http://www.asyura2.com/10/bd58/msg/814.html
Tweet |
世界の真実の姿を求めて! 様ブログ
http://oujyujyu.blog114.fc2.com/
10月22日記事
JAL123便日航機墜落事故の5人目の生存者はどうなったのか。
http://oujyujyu.blog114.fc2.com/blog-entry-1284.html
(以下に全文転載〜画像などは上記URLにて直接御確認下さい。)
http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20100829-01-0901.html
美谷島邦子:罰を与えれば満足などということはあり得ません。刑事訴訟も、事故調も、補償も、すべてがきちんとなされて、はじめて遺族は救われるのです。
現場から運ばれて来る、粉々になった遺体…部分遺体と呼ばれる、その人の指の先だったりを見て、親族は本人かどうであるかの確認を迫られたのです。
美谷島邦子さんと善昭さんは、健くんを指で確認しました。(2時間ドラマの放送)
http://cometiki.web.fc2.com/newpage103.htm
着ていた緑のシャツの切れ端、チケットの切れ端、そして右手、それが家につれて帰った遺体の全てだった。
(美谷島邦子さんの基調講演)
http://www006.upp.so-net.ne.jp/ninzin/story/osutaka.html
美谷島健くんの遺体は指でしか確認できなかった。
美谷島邦子さんと善昭さんは健くんの遺体を必死で探していた。
もしこの写真が美谷島健くんだとしたら、例え遺体(ほとんど無傷であるが)であったとしても、
なぜ自衛隊は美谷島さんご家族にその健くんの遺体と対面させなかったのか。
これはもしかしたら美谷島健くんなのではないでしょうか。(当時9歳)
報道では健くんの遺体は見つからず運動靴だけが発見されたとの事。
この記事の、カメラマンの写真を見ると確かに、運動靴が片方脱げた状態で運ばれています。
髪の毛も写真からは短いように思われる。(事故一ヶ月前の写真の髪の毛も短いようだ)
美谷島さんご家族はこの写真の存在をご存知なのでしょうか....。
是非となるべく多くの人に拡散させて下さい。
この一枚の写真が、もしかしたら日本の闇を全て暴露する端緒になるかもしれません。
乗客名簿の中で10歳前後の男の子は10人もいない。
その中で片方の靴だけが発見されたのは美谷島健くんだけと思うのが自然。
乗員乗客名簿1
http://www.geocities.jp/joox_tv2/jal123/meibo1.jpg
乗員乗客名簿2
http://www.geocities.jp/joox_tv2/jal123/meibo2.jpg
両腕が下に垂れ下がらずにいるということは、生きている証
http://www.asyura2.com/10/lunchbreak43/msg/329.html
985年8月12日の日航ジャンボ123便である。
http://www.youtube.com/user/123ja8119osutaka?feature=mhum#p/u/6/SS5LdOlWXRw
↑1985年8月13日午前11時ごろの写真である。
自分で顔を隠す余力のある生存者の男の子が、自衛隊員によって運び出されている。
4人の生存者が出たスゲの沢付近にて撮影された写真である。
http://img.asyura2.com/us/bigdata/up1/source/2385.jpg
1. 2010年10月22日 09:03:29: tyV2CB1VeA
いつも拝見させて頂いております。
これはもしかしたら美谷島健くんなのではないでしょうか。(当時9歳)
ご存知かとは思いますが、お母様が遺族会のとりまとめをなさっていたと記憶します。
美谷島さんご家族はこの写真の存在をご存知なのでしょうか....。
例えお知らせしても辛い事実を知るのみで、健くんの命は返ってこないにせよ、ご家族は他の誰よりも真実を知る権利があると思うのです。(なんとか伝える術はないでしょうか...)報道では健くんの遺体は見つからず運動靴だけが発見されたとの事。この記事の、カメラマンの写真を見ると確かに、運動靴が片方脱げた状態で運ばれています。
是非となるべく多くの人に拡散させて下さい。
この一枚の写真が、もしかしたら日本の闇を全て暴露する端緒になるかもしれません。
02. 2010年10月22日 19:40:28: 0JIh0H4jtk
この写真を撮影したカメラマンと写真の中の自衛官は今も健在なのでしょうか。
03. GM 2010年10月22日 19:51:06: 5V73fogPrYxxM : t2sLGJSxmc
何故今までこの写真が出てこなかったのでしょう?撮影者が危険な目に会う可能性があったのでしょうか?現在米国の力が弱ったためでたのでしょうか?
信頼できる写真であればぜひご遺族の方に見ていただくことが必要と思われます。
04. 2010年10月22日 20:03:46: zULHRaeqH2
これ間違いなく死体ですよ。
当時「アサヒグラフ」臨時増刊号で、生々しい事故現場写真と死体写真いっぱい見ましたが、こうやって運ばれる子供の死体写真もありました。
すでに息切れてると思います。
>自分で顔を隠す余力のある生存者の男の子が、
それはちょっと余りに深読みしすぎです。
05. 2010年10月22日 21:06:39: E1joLW87kf
>>04
そりゃどこまで行ってもあんたのただの決めつけでしょ。
わからん事を断定するもんじゃ無いですよ。
http://cometiki.web.fc2.com/newpage103.htm
特別企画モノで、単発の2時間ドラマでありました。
物語の内容は、20年前に墜落した、日航機に乗り合わせ、亡くなってしまった美谷島 健くん(当時9歳)の、ご両親の話です。
邦子さんと善昭さんは、警察官の静止を振り切り、必死で現場までの
山道を歩きました。そして、関係者として初めて現場入りしたのです。
その惨状たるや、言葉にし尽くせないものでした。
二人は、健くんの生存の希望を絶たれました。
しかし、現実は更に厳しいものでした。
現場から運ばれて来る、粉々になった遺体…部分遺体と呼ばれる、その人の指の先だったりを見て、親族は本人かどうであるかの確認を迫られたのです。
邦子さんと善昭さんは、健くんを指で確認しました。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/disaster/100804/dst1008040311000-n1.htm
御巣鷹山と生きて25年(中)美谷島邦子
□日航機事故「8・12連絡会」事務局長
■会の名前から「遺族」の文字削る
−−美谷島さんには強さを感じます
美谷島 でも私は泣いてばかりいた。たとえば、事故から8カ月後の第1回の刑事告訴のとき、記者会見で「亡くなったお子さんの名前は」と質問され、健のことを思いだし涙があふれてきて答えられず、トイレに逃げ込んだ。
−−それでも事務局長として立派にやってきた
美谷島 あの刑事告訴の後、遺族みんなの気持ちを集めてがんばらなければならないと思い、「8・12連絡会」の事務局長としての立場ではもう泣くのはやめようと心に決めた。それでも泣いてしまうのだけれども…(笑い)。
《昭和61年4月12日、日航ジャンボ機墜落事故の遺族でつくる「8・12連絡会」は日航、ボーイング社、運輸省(現・国土交通省)の幹部を業務上過失致死傷罪などで告訴した。告訴・告発は計5回、計3万4138人が名を連ねた。しかし群馬県警が書類送検した関係者も含め、全員が不起訴処分となった》
−−「8・12連絡会」は事故から4カ月後に結成していますね
美谷島 最初は会員が集まるだろうかと不安だったが、結成のニュースが流れると、問い合わせの電話が相次いだ。結局、遺族280家族が入会した。しかし事務局を引き受けるメンバーが決まっても、みな仕事を持っているので事務局の私の家で深夜の会合が続いた。私も夫も38歳とまだ若かった。
−−結成のころの集会はどんな様子だったのですか
美谷島 昭和60年12月7日の第1回の集会では、15人が集まったが、最初から最後まで涙をふいている人、「死にたい」と泣き伏す人…と、みな苦しみと悔しさのどん底にいた。しかし、だれもがこのままではいけないと考えていた。そんななか、夫を亡くし、独りぼっちになった女性が話し出した。
−−どう言ったんですか
美谷島 彼女は「事故後、個人葬、社葬、合同葬と何度も喪服を着た。その度に悲しみに打ちひしがれた姿を期待された。でも、もう下を向きながら生きていくことに終止符を打ちたい。しっかりと前を向いて、なぜ、最愛の人が死ななければならなかったかを世に問いたい。会の名前からは遺族の文字は削ってください」と発言した。
−−この発言も感動しますが、結成時から「8・12連絡会」を日航との補償交渉の窓口にしないと決めたことも素晴らしい
美谷島 私の夫は損害保険会社に勤めていた。交通事故などの賠償金をめぐる争いをつぶさに見てきた。夫はそうした経験から会合で「会が補償交渉の窓口になると、金銭や家庭のトラブルに関与せざるを得なくなり、結果的に遺族同士が傷つけ合い、遺族の絆(きずな)を弱めかねない」と発言し、この意見が尊重された。ただ、補償交渉の方法や経過は会報「おすたか」を通じて知らせ、情報交換した。
−−絆が大切なのですね
美谷島 遺族の思いを綴(つづ)った文集「茜雲(あかねぐも)」も発行している。520人の肉親が事故機に乗り合わせて32分間の無念と苦痛のときをともに過ごした。残された私たちは520人が一番言いたかったこと、つまり事故原因を解明し、同じ悲劇を繰り返さないよう再発防止を訴えていくこと。それが最大の絆になると考えた。(論説委員 木村良一)
(以上、転載終了)
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
▲このページのTOPへ ★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ58掲示板
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。