http://www.asyura2.com/10/bd59/msg/312.html
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歴史は時の権力者により捏造されるのは常識。
大化の改新しかり、明治維新しかり、太平洋戦争しかり。
「藤」は「唐」であり、藤原鎌足=唐カマソ=郭務悰なのである。
マッカーサー司令官よろしく、日本に進駐してきた「唐軍」は、半島人(新羅人)を使い、倭人を支配したのだ。桃太郎(唐)に退治された鬼は「倭人」であった。
時代は下り、明治維新では長州、薩摩の下忍たちがグラバー(ジャーディン・マセソン商会、英国)の手先となって倒幕に奔走した。維新の元勲の正体である。
「二キ三スケ」が引き金を引いた太平洋戦争に負けた後、マッカーサーの手先となったのは、長州=日本陸軍特殊部隊、朝鮮人、被差別の面々。電通、産経、経団連、自民党に結集し、ヤクザ、共産党や左巻きを操り日本を支配した。
大きな歴史偽造を理解しなければ、真実の権力構造や国際関係、経済情勢を理解することはできない。
いい加減に「歴史教科書」や「大河ドラマ」から目を覚まして、八切止夫や鹿島昇、加治将一の功績に注目した方が良い。
ネットゲリラから
http://shadow-city.blogzine.jp/net/2011/02/post_d878.html
■ヤマト国と海洋天皇制
藤原政権は、「藤」つまり「唐」であって、もともとマッカーサーがアメリカの代表で日本を占領しに来たように、唐の勢力の代表が日本に天下って、百済の勢力を手先に使って日本を植民地化したのだ、という説をむかし読んだ事があるんだが、まぁ、マッカーサーはアメリカに帰っちゃうからいいんだが、藤原氏はそのまま日本に居着いてしまって、むしろ唐から独立してしまうわけだ。で、藤原氏以前の支配者であった百済の連中がその手先となって、日本原住民を支配していた。その証拠に、「百済にあらずば、人にあらず」というような傲慢な支配をしていた。もともと唐からの移民は少ないので、自分では支配しきれないわけです。なので、半島人を手羽先に起用するわけだな。なので、「百済にあらずば、人にあらず」というのが略されて「百済じゃない」つまり、「くだらない」となったという、そんな語源があるというんだが、なんせ、本を書くたびに違う結論になる八切止夫なので、アテにはなりませんw
日本原住民史 日本原住民史
価格:¥ 2,940(税込)
発売日:2004-06
ところが、その藤原氏も武士の世の中になると、源氏や平家といった武士たちに駆逐され、源氏が源平の戦いを制して時代は鎌倉時代になるんだが、そうなると今度は、元という強力な国家が大陸にあらわれ、またしても半島人を手先に使って侵略してくるわけです。いわゆる「元寇」だね。まぁ、毎度毎度、日本に攻めてくるヤツというのは、半島人を手先にして攻めて来る。これ、豆知識。つうか、韓半島そのものには、日本を占領するだけの武力も能力も持ってない。あくまでも、背後に中国とかアメリカとか、大国が糸を引いてるわけです。で、兵頭二十八センセエの新作なんだが、
わが国にとって朝鮮半島は「敵国」でしかないということをよく分かってもらうため、わたしはこの本を書いた。 古代ギリシャの史伝家は、〈過去に起きたことは何度でも反復される〉と教えた。まったくその通りである。 日本国の防衛体制を破壊するための半島発の間接侵略は、大和朝廷が成立していらい、ずっと同じパターンが、何度も何度も繰り返されている。これは地理的な必然なのだ。 したがって、朝鮮半島に大規模な地殻異変が起こり、海底に没してでもしまわぬ限りは、北朝鮮やら共産主義やらが忘却されてしまった遠い未来にも、飽きもせずに、幾度も再現するだろう。 この危険に人々が常に自覚的でいられるように、わたしは、この本を書き記したのである。そして日本の天皇制の文化的DNAは、古代南洋の神聖首長であって、半島とは関係ないことも明らかにする。
まぁ、時代柄、ネトウヨが飛びつきそうな惹句が書かれているんだが、ポイントは「古代南洋の神聖首長」というところですね。
海洋天皇制というんだが、さっそく献本いただいたので、その第一章から。
< 海洋天皇制>は、大昔に、太平洋上のあちこちの小島で成立していた。みずからは決して武威を行使することがない祭祀首長を、島の共同体の全員が戴く。その祭祀首長の仕事は、ひとつだけだ。毎年の食物の収穫が充分であることを、暦の節目ごとに、天然の神に祈るのである。
<海洋天皇制>の祭祀首長は、島民のもめごとの仲裁に乗り出したりすることはない。犯罪事件の裁判官になることもない。遠征戦争に乗り出すことも、防衛戦争の指揮をとることもない。そうした一切の俗事とは、生涯無縁に過ごす。
これで思い出すのは、黒人の国なのに何故かマレー人が王様やってたマダガスカルの王政とか、なんだが、まぁ、話が逸れるので置いといて、だ。
もともと、南方から渡来した連中が、海洋天皇制のもとに古代の「ヤマト国(ヤマタイ国)」というゆるやかな連合体を作っていたのだが、そこに遅れてやって来た大陸系の支配者が、そうした既製の支配構造をうまく取り込んで「大和政権」を樹立する。もっとも、人数は極端に少なかったので、武力で制圧するというより、現実生活での『権力』にあまり関心を持たない「海洋天皇制」支配構造をうまく取り込んで、いわば聖と俗の分業制によって、強固ではないが、反抗する者もいないゆるやかな国家を作った、というわけだ。
で、そうした支配構造の確立の中で、それ以前に中国大陸に「朝貢」していた邪馬台国とか、そうした「記録」は意図的に抹殺された。なぜなら、動乱の中国から亡命して逃げてきた「大和政権」の創設者にとっては、過去に「ヤマト国」が中国に朝貢していたというのは、日本の独立という地位を脅かし、中国に攻め込まれる口実を作ってしまうというのを身に染みて感じていたわけです。なので、聖徳太子が「日出ずる処の〜」という手紙を送ったというのは、その象徴ですね。中国が「おまえんとこは、ウチの属国だろ」と言ってきたのに対して「いや、ウチは中国なんか知りません」と拒絶したわけです。
・・・というわけで、実はまだ冒頭の部分しか読んでないんだが、なかなか面白そうな本なので、よろしかったらAmazonでご購入願います。つうか、千代姫モールで売っているTシャツの方もよろしくw
投稿日 2011/02/03 | リンク用URL
コメント
藤原千年栄華の咒法ですなぁ〜。藤原一族は謎が多い方々であります。栄枯衰退は世の常ですが、千年栄えたのは珍しい。「藤原に非ずんば、人に非ず」とは良く言ったモノである。
http://www.monster-sound.com/s/koepie/060907.htm
◆「乙巳の変」の真相◆
中臣鎌足が滅亡寸前の百済王子、扶余豊璋だとするならば、その目的は、故郷である百済の復興と、由緒正しき百済王家の血脈を守り抜くことにあったのではないでしょうか。百済復興には日本の協力が不可欠です。扶余豊璋の来日は、おそらく百済復興のための協力者探しが目的であったものと思われます。
そして日本での名を中臣鎌足と語り、権力欲旺盛で血気盛んな若者、中大兄皇子に白羽の矢を立てたのでしょう。「この若者に取り入って、最高権力者である天皇にまで押し上げることができたなら、日本は必ず百済復興に向かうだろう・・・」このように考えたのです。しかしそこには大きな壁が、立ちはだかっていました。蘇我氏の存在です。律令制導入と全方位外交を柱に、政治の中心に居座る蘇我氏・・・蘇我氏が存在する限り、百済への一国支援など望むべくもありません。そこで鎌足がとった手段・・・蘇我氏を滅亡に追い込み、強引に政権を交代する・・・それが乙巳の変の真相です。
>中臣鎌足の息子である藤原不比等は、「藤原千年」の基礎を築いたと言われています。後の藤原家は、「藤原に非ずんば、人に非ず」と言うほどに、隆盛を極めたのです。その専横ぶりは蘇我氏を上回る非道なものだったようですが、結果その後千数百年、現在に至ってなお、藤原家が高級氏族のトップに君臨しているということは、中臣鎌足の目的は、達成されたといってよいのではないでしょうか?
投稿 もりへー | 2011/02/03 18:10
電波系加治将一先生の、「邪馬臺国=対馬+壱岐連合」って本を最近読みました。
そんな私は邪馬台国「九州→東征→畿内」説に一票です。
投稿 ウイルス製胃腸園 | 2011/02/03 18:18
関裕二というひとの本が読みかけになってるのだけど、タイトルが「藤原氏の正体」「蘇我氏の正体」「物部氏の正体」。野次馬さんはこういう話が好きそうだから(私も好きだ)、興味があればご一読を。
投稿 ピンちゃん | 2011/02/03 20:08
「くだらない」の語源としては、
1:百済じゃない
2:下りもの(京から送られてきたもの)じゃない
という説が良く言われますが、「くだらない」という用法が使われはじめた時代の用法からして、
3:読み下せない=意味がわからない
というのが一番有力な説です。
投稿 | 2011/02/03 20:48
おっとぉー! おっとおっとぉーーー!
部外でこの話を目にする時がついに到来しましたですか そうですか
源氏は元の傀儡とか 豊臣秀吉はサンカの出とか
だから実は徳川幕府までは 常に大陸・半島の亡命政権か傀儡政権に
支配されてたとか
サンカ出身の秀吉の天下統一で初めて日本人による日本支配が成されたとか
これ以上言うと法泥棒になりますので 控えときますが
ま そういう説もある ってことで
ただ、日本人による支配がたかだか500年程度で
それまでは大陸や半島にいいようにされてたのが仮に事実なら
右翼さんがのたまう国柄って その程度のもんじゃん ってことにもなるよね
これこそ 本当に そんなん知らんけど ぷっw
投稿 その日暮らし | 2011/02/03 21:54
天皇が目が細いのは明らかに半島系だからでしょ?
(こう言うと反発する人がいるがww)
本来、日本人はモンゴル系というのだから、
半島系天皇制やめて、一般人にした方が良いです。
60年前 ポツダム宣言 とっとと受諾すれば良かったのに、
無条件じゃなく、半島系の天皇の国体護持だけ守ろうとしたために、広島と長崎に原爆落とされたんだから、
もっとそういう点を自覚して、時代の流れに従って、
そして日本国民の一国民となり
人間としての復権をすべきですね。
・・・・
投稿 今の韓国・朝鮮人と渡来人とはまったく関係が無い。ちょうど今のカンボジア人とアンコールワットを造った民族が違うように。って今川幸雄元駐カンボジア大使が言ってた。 | 2011/02/04 00:18
白江村負けてから、唐の支配下、日本。
しゅうきんぴらが自分の本当の象徴に会いに来るんだからねw
いまだに続くw 唐の頭脳の藤原奥の院。。
始皇帝の頃から徐福ウェルカム蓬莱山。神農本草経上薬霊芝探し。
秦氏の先祖、武内宿禰、その先祖が徐福。始皇帝面倒で逃げてきたか?
その武内宿禰が先祖というがそうじゃない、蘇我氏は唐の輩が来る前にちょいと来ちゃった。でも負けちゃった。
聖徳太子は、秦氏の作り話。
馬小屋で生まれる話は庶民にはおもろいんだろな。
で聖徳太子の仏教崇拝嘘w もっともっと前から来ている秦氏の景教徒隠すため、あえて仏教w
中大兄皇子じゃなくて、本当のキーマンは鎌足だろ。
藤原は秦氏だからw
鎌足=秦氏の唐人 唐人の奥の院。表は李。
戻って遣隋使は隋の分派の一時帰国
遣唐使も唐の分派の一時帰国
隋が唐に禅譲ってカッコになってるしw
出雲と同じ論理だねぇ。
古事記も日本書紀も、唐と比べて低俗な島国で暮らすことになってしまった唐人偉い人が、気がつけばあれよあれよと唐が崩壊しちゃったから、仕方ないから元属国島国でくらしていくために、自分たちがすごい歴史があるんだと歪曲したw
日本人が歪曲したんじゃなくて、元唐人が自分自身で歪曲したお話w
でも唐に依存の大海人皇子はちょっとよくわかんない。
大海人皇子=淵蓋蘇文は違うな。やはり唐の絡みに違いない。
どっちみち中大兄皇子と兄弟であるわけがない。
でもその後天武朝は切れてるし、でも記紀の発案者だから唐人だろ。
でもまたまた天智朝に戻って今も続いて、このへん良く分からん。
奥の院からしたらどっちでもええのかw
だとしたら秦氏藤原に利用された天武朝、出すぎた真似で潰されてw
この世をば・・奥の院には逆らえません。
唐が支配しているから、日本でも荘園やった。同じことやっただけ。
伝教大師最長は、表の留学生。
弘法大師空海は、藤原秦氏の隠密で、結界張って四国剣山天香具山。
店農は昔も今も象徴w 藤原秦氏が奥の院の隠れ蓑w
武士が出てきて、平将門がんばって、権力薄れたけど、
結局薩長使って、徳川から権力奪還、ww2へ
子の絵文麿は、子見てるん利用のワンクッションで聖地奪還だったか?
石原感じも五族協和を利用されたかw
だったりねw
おもろいねw
そんな末裔日本人?
単一国家民族だ?
頭いっちゃってる政治家の言うことだよねw
だからと言って半島の狂った論理は嫌いですw
まとまらず。
投稿 仕事人 | 2011/02/04 00:28
wikiで藤原氏渡来人説を書き込むと速攻で削除されるとかなんとか。。。
投稿 野犬パトロール | 2011/02/04 00:34
天皇が大陸帰化の系統だとかいうなら、戦前の朝鮮併合も満州国樹立も日中戦争も、全部正当化できますよね?
だって元々、天皇の出身国なんだからw
投稿 お江戸 | 2011/02/04 02:20
邪馬台国・・・・南方系民族・・・環太平洋文化圏民族が治めていた国と言う考え方が個人的にしっくりと来る。
環太平洋の海流に乗って、各所へ散らばり、日本においては邪馬台国を建設と。
顔や体に刺青入れたり、縄目などの模様を使ったりしているのは、南米ペルーの先住民族と共通点が見られる。
後に大陸の何処かからやってきた大和民族が支配を強めていき、従う物には融合、反発するものは滅ぼすと言う感じだったんだろうと。
投稿 猫目 | 2011/02/04 08:41
有名な日本騎馬民族説のまとめがあったのでコピペ。
大和朝廷は五胡十六国の17番目なんだって。
江上波夫『騎馬民族国家』、日本誕生は司馬氏のおかげ http://www.3guozhi.com/b/kbm1.html
なぜ大和朝廷を始めたのは、東北アジアの騎馬民族なのか。
1 4世紀後半に古墳の祭られ方が変わる
2 副葬品の変化が、急激すぎて不自然
3 農耕民族は保守的で、異質な文化を拒むはずだ
4 北方騎馬民族の文化が、丸ごと輸入された(人が移動?)
5 馬と牛の数が、いきなり増えた
6 武装した王侯貴族の副葬品が出土する
7 古墳が軍事的な要地に集中していく
8 騎馬民族が、海を越えて征服した例は少なくない
この8つを取っ掛かりにして、まるで拓跋鮮卑の北魏が、中原を制圧したのと同じタイミングで、日本に騎馬民族が新しい王朝を建てたことが説かれている。
大和朝廷と、拓跋鮮卑ら騎馬民族の共通点が、多く指摘される。
氏姓制度の二元制。中央軍を統率する王族将軍。皇位継承のルールと手続き。君主が即位する儀式。婚姻制度。政治と軍事。国力の増強による遷都、被征服人の徙民政策。経済的な政策。服装や冠、鎧と武器、馬具。埋葬と墳墓。
http://www.3guozhi.com/b/kbm2.html
まず再度、江上氏の説を確認します。畿内を征服したのは、応神天皇や仁徳天皇だそうです。
仁徳天皇の在位は、諸説あるでしょうが(真剣に論じる必要もなかろうが)西暦312年から399年だそうです。西晋の統一が終わって、五胡十六国が旬になる時期に重なります。
君主の名前も出自も何でもいいが、とりあえずこの時期に、あれだけ面倒くさい古墳を作るだけの、大きな権力があったのは事実でしょう。
前頁で、江上氏の@〜Gで見たように、この時期から、日本の出土品に変化があるらしいですね。
4世紀の終わりに統一を終えて、5世紀には倭の五王が、南朝宋に使者を遣る。日本史が、この頃に始まったと言えそうです。
騎馬民族だか何だか知らないが、とにかく日本列島に変化があった。これだけは確かだ。
日本は、南朝宋や北魏と並行して生まれた国というイメージで良さそうです。「五胡十六+1国」と言えるかも。
「十六」に確かな根拠がないことは知ってますが、、言葉遊びです
・・・・
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