鎌倉・室町時代の武士の時代になっても大和武士[1]と僧兵等を擁し強大な力を持っていたため、幕府は大和国に守護を置けなかった。よって大和国は実質的に興福寺の支配下にあり続けた。安土・桃山時代に至って織豊政権に屈し、文禄4年(1595年)の検地では、春日社興福寺合体の知行として2万1000余石とされた。
平重衡の兵火による焼失
興福寺は、創建以来たびたび火災に見まわれたが、その都度再建を繰り返してきた。中でも治承4年(1180年)、源平の争いの最中、平重衡の兵火による被害は甚大であった(南都焼討)。 東大寺とともに大半の伽藍が焼失した。この時、興福寺再興に奔走したのは焼失直後に別当職に就いた信円と解脱上人貞慶であった。現存の興福寺の建物はすべてこの火災以後のものである。なお仏像をはじめとする寺宝類も多数が焼失したため、現存するものはこの火災以後の鎌倉復興期に制作されたものが多い。興福寺を拠点とした運慶ら慶派仏師の手になる仏像もこの時期に数多く作られている。
江戸時代の享保2年(1717年)の火災の時は、時代背景の変化もあって大規模な復興はなされず、この時焼けた西金堂、講堂、南大門などはついに再建されずじまいであった。
廃仏毀釈による破壊
江戸時代は21000石の朱印を与えられ保護された興福寺だが、明治元年(1868年)に出された神仏分離令は、全国に廃仏毀釈の嵐を巻き起こし、春日社と一体の信仰が行われていた興福寺は直接打撃をこうむった。子院はすべて廃止、寺領は没収され、僧は春日社の神職となり、境内は塀が取り払われ、樹木が植えられて、奈良公園の一部となってしまった。一時は廃寺同然となり、五重塔、三重塔さえ売りに出る始末だった。それにさきがけ、興福寺別当だった一乗院および大乗院の門主は奈良華族として還俗させられていた。
行き過ぎた廃仏政策が反省されだした1881年(明治14年)、ようやく興福寺の再興が許可された。1897年(明治30年)、文化財保護法の前身である「古社寺保存法」が公布されると、興福寺の諸堂塔も修理が行われ、徐々に寺観が整備されて現代に至っている。 しかし、興福寺に塀が無く公園の中に寺院がある状態、「信仰の動線」が欠落していると称される状態は、このとき残された傷跡である。
現在
1998年に世界遺産に登録され、1999年から日本国の史跡整備保存事業として、発掘調査が進められている。
中金堂再建中。南大門再建計画中。
門跡
かつて興福寺には「興福寺両門跡」と呼ばれる2つの子院があった。一乗院と大乗院である。
一乗院門跡
一乗院は、第6代門主覚信が関白藤原師実の子息だったことをきっかけに、代々、摂家あるいは皇族が門主を務める門跡寺院のひとつとなった。その後、五摂家分立以降は近衛家の管領するところとなり、近衛家流(近衛家・鷹司家)の子弟が門主となる例が多かった。ちなみに足利義昭は、もともと近衛稙家の猶子として法名覚慶を名乗り一乗院の門跡となっていたが、兄義輝の殺害にともない還俗し、織田信長の援助を得て将軍となったものである。大和の国衆でのちに戦国大名化した筒井氏は一乗院の衆徒の筆頭であった。江戸時代に入って後陽成天皇の皇子尊覚が門主となったのをきっかけに親王が門主をつとめるケースも増えた。たとえば、久邇宮朝彦親王は、もと一乗院の門主であったものが、その後青蓮院に移されたものである。摂家や親王家と同様に諸大夫以下の専属の家司もおり、摂家・親王家と同格の立場を誇っていた。また奈良だけではなく、京都今出川の桂宮邸と御所の間に「里坊」と呼ばれる屋敷を持っていた。
大乗院門跡
大乗院は、これも藤原師実の子息である尋範が門主となったのをきっかけに門跡寺院となった。こちらは九条家の管領に属し、九条流(九条家・二条家・一条家)の子弟が門主を務めるところであった。戦国時代には、日記『大乗院寺社雑事記』で著名な門主尋尊(一条兼良の子息)が出ている。また、足利義昭が将軍の地位を追われたあと、義昭のひとり息子が出家して法名を義尋と名乗り大乗院の門主となっている。一乗院が筒井氏を衆徒としたように、大乗院も古市氏を衆徒としている。諸大夫以下の家司や里坊を有し、摂家・親王家と同様の格式を誇ったことは一乗院と同様であるが、親王が門主となった例はない。
興福寺の最高職である別当は、一乗院門主と大乗院門主が交互に就任するならわしだった。また、興福寺がその権限を行使していた大和国守護職についても両院が共同で管理していた。江戸時代には世俗的権力を失い、幕府から一定の知行(一乗院が1,492石、大乗院が951石)を与えられた単なる寺院となった。両院とも明治の廃仏毀釈で廃寺となった。
興福寺について | 法相宗大本山 興福寺
http://www.kohfukuji.com/about/index.html
概要
法相宗の大本山として知られる興福寺。その前身は飛鳥の「厩坂寺」であり、さらにさかのぼると天智朝の山背国「山階寺」が起源となります。
その山階寺は、天智8年(669)に藤原鎌足が重い病気を患った際に、夫人である鏡大王が夫の回復を祈願して、釈迦三尊、四天王などの諸仏を安置するために造営したものと伝えられており、この名称は後世においても興福寺の別称として使われています。
その後、壬申の乱(672)ののち、飛鳥に都が戻った際に、山階寺も移建され、その地名を取って厩坂寺とされました。
さらに、平城遷都の際、和銅3年(710)藤原不比等の計画によって移されるとともに、「興福寺」と名付けられたのです。
天皇や皇后、また藤原氏の人々の手によって次々に堂塔が建てられ整備が進められ、奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護され、寺勢はますますさかんになります。
平安時代には春日社の実権を手中におさめ、大和国を領するほどになり、また、鎌倉・室町時代には幕府は大和国に守護を置かず、興福寺がその任に当たりました。
文禄4年(1595)の検地で春日社興福寺合体の知行として2万1千余石と定められ、徳川政権下においてもその面目は保たれました。
その後、明治時代はじめの神仏分離令、廃仏毀釈、社寺上地令などで興福寺は荒れましたが、その後は寺僧有縁の人々の努力で復興が進展し新たな興福寺としてその歴史を刻み続けています。
春日社参式 | 一年間の行事 | 年中行事とイベント案内 | 法相宗大本山 興福寺
http://www.kohfukuji.com/event/festival/01.html
皆さまは、お正月にはお参りに行かれますか。そのときは何処にいかれるのでしょう。多くの人は、神社に行かれることと思います。また、お盆には何処にいかれますか。これは、まずお寺にいかれる方が多いと思います。この他にも、日本ではクリスマスを祝ったり、節分を祝ったりとすっかり本来の宗教的意義は忘れて風俗化しています。今回はそのルーツを興福寺の正月行事。春日社参式にからめ探ってみたいと思います。
興福寺では、正月の2日に一山僧侶と寺に有縁の方々と共に、春日大社にお参りいたします。この日は春日大社の日供始(にっくはじめ)で、日々、神々にお供えをする1年の最初の日です。宮司をはじめ神官の方々と一緒にお参りをし、社頭において般若心経と唯識三十頌を読誦するのです。神社でお経を?と思われるかもしれませんが、興福寺と春日大社の密接な歴史的関係を除いても、明治時代までは一般的にもごく自然のことでした。
仏教の日本への公伝は、欽明3年(538)といわれています。当初は外来の宗教で、しかも当時最先端の文化でしたから、咀嚼するには随分と時間がかかりました。そして、仏教が日本の国民的思想に同化するようになったのは、平安時代も末のことです。その結果が、本地垂迹(ほんぢすいじゃく)説というものでした。本地垂迹説とは、無始無終たる絶対の仏様が衆生済度のために迹(教化・救済の姿)を様々な神の形をとって現わす。であるから、仏も神も帰するところは1つであるという思想です。この本地垂迹の語は法華経の如来寿量品からとられたものです。
本地垂迹の思想の萌芽は既に奈良時代にも見られます。しかし、東大寺要録、元亨釈書等に見られる橘諸兄・行基菩薩創始の伝説は後世の作で、実際には神仏習合思想の域は出ていません。神仏習合思想とは、神も衆生の一で、人間と同じく迷界に流転する存在ですので、覚りを求め仏法を尊び擁護するという思想です。そこから、神様のためのお寺の建立(神宮寺)、納経、僧侶による神前読経、果ては神様に菩薩号(八幡大菩薩など)を付けるなどのことが行なわれました。神前読経にかんする史書における初見は、延暦13年(794)九州の3神社(宇佐八幡・宗形・阿蘇)に僧侶を派遣しての読経です。
このように、神様は仏教の教えを受け、覚りを得て菩薩となったのですが、仏様同体になるには至りませんでした。その習合思想が発展して、神様と仏様が一体となる本地垂迹思想が、史書に現れる様になるのは平安時代中期の承平7年(937)です。以後ますます発達した本地垂迹思想は、ついに神々と仏様が一緒になったのでした。現在も続く興福寺の春日社参式は、仏教が日本に根付いた歴史でもあるのです。
春日大社 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E6%97%A5%E5%A4%A7%E7%A4%BE
春日大社
所在地 奈良県奈良市春日野町160
位置 北緯34度40分53秒
東経135度50分54秒
主祭神 武甕槌命
経津主命
天児屋根命
比売神
社格等 式内社(名神大)・二十二社・官幣大社・勅祭社・別表神社
創建 768年(神護景雲2年)
本殿の様式 春日造
札所等 神仏霊場巡拝の道第15番(奈良第2番)
例祭 3月13日(春日祭)
春日大社(かすがたいしゃ)は、奈良県奈良市の奈良公園内にある神社である。旧称春日神社。式内社(名神大社)、二十二社の一社で、旧社格は官幣大社。全国にある春日神社の総本社である。
藤原氏の守護神である武甕槌命と経津主命、祖神である天児屋根命と比売神を祀る。四神をもって藤原氏の氏神とされ、春日神と総称される。神紋は下がり藤。武甕槌命が白鹿に乗ってやってきたとされることから、鹿が神使とされる。
歴史
奈良・平城京に遷都された710年(和銅3年)、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山(みかさやま)に遷して祀り、春日神と称したのに始まる。社伝では、768年(神護景雲2年)に藤原永手が鹿島の武甕槌命、香取の経津主命と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を造営したのをもって創祀としている。ただし、近年の境内の発掘調査により、神護景雲以前よりこの地で祭祀が行われていた可能性も出てきている。
藤原氏の隆盛とともに当社も隆盛した。平安時代初期には官祭が行われるようになった。当社の例祭である春日祭は、賀茂神社の葵祭、石清水八幡宮の石清水祭とともに三勅祭の一つとされる。850年(嘉祥3年)には武甕槌命・経津主命が、940年(天慶3年)には、朝廷から天児屋根命が最高位である正一位の神階を授かった。『延喜式神名帳』には「大和国添上郡 春日祭神四座」と記載され、名神大社に列し、月次・新嘗の幣帛に預ると記されている。
藤原氏の氏神・氏寺の関係から興福寺との関係が深く、813年(弘仁4年)、藤原冬嗣が興福寺南円堂を建立した際、その本尊の不空絹索観音が、当社の祭神・武甕槌命の本地仏とされた。神仏習合が進むにつれ、春日大社と興福寺は一体のものとなっていった。11世紀末から興福寺衆徒らによる強訴がたびたび行われるようになったが、その手段として、春日大社の神霊を移した榊の木(神木)を奉じて上洛する「神木動座」があった。
1871年(明治4年)に春日神社に改称し、官幣大社に列した。1946年(昭和21年)12月に現在の春日大社に改称した。
本殿
春日造の本殿が四殿並んで建っており、第一殿に武甕槌命、第二殿に経津主命、第三殿に天児屋根命、第四殿に比売神が祀られている。拝殿はなく、一般の参拝者は幣殿の前にて、初穂料を納めて特別拝観を申し込んだ場合は本殿前の中門から参拝することになる。
摂末社
広大な境内には多数の摂末社がある。本殿の東側には比売神の御子神として天押雲根命を祀る摂社若宮神社があり、若宮神社、夫婦大国社を始めとする本殿東側の十二社は、「福の神十二社めぐり」として古来より崇敬を集めている。
本殿廻廊の西南隅には、摂社・榎本神社(式内小社)がある。榎本神社の祭神は当地の地主神であり、元々この地で祀られていた神であるとされる。現在の祭神は猿田彦大神であるが、中世までは巨勢姫明神とされていた。
二之鳥居横には瀬織津姫を祀る祓戸神社があり、参拝者はここでまず身を清めてから参拝するのが習わしとなっている。『南安曇郡誌』の記述などから、本殿第四殿に祀られている比売神とは、もともとは瀬織津姫のことであったとする説もある。
此れは詰まり
興福寺を通じて春日大社を
春日大社を通じて、鹿嶋~宮を
鹿嶋~宮を通じて諏訪大社を封じ込める
東國の蝦夷(えみし)、鬼、天狗、まつろわぬ者共を
靈的に封じ込めると云ふ事ではないのか。
トドメに諏訪大社の本宮の拜殿は
御~體の守屋山の方角に對して拜まず、九十度ずれた、
かつて何とか寺(ガイドのおじさんに聞いたが何と云ふ寺だつたか忘れた。
其の寺は現在無い)があつた方角に對して
拜殿が配置され其の寺に對して拜んでゐる。
ちなみに勿論ちやんと御~體の守屋山の方角に對しても拜んで來た。
世界遺産 春日大社 公式ホームページ/ご案内/ご由緒ご案内/ご由緒
http://www.kasugataisha.or.jp/about/index.html
春日大社は、今からおよそ1300年前、奈良に都ができた頃、日本の国の繁栄と国民の幸せを願って、遠く鹿島神宮から武甕槌命(タケミカヅチノミコト)様を神山御蓋山(ミカサヤマ)山頂浮雲峰(ウキグモノミネ)にお迎えした。やがて天平の文化華やかなる神護景雲2年(768年)11月9日、称徳天皇の勅命により左大臣藤原永手によって、中腹となる今の地に壮麗な社殿を造営して香取神宮から経津主命様、また枚岡神社から天児屋根命様・比売神様の尊い神々様をお招きし、あわせてお祀り申しあげたのが当社の始まりです。
御祭神である武甕槌命様・経津主命様は、日本の国を秩序ある国にするためにあらゆる神々と交渉され、平和裡に治められた功績ある神様であります。また天児屋根命様は神事と政治を守り導かれる神様として、比売神様は天照大御神様だとも天児屋根命様の妃神とも伝えられています。平和と愛の尊い神様であり、それぞれの霊験を仰ぎ御加護を頂いてまいりました。この四柱の神々様は、それぞれ端正な春日造の御本殿(国宝)に鎮座されており、最も尊崇すべき神々として春日皇大神と申しあげ、また、春日四所明神、春日大明神と申しあげてまいりました。
御創建以来当社は、千古の森の中に朱の柱、白い壁、そして自然の檜皮屋根の本殿・社殿が往古と変わらぬ壮麗で瑞々しいお姿で鎮まっておられます。これは、20年毎に斎行される式年造替という制度により、社殿の御修繕、御調度の新調、祭儀の厳修により日本人の命が連綿と受け継がれてきたからです。これにより、清々しくも尊厳ある気が境内に満ち、神様の広大無辺なるお力や有り難さがしみじみと感じられる名社として今日に至っています。また、全国3000に及ぶ春日の御分社、奉納された3000基の燈籠は、その厚い信仰の広がりを示しています。
そして今日も昔と変わらず、毎朝毎夕の神事の御奉仕を始め、年間1000回に及ぶお祭りが行われ、日本の国はもとより、世界の平和、万民の幸福、そして共存共栄が祈り続けられています。
平成10年12月には、春日大社や春日山原始林を含む「古都奈良の文化財」がユネスコの世界遺産に登録されました。
諏訪−鹿島レイラインの研究/百瀬直也
http://www.ne.jp/asahi/pasar/tokek/TZ/LL-SuwaKashima.html
桑原政則のひとこと: 鹿島神宮ー諏訪大社 東西の道#2 <寺社
http://kuwabara03.blogspot.com/2009/05/2.html
此れは佛教に據る~道支配の何物でもない。
佛法の法力に據つて舊來の日本の~道の八百萬の~々の靈力を支配下に措き
封じ込めんとした事が此處にはつきりと現れてゐる。
なにゆゑ寺は戰亂の度に燒失してゐたのか。
其れは此のやうな背景があるがゆゑなのだつた。
佛法の法力に據つて封じ込められし~道の八百萬の~々の靈力の解放、
其れこそが寺を燒き拂う大きな理由の一つだつたのだ。
(天才政治家徳川家康は此れを~佛習合と云ふ形で發展させ
百濟勢力藤原家封じ込めに利用したのだらう。
南光坊天海こと明智光秀もまた天才だつた)
謀略邪惡靈能集團は、遂に~道の總本山伊勢~宮をも牛耳つた。
(ちなみに伊勢~宮の~紋は、四辨の花菱で、別名
「唐花菱」或ゐは「唐花」とも呼ばれてゐるさうで
十六辯菊花紋では無いのだ。
そもそも伊勢~宮には以前は~紋が無かつたと云ふ情報もある)
また平安~宮は九条道弘、春日大社はそもそもからして藤原が氏~と成つてゐる
~道勢力の主要な勢力はほぼ壊滅状態だらう
望みの綱は物部系と出雲系と諏訪系
其れと山岳脩驗道系統の猶太クムラン宗團の靈統を保持してゐる
~社や寺邊りだらうか
(例えば鞍馬寺や出羽三山~社、幣立~宮や籠~社・眞名井~社、
唐松~社や戸隱~社や善光寺とか)
江戸末期に平田篤胤等に據る古~道復興の流れや水戸國學からの
尊王攘夷運動から沸き起こつた末に誕生した明治新政府に據る
國家~道の動きから出た~佛分離令から廢佛毀釋運動への流れを見て、
リスク分散を圖る爲に、更に~道勢力に對する乘つ取り工作を進めて行つたのは
間違ひなからう。
大きアジアの國々や、
島々八十(やそ)の人々と、
手握り合ひ~國の、
光り輝く時來しと、
皆喜びて三千年、
~の御業(みわざ)の時來しと、
思へる時ぞ~國の、
まこと危なき時なるぞ、
夜半に嵐のどつと吹く、
どうすることもなくなくに、
手足縛られ縄附けて、
~の御子等を聯れ去られ、
後には老人(としより)不具者(かたわ)のみ、
女子供もひと時は、
~の御子たる人々は、
悉々暗い臭い屋に、
暮さなならん時來るぞ、
宮は潰され御文(みふみ)皆、
火にかけられて灰となる、
この世の終り近づきぬ。
この~示(ふで)心に入れ呉れと、
申してある事わかる時、
愈々間近になりたぞよ。
出掛けた船ぞ、
褌締めよ。
十一月三十日、ひつ九のか三。
日月~示 日月の卷 第三十八帖 (211)
御國の爲に戰つてこいと徴兵しておきながら、閣僚の誰も參拜に行かないなどと云ふ態度を採る現政權は英靈達に對して餘りにも無禮
http://www.asyura2.com/10/bd58/msg/504.html
投稿者 卍と十と六芒星 日時 2010 年 8 月 10 日 22:33:20: xsXux3woMgsl6
興亜会 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/興亜会
興亜会
興亜会(こうあかい)は、1880年(明治13年)に日本で最初に設立されたアジア主義の総合機関。日本におけるアジア主義(興亜主義)の原点であり、源流である。
後期
1900年(明治33年)亜細亜協会は、1898年(明治31年)に近衛篤麿が創設した東亜同文会に吸収され、亜細亜協会の長岡護美、花房義質、渡辺洪基は東亜同文会の評議員に就任した。東亜同文会はその趣意書に「支那保全」を掲げているが、日清戦争を契機にしたこれ以降の団体は、興亜会とは質的に別のアジア主義団体となった。また、吾妻兵治は日中朝三国の対等提携を志向し、日清戦争後の1899年(明治32年)、岡本監輔と善隣講書館を設立し、和書や洋書を漢訳出版し中国へ輸出して文化交流を計画し実行している[12]。
東亜同文会 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/東亜同文会
東亜同文会
東亜同文会(とうあどうぶんかい)とは、1898年(明治31年)から1946年(昭和21年)にかけて、日本に存在した民間外交団体及びアジア主義団体。上海に設立された東亜同文書院の経営母体であったことで知られる。現在の霞山会の前身である。
設立の経緯・概要
東亜同文会は、日清戦争・日露戦争後に清国に対して優越的立場を取り、なおかつ「支那保全(支那保全論)」を掲げて発足した、中期アジア主義の代表的な機関である。1896年から1898年にかけて清朝が欧米により勢力分割(いわゆる「瓜分」)され、それに続く戊戌の変法・戊戌の政変の騒動は、日本においても朝野の大きな関心事となった。これによって康有為・梁啓超らが亡命することになり、更には清朝打倒の革命を唱える孫文らが既に日本を拠点に活動していたことは、日本政府にとって二つの問題を同時に抱えることとなった。こうした問題を抱えながら、康・梁らの改革支援を主目標に掲げた「東亜会」と、大陸での事業経営などの活動を目的として発足した「同文会」という異なる二つの団体と、既存のアジア主義団体「興亜会(亜細亜協会)」や「東邦協会」、「善隣協会」の一部を吸収合併し、「東亜同文会」が発足した。
東亜同文会は支那保全を掲げていたが、義和団の乱後に登場した満州問題を廻って、対露強硬の姿勢を取る近衛篤麿と平和論を主張した陸羯南の対立などにより、東亜同文会の思想は次第に「アジア・モンロー主義」に近い新秩序を志向するものとなった。犬養毅が政府に活動資金を出すように働きかけ、外務省機密費で年に4万円が支給された。これにより、外務省の意向が会の役員人事にも影を落としていた半官半民の国策団体であった。日本政府は最初、康有為・梁啓超一派の亡命に対して協力的だったが、山縣内閣が北京政府の康・梁追放要求を求めたのに対して近衛篤麿がこれを受け入れ、康有為を自発的に離日させることとなった。この近衛の行為には陸実を始めとして会の中からも大きな批判があり、陸を始めとして数名の脱会者が出た。このようであったから、東亜同文会は孫文の革命派に対する支援にも消極的になり、広東支部の廃止なども相次いだ。このように会は徐々にその性質を変えながら、大東亜戦争まで存続することとなった。
組織
役員(創立時)
会長
近衛篤麿
合流団体
1898年、それまで別組織であった東亜会と同文会及び「興亜会(亜細亜協会)」を始めとする既存のアジア主義諸団体が合体して東京・赤坂溜池に設立された。
東亜会
東亜会
東亜会は福本日南の渡欧送別会の席上、この会に参加した陸實・三宅雪嶺・志賀重昂らによって提起され1897年に誕生した。会の事務所は政教社に置かれた。会員は政教社同人のほかに黒龍会の内田良平、および孫文らの中国革命を援助した宮崎滔天らであった。
同文会
同文会
同文会は東亜会設立の翌1898年、貴族院議長・近衛篤麿を中心に結成された。この会の事業綱領は以下のようなものである。
支那問題を研究するとともに各般の調査に従事し、各種事業の助成を図る。
上海に同文会館を設け、両国有志の協同を図る。
東京にあっては『時論』、上海にあっては『亜東時報』の両雑誌をもって通信機関とする。
上海における同文学堂をもって、両国人の教育機関とする。
亜細亜協会
亜細亜協会
亜細亜協会は1880年(明治13年)に設立された興亜会を前身に持ち、東亜同文会の設置にあたり、長岡護美、花房義質、渡辺洪基、榎本武揚・岸田吟香・恒屋盛服が合併を申し込み、東亜同文会に合流した。そのうちの長岡・花房・渡辺はそのまま東亜同文会の幹事となった。更に、日清貿易研究所の運営は東亜同文書院に引き継がれた。
東亜同文会
東亜同文会の設立
同文会設立の4ヵ月後、同会と東亜会の合併により設立された東亜同文会は「支那保全論」に基づき清朝を容認した。さらに洋務派官僚の劉坤一・張之洞らと関係の深い近衛が会長に就任すると孫文らの中国革命を支援する東亜会系の会員は次第に姿を消していった。
アジア主義 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/アジア主義
アジア主義
アジア主義(アジアしゅぎ)、または汎アジア主義(はんアジアしゅぎ、英語: Pan-Asianism)とは、日本と他のアジア諸邦の関係や、アジアの在り方についての思想ないし運動の総称である。19世紀後半に活発となった欧米列強のアジア侵出に対抗する方策として展開された。
人物・組織・思想
興亜会
1880年、海軍軍人で中国での情報活動に従事していた曽根俊虎などを中心に設立された。琉球処分や壬午事変などで日清関係が悪化していくなかで両国の提携論を標榜し、最初のアジア主義団体とされている。日清提携のための中国語での機関誌発行や語学教育に力を入れた。のち亜細亜協会と改称し、東亜同文会が設立されるとこれに合流した。
植木枝盛
『愛国志林』、『愛国新誌』などで独自の小国主義・アジア連合論を展開。清朝や朝鮮との戦争に反対し、アジアの被抑圧からの独立振興を主張した。
樽井藤吉
1885年、『大東合邦論』を執筆し、日本と朝鮮の対等合併による「大東国」建国を主張した。大阪事件に連座して下獄したため原稿(日本文)を散逸し、日清戦争直前の1893年に漢文で出版した。
犬養毅
頭山満の親友、盟友。中国から亡命してきた孫文や蒋介石、インドから亡命してきたラス・ビハリ・ボースらをかくまう。
玄洋社
頭山満が主宰。福岡県を拠点にし、中国の孫文や、朝鮮の金玉均を援助した。日露戦争時には、馬賊を編成し、ロシア軍の後方を撹乱した。在野の立場を貫き、日本政府の「大東亜共栄圏」構想に与しなかったため、のち迫害される立場になった。しかし広田弘毅は、正規のメンバーだったといわれる。
黒龍会
内田良平が主宰。朝鮮での甲午農民戦争時に東学と連携しつつ清軍を挑発するために派遣された玄洋社の別働隊「天佑侠」を起源としている。なお名称の「黒龍」とはブラック・ドラゴンではなく、黒龍江(アムール川)を指す。
宮崎滔天
梅屋庄吉
東亜同文会
戊戌の政変により日本に亡命した康有為・梁啓超の支援をきっかけに作られた政教社系の東亜会と、中国で商業活動を担っていた大陸浪人が組織した同文会の合併により1898年発足した。初代会長は近衛篤麿で、東亜同文書院の経営を主な活動とした。
岡倉天心
孫文「大アジア主義講演」
1924年11月、日本の神戸で講演し、「日本は西洋覇道の鷹犬になるのか。東洋王道の干城になるのか」と述べる。東洋の仁義道徳を、世界秩序の基本にすべきであると主張し、日本政府に対して中国との不平等条約を改正することを暗に求めた。カラハン宣言により不平等条約を破棄したソ連を王道の側に立つ国家とし、日・中・ソの提携を提唱している点に特徴がある。
汪兆銘
汪兆銘は国父孫文の大アジア主義の意思を継承した人物。1912年1月1日、南京で孫文は臨時大総統に就任し列国に向かって中華民国成立の宣言を発表したが、この宣言の起草を行った。日中戦争中には徹底抗戦を主張する蒋介石に対し日中の共存共栄こそ中国国民の幸せに至る道であると確信し、中国共産党や蒋介石とは異なる独自の道を目指した。「一面抵抗、一面平和」の哲学のもと日中和平を唱え奔走したがついに叶わなかった。
広田弘毅
岸信介
大川周明
松井石根
東亜協同体論
1930年代末(日中戦争初期)、東アジア地域において民族・国家を超克する協同体の建設を主張したもの。当時の近衛文麿首相のブレイン集団である昭和研究会を中心に構想され、三木清・蝋山政道・尾崎秀実・新明正道らが主要な論者となった。
スバス・チャンドラ・ボース
自由インド仮政府を樹立しインド独立を達成することで、東南アジアなどにその輪を広げ、アジア人によるアジア建設を目指した。
マハトマ・ガンディー
非暴力主義を掲げて、インドをはじめとする植民地支配民族の独立運動を展開した。
三浦襄
最後まで大東亜共栄圏を理想と信じて行動した日本人。
近衛篤麿 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/近衛篤麿
近衛篤麿
このえ あつまろ
生年月日 1863年8月10日(文久3年6月26日)
出生地 京都
没年月日 1904年1月1日(満40歳没)
所属政党 火曜会
配偶者 近衞衍、近衞貞
第3代貴族院議長
任期 1896年10月3日 - 1903年12月4日
天皇 明治天皇
近衞 篤麿(このえ あつまろ、文久3年6月26日(1863年8月10日) - 明治37年(1904年)1月1日)は、明治時代後期の華族・政治家。号は霞山。近衛家は五摂家筆頭の家柄で、公爵。第3代貴族院議長、第7代学習院院長、帝国教育会初代会長。本姓は藤原。
アジア主義の盟主として活躍
近衛篤麿の外交政策は、中国(当時は清朝)を重視したものであった。特に日清戦争後に積極的に中国をめぐる国際問題に関わっていく。1891年(明治24年)に東邦協会の副会頭に就任。日清戦争後、西欧列強が中国分割の動きを激しくしていく中で危機感を抱く。1898年(明治31年)に同文会を設立したが、同文会は、犬養毅の東亜会と合併して東亜同文会となり近衛篤麿は同会の会長に就任する。かくて、民間諸団体を糾合し国家主義、アジア主義大同団結運動を目論んだ。東亜同文会はアジア主義的色彩の強い立場に立脚し、中国・朝鮮の保護と日本の権益保護のため、外務省・軍部と密接に提携しながら、1900年(明治33年)に南京同文書院(後の東亜同文書院、その後身愛知大学)を設立するなど対中政治・文化活動の推進を図っていく。また、清朝内で強い権力を持つ地方長官の劉坤一(両江総督)や張之洞(湖広総督)などにも独自に接近、日清の連携をもちかけた。
そうした中1900年(明治33年)6月、中国の華北や満州(現在の中国東北部)を中心に義和団の乱が勃発、これに乗じたロシアが満州を占領下に置いた。これに強い危機感を抱いた近衛は政府元老の伊藤博文や山縣有朋らにロシアに対して強硬な姿勢を取るよう持ちかけたが一蹴された。そこで近衛は犬養・陸羯南・頭山満・中江兆民ら同志を糾合して同年9月に国民同盟会を結成し、日本政府に対する批判をますます強めた。さらに長岡護美に書簡を託し、満州を列国に開放することで領土の保全を図るよう、劉坤一や張之洞に働きかけた。張が特にこれに大きく触発され、劉とともにこの近衛の案(根津一などがゴーストライターとして考えられるが)を清朝の中央に上奏し、採用を求めている。この時は却下されたものの、満州開放案はその後袁世凱も採用し、日露戦争後にはむしろ権益独占を図る日本に対する障害となった。また、1903年(明治36年)には対露同志会を結成。貴族院議長を辞任、枢密顧問官に任命された。
しかし、将来を嘱望されていた矢先、1904年(明治37年)1月1日に死去。享年42(満40歳没)。中国に渡航したさいに感染した伝染病が原因であった。近衛家の菩提寺である大徳寺(京都市北区)に葬られた。
死後、多額の借財があり、篤麿存命中に近衛家に出入りしていた者が手のひらを返すような態度に変わったため、長男近衛文麿は人間不信の念を強くしたとされる。
家族
前妻:衍(さわ。前田慶寧五女。明治2年-明治24年)
長男:文麿(貴族院議長、内閣総理大臣)
後妻:貞(もと。前田慶寧六女。明治4年-昭和20年)
長女:武子(公爵大山柏妻)
次男:秀麿(音楽家)
三男:直麿(雅楽研究者)
四男:忠麿(→水谷川家を継ぐ、春日大社宮司)
西園寺公一 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/西園寺公一
生涯
戦前
明治39年(1906年)11月1日、公爵西園寺家の嫡男として神奈川県に誕生した。祖父は西園寺公望、父は公望の養子西園寺八郎(実父は旧長州藩主で・公爵毛利元徳)で、母は公望の娘・新である。
学習院初等科から東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を経てイギリスのオックスフォード大学へ留学。ここでマルクス主義の洗礼を受ける。昭和5年(1930年)、オックスフォード大学を卒業した。
1931年に日本へ帰国。父八郎から宮内省入りを勧められたが頑として拒絶。東京帝国大学大学院に在学中、外務省の試験を受けて失敗。「英語は素晴らしくよくできたが、日本式の答案にはまるで不慣れ」だったのが原因だったが、これを聞いた近衛文麿は「折角きてくれるというのに、なんてもったいないことをするんだろう」と外務省の官僚主義を嘆いた[1]。外務省嘱託職員を務めていたが、有資格者ではなかったため冷遇されて辞職し、1936年にはグラフ雑誌『グラフィック』の社長に就任。同年7月、カリフォルニアのヨセミテで太平洋問題調査会の第6回大会が開かれることとなり、オックスフォード時代の顔見知りで内閣書記官を務めていた牛場友彦の誘いにより日本代表団の書記として渡米。このとき、牛場から引き合わされて公一と同じ船室に入ったのが牛場の第一高等学校時代の同級生尾崎秀実だった。尾崎とは帰路も同室になっている[2]。
中国の秘密結社について研究しており、中国の共産主義運動に関心を持っていた。このため、のちにゾルゲ事件に連座した際にも、中国との交渉ルート確保のために許された可能性がある[3]。
1937年に近衛文麿内閣が成立すると、近衛のブレーン「朝飯会」の一員として軍部の台頭に反対し、対英米和平外交を軸に政治活動を展開した。また「汪兆銘工作」にも参画、「自立した新政権」の樹立を目指したが、結果としては軍部の意向が強く反映された政権となった。
昭和15年(1940年)9月には再度外務省嘱託職員となり、対米戦争回避のための努力を行った。この時期、松岡洋右外相に同行してヨーロッパを訪問、スターリンやヒトラーやムッソリーニとも会っている。昭和16年(1941年)7月には、内閣嘱託に。近衛首相より、日米交渉について、陸海軍の意見調整を図る、という任務が与えられた。
同年10月、風見章が主催する昼食会の席上で、尾崎秀実の逮捕を知る(ゾルゲ事件)。尾崎秀実とは共に近衛内閣のブレーンとしてさまざまな情報交換を行っていたため、それを「国家機密漏洩」であるとして、ゾルゲ事件に連座して禁錮1年6月、執行猶予2年の判決を受けた。このため嫡男としての爵位継承権を剥奪され、1946年に父・八郎が死去したあとの家督を弟の不二男に譲ると共に、西園寺家の相続権を放棄することとなった。
戦後
『グラフィック』誌の仲間と共に『世界画報』を創刊。また、新設プロ野球球団である「セネタース」(現在の北海道日本ハムファイターズ)のオーナーを短期間務めた。1947年には参議院議員選挙に出馬して当選。しかし肝臓ジストマに侵されていた公一は参院で欠席の記録を作り、議員としては見るべき活動ができず、2回目の参院選には落選。昭和29年(1954年)には京都市長選挙に出馬して落選する。1955年にはウィーンで開かれた世界平和評議会に日本代表として出席し、そのままウィーンの評議会の本部に書記として単身滞在、かの地で3年間を過ごす。この間、1957年に世界平和評議会の大会をセイロンで開くことになって中国に相談に立ち寄った際、中国から「人民交流」の日本側の窓口となる人物の推薦を頼まれたことがきっかけで中国の「民間大使」となる[4]。
日本に帰国してから間もなく、家族を連れて中華人民共和国へ移住、日中文化交流協会常務理事等として北京にて国交正常化前の日中間の民間外交に先駆的役割を果たした。アジア太平洋地域平和連絡委員会副秘書長としての月給は500元(毛沢東の月給は600元)と大臣クラスの待遇だった[5]。
昭和33年(1958年)には日本共産党に入党するも、のちに日中共産党が不和となった結果、昭和42年(1967年)2月、北京滞在中に「日本人の勤労人民としての生活経験をもたず、中国においても、社会主義の政府によって与えられている特恵的な生活になれて」「特定の外国勢力に盲従して、分裂と破壊活動に狂奔するようになった」(『赤旗』)旨を以て除名処分となる。1970年8月、12年7ヶ月ぶりに日本へ帰国。
かつての文革礼賛者はその後新興宗教やカルト的団体に接近する者が少なくなかったが[6]、西園寺も晩年は子息とともに創価学会に傾倒。入会こそしなかったものの、外部の理解者の立場にあった[7][8]。 中国寄りの創価学会に賛同しなお影響力を誇示しようとしていたようであるが、一方の創価学会にとって、中国とのかかわりが深く名門の末裔でもある西園寺父子は組織の「権威付け」には重宝な人物であった[9]。
【門跡】旧皇族・旧華族の神社仏閣【別表】
http://logsoku.com/thread/kamome.2ch.net/kyoto/1146301498/
122 :120 :2007/03/02(金) 18:54:28
大日本皇道立教会2代目会頭 四条隆愛(従二位勲三等)
2代目副会頭 三嶋弥太郎(子爵・正三位勲一等)
3代目会頭 四条隆徳(侯爵・正四位勲四等)
3代目副会頭 秋月左都夫(正三位勲一等)
その他重要人物
一条実孝(公爵・従二位勲二等・大葬使祭管長)
野村吉三郎(海軍大将・学習院院長)
牧口常三郎(学校教員・後に『創価教育学大系』を著す)
児玉誉士夫(後に国粋同盟東亜部長、海軍委嘱特務機関員)
案外知られていないことだが、いまこの国の中枢部に存在している創価学会の前身は大日本皇道
立教会という右翼系の団体だったのだ。そしてまた、ここには日蓮が大きく関係していることがわかる。
■法難
>その後、戦時下の昭和18年(1943年)7月に牧口常三郎は、治安維持法違反、並びに不敬罪容疑で逮捕、
>投獄され、翌昭和19年11月18日に獄中で死亡している。
>また一部には、彼らの逮捕は、創価学会の前身であった「大日本皇道立教会」が南朝系天皇を奉る団体
>であったため弾圧されたとの説も流されている。
>ただ、もし仮に「大日本皇道立教会」が南朝系だったとして、なぜ「創価教育学会」のメンバーだけ
>が逮捕され、秋月左都夫(皇道立教会副会頭・読売新聞社長)や児玉誉士夫は逮捕されなかったのか?
>日本中の有名人を集合させた「大日本皇道立教会設立発起人」名簿。
>そして、会頭・副会頭として83歳の長老・宮内大臣に73歳の出雲大社宮司。
> 彼らを押し退けて、名も地位もない中山忠英が、なぜトップの座に就いたのか?
> しかも「大日本皇道立教会」は、中山忠英以降、中山忠英以外には誰も会長の座に就くことがなかった
>。「大日本皇道立教会会長」というポストは、中山忠英だけのために用意されたものだったのだ。
136 :名無しさん@京都板じゃないよ :2007/03/23(金) 10:07:19
大日本皇道立教会の会長;中山忠英
創価学会の前身であった「大日本皇道立教会」
明治天皇の生母は公家中山慶子である。以下引用
http://www.club-kamikaze.net/modules/sections/index.php?op=viewarticle&artid=19
48投稿者:; 投稿日:2007年02月26日(月)16時19分47秒
すなわち
1)オウム真理教事件も
2)北朝鮮拉致事件も
3)秋田の人間養殖殺人大学も
4)日蓮宗関係者石原莞爾日中戦争も
全て同じミームである模様だ。
これらは「自分たちと考え方が合わない者は
躊躇せずに暗殺しても良い」とする日蓮の立正安国論のミームが起源と
見られ、この日蓮宗のポアの概念こそが、創価学会の本質そのものなのである。
日本の謀略の大半はここから来ている。
22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2005/12/03(土) 18:42:22 ID:tJAfBaCL0
国家神道もオームも神のために殺人をする事を美化するのって嫌だよね
「在野神道」の吉田神道・水戸神道・大本教など。
特に大本教の出口は黒竜会の内田良平と仲が良かった。
戦前最大の在野神道勢力が大本教なんだが、内田を媒介にして在野神道が連合した。
政府はこれに弾圧を加えたということ。
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