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歴史幻想の旅 ーー リュキア文明へたどる道
法ノモスの始源を求めて
1、文明の始原
人類歴史上最古の文明の可能性の高い原八ッティ国は、おそらくBC8000年の昔から続くアナトリアの中央部の国であり、非印欧語系の原八ッティ人The Hattianは、その子孫と思われるルウィア人The Luwiansやリュキア人The Lycian とはきわめて近縁の民族だったらしい。印欧語族のヒッタイト人は、ここに進入して徹底的完璧に原八ッティ国を叩き潰し、ヒッタイト帝国をうちたてた。ヒッタイト帝国は原八ッティ国をまるで原爆を投下したかのように焦土とし、すべてを焼き滅ぼした後、千年ほど継続した。まだまだ、、小アジアには未知の文明の遺跡が数多く眠っているにちがいない。シュメール文明の起源は、氷河期海進の大陸棚より、小アジア、アナトリアとコーカサスの高原を探すべきなのだろうか。
・概念の考古学
秩序のもととなる法ノモスの概念の古代世界への探索
人類のさまざまな概念の始原を、これら最古の文明から探し出すことは、いわば、概念の考古学ともいうべきであるが、ここでは秩序のもととなる法の概念の始原を探索する。
社会秩序のイデアをもたらすノモス。これは 宇宙の秩序としてのコスモスと対になる。また、ノモスの起源はユークリッド幾何学の起源と何らかの関係があるかもしれない。その概念は同質だ。それは、初期ギリシャ自然哲学が物質の本性を探求した精神とも同質だ。そしてこれはイオニア自然哲学の地、ミーレートス、エレア、リュディアや、とくにリュキアの地、謎にみちた小アジア南西部アルザワの地に、その起源が求められるだろう。
すなわち、リュキア文明や先史クレタ文明が持っていたと思われる社会秩序としての法ノモスの精神はここに源があるのではないかと思う。
2、忘れられた文明のふるさと リュキアのクサントス
リュキアの地は小アジアの南部である。一般にアルザワと呼ばれる。ヒッタイト帝国と境を接し、そこから先はフェニキアであり、アンティオキアという大都市があり、その先は、シドン、ティルス、と言う港湾都市がある。しかし、フェニキア人は、かってはペルシャ湾岸沿いにいたとヘロドトスはいっている。
リュキアから北は海岸に沿って、カリア、リュディアであり、ドーリス人の侵入で小アジアへ逃れたギリシア人たちやエトルリア人と混在していた。
ヒッタイト帝国さえ、手をつけなかったリュキア民族はきわめて誇りの高い民族であったらしく、支配されることを嫌い、後のペルシャ帝国との戦いでは他の民族は隷従したが、リュキア人だけは隷属を嫌い、全滅するまで戦い、ほぼ民族全員が滅んだらしい。(クサントスの戦い ヘロドトス第1巻176 )
リュキア民族とは、 トロイア方についた点、サルペドンという王の名など、クレタのギリシア王ミノスに追われてリュキアの地に来たなど、とても古い起源を予想される民族である。リュキア民族とは、ギリシア民族と対立する民族であり、カリア人、エテオクレタ人とともに、クレタ島の先住民族であるという。
ギリシア人以前にギリシアの地に広範に先住していた民族は多い。おそらくは、有名な都市トロイアは、エトルリア人やルウィア人などであろう。これは後、トロイアの落城にともなってイタリアなどへ移住したわけだ。フィレンツェなどのトスカーナの文化は、この小アジア、古代アナトリアのトロイアのエトルリア文明やルウィア文明などを濃厚に引き継いでいるのだろう。
後に出てくるフリュギアのミダス王の墓の幾何学装飾など、現代的デザインといって遜色ないほど高度なのである。むしろ現代のデザイナーが参考にしているがゆえに現代的に見えるのだ。これらは、クレタ文化やリュキア文化からもたらされたものだろう。フランスやイタリアの現代のデザイナーがクレタ文化の装飾模様を参考にして最新のデザインを発表しているがゆえにクレタ文化がモダンに見えるのと同じだ。
これらの小アジアの文化は、イタリアなどにトロイア落城の際、避難民として移っていったのである。イタリアは、古代ギリシアやアラブの文化のはるか前に、さらに古く原初的小アジア、アナトリアの文化の洗礼を受けていたのである。
これらの諸民族は、ギリシア文化のるつぼに溶け込んでしまって、いまでは詳細がわからないのである。しかし、ギリシア文化の師匠であったのであることを忘れてはならない。
さて、のちにそのリュキア文明の精神はギリシア・イオニアの知的文化の源となった。ギリシア自然哲学は、ギリシアではなく、リュキア文明やカリア、リュディア文明などの先ギリシア文明にその起源がある。ヘロドトス第1巻173 にはクレタ風、リュキア風の風俗の類似が書かれているが、詳細を書いてくれなかったことが、返す返すも残念である。似ている習俗の中に、法ノモスがはいるのであろう。建築様式もクレタとリュキアは非常に似ている。リュキア建築には、クノッソス宮殿と同じ建築様式をみることができる。また、語られることがまったくないが、イオニアの自然哲学は、リュキア文明なくしては誕生しえなかっただろう。リュキア文明の詳細が消えているからだ。しかし、さまざまな文化的類似性がクレタとリュキアにあるのである。
さらに後世、リュキア文明はアレクサンダーと一緒に、インドへ伝播・影響した可能性もある。リュキア文明の建築様式ばかりでなく、このリュキア文明の法ノモスが直接インドのマヌの法典に混在しているのではないかと思うのである。ヘレニズム以降のインドの文化の中には、リュキア文明の要素が見つかるかもしれない。
リュキア建築紀行 インドの石窟寺院への リュキア石窟墓の影響
http://www.kamit.jp/07_lycia/likia.htm
クレタと対岸のリュキア、カリアの地は同質の文化圏であっただろう。クレタには多大な関心が集まって、リュキアの地が現在、まったく考古学の関心を失っていることは、残念である。なぜなら、発掘資金を出す富裕な銀行家は美術品だけを関心の対象にしたからだ。そして、こっそり極上品だけを私有にして隠匿してしまうのだ。あまり美術品の出ないところのトルコ、リュキア、カリアの地は関心がないのだ。ギリシア人に大きな影響を与えた謎のクレタ先住民族のひとつはあきらかにリュキア民族だから、もっと多くの人が関心を持っていいのだろうが、この富裕な銀行家一族の、こっそり学者に耳うちする一言が、我々の知識の範囲を限定してきたのだ。
3、クレタの法ノモス
専制独裁の国では、異質とならざるをえない法ノモス
クレタの法ノモスは社会制度から考えねばならない。ギリシア人のミノア帝国以前は、おそらく王権は弱く、祭祀王、軍行政の王からなっていただろう。さらに民会、都市の住民の議会がもっとも強い権力をもっていたことはギリシア人の政治制度に大きな影響を与えたのだろう。先史クレタはおそらく、都市連合でなりたっていたようであり、専制独裁の世界では法は必要ない。王の恐怖に満ちた残虐な死の制裁で、すべての問題はかたづくのである。ミュケナイ帝国が中東の専制独裁の世界であったことは線文字Bの解読で明らかになり、世界を驚かせた。ミュケナイ帝国はギリシア人の秩序だから、当然なのだ。
しかし、クレタの法ノモスは先史クレタに起源があり、それはリュキア文明にあとあとまで残ったのだろう。法ノモスの世界は、裁判が民会によって成り立つ世界であることを示している。問題は、多くの市井の賢者の手にゆだねられるのだ。これは、リュキア文明の遺産として残ったのであろう。
クレタ島のゴルチュン市法典
The Gortyn code , Code of Gortyn
我々に残された古代ギリシア法の一つ、ゴルチュン市法典は石碑に彫られた碑文で残っている。クレタ島観光の目玉である。Googleで検索すると私の駄文ばかりが出てきて、詳しいアカデミズムの人の資料がないのはまったく弱ったことだ。英文のほうには詳細があるのだろう。
この法は、女性の相続権に大きな特色があると言われている。この点、リュキア人が母権制をとっていたらしいことからも、先史クレタやギリシア全体がギリシア人の侵入以前は母権制であったらしいことが予想される。あるいは、印欧語族の全世界的な拡散以前は、母権制、母系相続が世界の主流であったかもしれないのである。アマゾン族の謎はこの伝統の中から起源を探ることができるかもしれない。子育てや教育という点で女性に資産が確保され保証されたのだろうか。女性で、この分野に関心を持つ法制史学者がいれば、詳しい内容がわかるのであろう。..............他力本願(汗) えっGoogle翻訳?
法ノモスは絶対専制独裁の中東で発生した可能性は少ない。シュメールの高度文明の中にあった可能性はあるが、粘土板文書からはその痕跡はみつからない。ハムラビ法典が出るまでは、王の裁定が中心であっただろう。法が王より上位に来る世界は、独裁の王国からはありえない。クレタは法ノモスを持っていて、各ポリスごとのものであったらしい。エジプトはこの法ノモスに彩られた歴史があるが、王の専制独裁の故、クレタからの輸入だろう。ハムラビ王の法もクレタからの輸入の可能性が高いだろう。全世界の法による秩序の源は、先史クレタやリュキアの文明の遺産である可能性が高い。古代の最深部では、先史クレタやリュキアやシュメールからインドまで達する古代地中海文明のベルトがあったのかもしれない。
4、古代ギリシアとは、かっては遊牧略奪民族であり、戦争民族であった。この専制独裁国家には法は必要なかったのである。
また、ギリシアが民主制の始源であるとの考え方が常識であるが、私はそれはまちがいだと思っている。ギリシア人は基本的には遊牧略奪民族であり、黒海北岸の地に源がある戦争民族のひとつなのである。王が指揮して戦争を行い、他国を征服する民族であった。おそらく最初のギリシア人の作り上げた国はミュケナイ帝国であり、すさまじいまでの専制独裁国家である。
しかし、歴史上すべての民族が戦争民族であるわけではない。それまでの古い平和な種族、インドまで伸びる古代地中海文明の帯の民族すべてが、繰り返し戦争民族に征服されただけである。こうして、戦争民族が覇権を握り、軍事支配が当然であるとの合意ができあがっているのだ。こうして、その流れに乗ったのが、戦争民族の代表、印欧語族であり、ハザール民族などであり、力こそすべてであるという哲学で地球を牛耳ってきたのである。人類の知恵、鉄器、金属器は、かれらによって力の道具、戦争の道具としてスタートしたのであった。鉄剣は力であり、支配の道具であった。この支配哲学では、基本的には法も条約も契約も必要がなかったのである。法の始原は、戦争民族からは探せない。
ミュケナイ帝国は、BC1200のカタストロフイで崩壊した。この問題は海の民の問題でもあり、議論がいろいろある。火山噴火や気候変動による食糧危機が、直接的原因なのであろう。さまざまな民族が飢餓のため海賊になり、盗賊になった。このとき古代の全世界の民衆が略奪の民に変貌したのであった。そして、ヒッタイト帝国、ミュケナイ帝国、ミノア帝国、エジプト王国、キプロス、ウガリットなど、当時のあらゆる国家、都市が暴動の中で崩壊したのであった。
この歴史上最大の謎「BC1200のカタストロフイ」はローマ帝国の滅亡とは比較にならぬほどの世界史上の重要性をはらむが、あまり語られることはないのは、なんとも不思議である。
崩壊したミュケナイ帝国などは、ばらばらの都市国家になり、暗黒時代の後、エーゲ海の古い起源を持つ諸民族に影響されて、同様の都市国家連合をつくり、王は廃れ、民の話し合いで問題を解決する国制に変化していった。当然、議論をする方法についての学問が発達した。ギリシアの演説に関するおびただしい書物はそれを証明している。
しかし、欠けている要素がある。法ノモスだ。プラトンの法律をみても、ゴルチュン市法典をみても、そこには完成された姿の法はあるが、法ノモスの原型はない。
かえって、ヘブライの十戒やトーラ、キリスト教の主のいのりなどには、法ノモスの原型らしきものがある。ギリシア人は、もともと、この法ノモスの原型を持たなかったのである。先史クレタ人が行っていた祭祀の外形だけをまねたのであろう。ギリシアには似たものは例えば、エレゲイアという詩形に残っているのかもしれない。先史クレタ人やリュキア人たちの持っていた伝統的な法ノモスの原型は、おそらくきわめて宗教的であり、倫理的なものであったと思われる。そしてそれは、ギリシア人とはあまりに異質なためギリシア文明にはあまり取り入れられなかったものの一つだったのだろう。
先史クレタ人やリュキア人はその法ノモスがあるがゆえに、お互い争うことのない世界を長い間実現でき、高度な文化を築き得たのだ。戦争によって高度な技術が発達するから戦争は必要悪と考える西洋文明、ヨーロッパ文明とは、まったく異質であったのである。
現代世界の法の支配する秩序、民主制政治形態、これらは外形だけをまねているだけである。雲の上の独裁権力、グローバル悪魔主義者たちは、ヒト家畜たちをほくそえんで見下ろしている。悪魔の手先のマスメディアによって翻弄され、児戯な政治ごっこをしている巨大な家畜群、我々の実像と、リュキア人たちとなんとかけはなれていることか。
5、資料 リュキア Lycia
謎にみちた小アジア南西部ARZAWAの地のリュキア文明をWeb上で見てみよう。
リュキア - Wikipedia検索
Lycia- 英文Wikipedia検索
ヒッタイト知識集
http://ketchup.ciao.jp/member/ht/jisyoa.htm
ゴルチュン市法典 Code of Gortyn
Gortyn code - Wikipedia検索
Gortyn - Wikipedia検索
YouTube動画
Gortyn Crete, The Roman capital 67 BC
http://www.youtube.com/watch?v=jgjX4u0RDoQ
ハムラビ法典- Wikipedia
Code of Hammurabi Wikipedia
YouTube動画
Turning Points in History - Hammurabi's Code of Laws
http://www.youtube.com/watch?v=oDALXORbtR4
リュキア沿岸
http://www.geocities.jp/akahanabad/lycia-reki.html
「一方リュキア人は、クサントス平野に侵入させたハルパゴスを迎え撃ち、劣勢を顧みず大軍に当たって数々の武功をあらわしたが、戦い敗れて市内に追い詰められると、妻子、家財、奴隷をアクロポリスに集め、これに火を放ってそのことごとくを焼いた。そうしておいてから互いに決死の誓いを立て、出撃して戦い、かくてクサントスの住民は一人残らず戦死を遂げたのである。今日リュキア人を称しているクサントスの住民は、八十家族を除いては、その大部分が他国からの移住者である。この八十家族は当時たまたま国内にいなかったために生き残ったのであった」ヘロドトス歴史 1−176
世界を驚かせたリュキア文明のパタラ遺跡。
http://ee-news.seesaa.net/article/157313316.html?1279975308
リュキア文明が世界を驚かせた理由とは。
古代の権力掌握の方法と云えば、財力や武力で勝る国が主導権を握るのが常ですが(現代社会も大して変わらないですが)、リュキアでは平等が徹底されていました。
リュキア文明は、武力を国力の中心にしなかったことです。
周辺諸国からの武力行使もあったでしょうから、全く武器を持たなかったわけではなかったと思いますが。少なくとも同盟国内での争いの形跡は見つかっていないそうです。
遺跡からは棺も多数発見されていますが、副葬品に武器が全くなかったそうです。
小さな国が集まり、問題解決やルールはすべて議会で議論し決定していたそうです。
リュキア文明
http://freebirdinturkey.blogspot.com/2010/07/likya-uygarlg.html
そして、わたしの一番印象に残った話は、リュキア人たちが歴史上で知られる初の民主主義連邦を築いたことと、長いあいだ戦争をしなかったということでした。番組ではパタラに残る〈リュキア民主主義/自治議会ビル〉も紹介され、来年にはそこで国際的な会議が開かれると言われていました。思うに、わたしたちもリュキア人たちから学ばなければいけないのかも、民主主義を。
nekoの夢見
http://neko89.exblog.jp/11657414/
リュキアというのは一つの国の名ではなくいくつもの村、町が『 同盟 』を
組み議会制によって争いが起こらないようしていたそうです。
2011年にこの議事堂?の遺跡で「世界平和会議」?みたいなものが
催される予定だそうです。
6、動画、資料など リュキアLycia
トルコ南西部、 リュキアへのyoutube動画の旅
xanthos
http://www.youtube.com/watch?v=a88LWAUUTyo
Xanthos
http://www.youtube.com/watch?v=qiLsrRoBHU8
Letoon (the sanctuary of Leto)
http://www.youtube.com/watch?v=POhtBkdaJDo
Turkey: Kas, Patara, Xanthos and Ölü Deniz
http://www.youtube.com/watch?v=Hw4TNRQgTag
Turkey: Marmaris, Dalyan and Kaunos
http://www.youtube.com/watch?v=7qGMJ7dIou4
Tlos
http://www.youtube.com/watch?v=mUNIGSBtcnM
ついでにフリュギアのミダス王も見ておこう。
Turkey - Letoon
http://www.youtube.com/watch?v=RmA9lvC5fgc
フリュギアのミダス王の墓、ミダス・シェフリ
http://www.kamit.jp/07_lycia/likia.htm
家型の石窟墓の原型住居を木造で再現した家、リミュラ
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