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西王母の謎
中国の伝説に登場する西王母の国は、小アジアに存在した王国の可能性が一番高い。該当する文明はヒッタイト帝国なのだろうか。
古田武彦 著「邪馬台国はなかった」 (古田武彦 古代史コレクション1 2010年ミネルヴァ書房 ) p 345 補章 二十余年の応答
この中で西王母の問題がとりあげられていて、2種類の西王母が存在していたことが記されている。
中国では、周王朝の穆天子の事跡として東は倭人の朝貢譚、西は西王母への訪問譚が語られている。西王母とは何だろう。その国の名は、條支国(じょうしこく)という。西岸は海に接する国だという。安息(あんそく 、ペルシャ)が服属する国だとも。安息の西に位置する国だ。しかも中国から遥か西方だ。中国が親とも仰ぐべき古代から連綿と続く、輝かしい高度な文明の国が存在したのだ。紀元前2000年以前の伝説から伝承された可能性もある。小アジアに存在した国の可能性が一番大きい。たくさんの国が興亡しているが、いったいどの国だろう。
西王母の條支国は、可能性として紀元前2000年以前では、原八ッティ国、周王朝の年代では、ヒッタイト帝国の可能性が高いだろう。それ以後の可能性は少ない。そのあとはペルシャ(安息国)が覇権を握り、ヒッタイト帝国とエジプトとの間からヘブライ人が出現する。
三国志 有名な魏志倭人伝のあとに、西方の国々の様子が詳述される。條支国(じょうしこく)、 安谷城(アンティオキア)などの記述があり、ヒッタイト帝国の可能性が高いが、その首都八ットゥシャの記述はない。安谷城(アンティオキア)などの記述は、当時フェニキアのウガリット、シドン、ティルスと目と鼻の先だ。フェニキア人とくれば、カリア人だが、このあたりは、カリア人、リュキア人、ルウィア人、フルリ人など民族不詳の混成地帯だ。
その西の大秦国とあるのはギリシアだろうか、ローマだろうか。年代的な整合では先史クレタのギリシア系ミノア帝国か、本土のミュケナイ帝国だろうが、後代のギリシアや、ローマ帝国の可能性のほうが高いだろう。ヒッタイト帝国が多民族国家だったように、先史クレタも混成多民族国家、というより、多民族多ポリスの混成国家がクレタ島文明であり、その東がヒッタイト帝国であったのだろう。ギリシア人のミノス王になって線文字Bの世界からギリシア人のクレタ統一国家ができるのだろう。それはテラ噴火の被災から始まる。津波の高さ250mは当時のすべてを破壊したのだ。そのあとミュケナイ帝国がその地域の覇権を握る。
西王母にふさわしい痕跡はなんだろう。原八ッティ国を追うのが、正しい道に思える。
原八ッティはチャータルヒユクの都市で有名な、小アジアで一番古い文明だ。シュメールのウル・ウバイド文化と同層なのだろう。この文明は絶えず北方から遊牧略奪文明の侵略を受ける。その防御のためカッパドキアの地下都市が作られたのかもしれない。まるで核戦争の跡みたいに、焦熱で焼き尽くされた遊牧略奪民族の徹底的な破壊の跡があり、原八ッティは滅亡した。そして、進入してきた印欧語族であるユーラシアの遊牧略奪民族アーリア人は、ヒッタイト帝国をうちたてる。
ユーラシアの世界は、さまざまな遊牧略奪民族が割拠し、トーナメントの勝ち抜き、勝ちあがりで戦争文化が極限まで高まっていった地域である。武器である弓矢、騎馬、ほろ車などは、ユーラシアの遊牧略奪民族が発明・実用化したものだろう。戦争技術としての戦術、戦略は日進月歩で進歩したにちがいない。新しい武器は、新兵器となって南下した大国を襲ったであろう。こうして、製鉄技術を手にした遊牧略奪民族が、鉄の武器を持って登場し、原八ッティ国を倒し、ヒッタイト帝国を作った。鉄器文明の創始者だ。ヒッタイトは聖書にもでてくるカナンの地にも影をおとしている。ヒッタイト帝国は、頂点に立って支配するのは、印欧語族であるヒッタイト人だが、多くの異民族、異語族を含んだものだったのだろう。旧約聖書にでてくる遊牧略奪民族アモリ人はこのヒッタイト帝国の中のカナン地方に住んでいた人々なのだろう。
原八ッティ人が西に逃れて、クレタ島に渡った可能性もある。クレタ文明も原八ッティ文明もアーリア人の印欧語とはまったく無関係の言語なので碑文があっても解読不能らしい。おそらくその古層と中国の伝説はつながっている可能性もある。
原八ッティが女王国であるかどうかわからないが、母権制が、小アジア、クレタに存在していたことは確かである。リュディアの南のカリア民族が母権制であったことが知られている。このカリアの国が原八ッティの後継国家であることが想像されるが詳しいことはわかっていない。カリア人は、進入したギリシア人に徹底的に滅ぼされた民族で、のちには海賊となって、フェニキア人と一緒に地中海を荒らしまわったらしい。海の民と呼ばれるこの海賊は、ギリシア人、フェニキア人、カリア人などの混成集団だったらしい。
海賊の活動の結果、この地域はすべて壊滅した。ヒッタイト帝国は滅亡し、ミュケナイ王国なども滅亡している。古代地中海世界の崩壊だ。
彼らカリア人の歴史時代の居留地は、位置的には後代のミーレートスであろう。このギリシア哲学の揺籃の地、タレスなどを生んだミーレートスの文化の高さもきわめて高かったようである。ヒッタイト帝国が崩壊した後はペルシャが支配したから、これ以前の出来事だ。
ヒッタイト帝国は男神、女神があった。女神は原八ッティから続く大母神があり、リュディア、エフェソスのアルテミスなどと同じような性格を持つ女神であるが、ヒッタイト帝国のほうは、太陽女神アリンナであり、男神は天候神テシュブであった。この太陽女神アリンナの大祭司が西王母の可能性が高いと考えられる。そしてヒッタイト王の母や娘などがその任にあたり、当時としてヒッタイト王よりも社会的地位が高かった可能性がある。その点、日本でも、太陽女神 天照大神の大祭司である卑弥呼が女王として存在したのである。政治の実権は男王が握っていたが、外交は女神の最高大祭司 卑弥呼が任に当たっていた。このように、祭祀外交権と政治軍事権が明確に分かれた体制は、東西似たようなものであったと考えられる。このように、ハザール王国で有名な二重王政は、どこでもある普遍的な政治体制であったと考えられる。学会ではヒッタイト帝国が二重王政で外交権が祭祀王が受け持っていたという話はない。エジプト王との外交文書には、ヒッタイト男王が登場するだけである。東の倭国の祭司王、卑弥呼、そして西のヒッタイト帝国の祭司王 西王母。だろうか。しかし、年代の整合がはっきりしない。卑弥呼の3世紀はギリシアはローマの属州であり、ヒッタイト帝国などは跡形もなくなっていたのである。
西王母が、ヒッタイト帝国太陽女神アリンナの大祭司であるとするなら、この太陽女神アリンナは先史世界最古の神格である可能性があり、倭国天照大神とも関連する可能性がないとはいえない。倭国の祭司王、卑弥呼と同じような鬼道、冥界とのつながりのある魔術的な宗教儀式を行っていたかもしれないし、後のペルシア時代のマギ僧の行う魔術のようなものがあったかもしれない。ギリシアのデルフォイの予言やエピュラの冥界託宣所などのような、なにか、そういった意味の大きな権威をもっていた可能性もある。
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