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聖潔の恵み再考
聖句 ペトロ一1:15-16
「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。『あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである』と書いてあるからです」
マザー・テレサが記者会見に出席したとき、ひとりの新聞記者がこういう質問をいたしました。「マザー。あなたは自分のことを、聖人様だと思っていますか?」
マザー・テレサは、こう答えました。「あたしがですって? あたしだけじゃありません。あなたも、聖人様になるよう、神様から招かれてるんですよ!」
今日の聖書は、わたしたちにこう告げております。「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」
神様が聖なるお方である。その神様に救われたわたしたちは、ただ単に救われるというだけじゃない。わたしたちは聖なる者とされる、というのであります。まったく驚くべきことでありますが、わたしたちが、このわたしたちが、ここにいるわたしたちが、聖なる者となる。あのマザー・テレサの表現によれば、わたしたちが聖人様になる、ということであります。
わたしたちだけじゃない。すべての人が、おおよそ人間という人間は、全部、聖なる者となるように、神様から招かれているっていうんです。全部です。わたしたちが、だれかれ差別なく伝道し奉仕しなきゃならんというのは、ここに理由があります。すべての人が、聖なる者になるように、神様から招かれている。これは、エフェソの信徒への手紙なんかにずいぶんはっきり書かれていることですけども、すなわちこうです。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」(1:4)
ここは、ほんとうにまじめに読んだら、ずいぶん大変なことが書いてある。わたしは1965年生まれの人間ですけれども、1965年どころの話じゃない。天地創造の前から、神様はわたしたちを愛していてくださっている。それも、ただ単に愛する、かわいがる、おおよい子だと、愛でてくださるというのじゃない。神様は、神様の御目の前で、このわたしたちが聖なる者、汚れのない者になるようにと、キリストイエスにおいてわたしたちを選んでくださったと言うんです。
天地創造の前から、神様は、キリストイエスによって、このわたしたちを聖なる者にしようと、心を決めてかかっておられる。これを「神の救済意志」と言いますけども、これは、神が意志していることなんだから、その性質上、必ず成就し実現するはずのことであります。なぜなら、神様が心に決められたことっていうのは、まあだいたい、とか、たぶんおそらく、とか、せいぜいまあ、とか、どれほどのもの、というのではなくって、必ず絶対そのようになる、ということ。これが、神の意志だからであります。
さて、神様は、わたしたちを聖なる者にしようと意志していたもう。これは、わたしたちの身の上に、必ずそのようになる事柄であります。だから、わたしたちは、自分が「聖なる者」になるっていう問題、この「聖潔」の問題から、全然無関係であるっていうことができない。無関係どころか、これはわたしたちが絶対逃れることのできない、自分の人生、自分の生命の本質に関わっている問題であります。なぜって言うに、それが、わたしたちが聖なる者になるっていうことが、天地創造の大目的だからであります。
さて、わたしたち救世軍というのは、キリスト教会の中でもウェスレー派、あるいは、ホーリネス派と言いまして、「聖なる者」にされるっていう、この「聖潔」の問題につきましては、どこよりも大事にして来たグループであります。救世軍は「きよめのグループだ」なんて言い方がされたりいたします。
救世軍の創立者ウイリアム・ブース大将は、ことのほか「聖潔」の経験を重んじた人でありました。あるときブース大将は、どうしても自分がきよめられなきゃならない、そうして、きよめについての深遠なる思想、深遠なる啓示、深遠なる哲学を神様から授からなきゃならない、そう心に思い定めまして、ペンとノートを持って、祈りの部屋に閉じこもりました。そうして「神様、わたしをきよめてください」と熱心に祈り求めましたところ、ほどなくして、きよめがやってまいりました。そうしますと、大将は喜び踊り出て、ペンとノートを捨ててしまったそうです。なぜかというに、きよめがやって来たとき口から出たのは「おお、グローリー、ハレルヤ! おお、グローリー、ハレルヤ!」という言葉だけであって、その喜びたるや、言葉で言い尽くすことが出来なかった。このようにブース大将が経験したのは、神様の限りなく大いなる愛であります。巨大な神の愛の波が、小さな罪人であるわたしたちをまったく飲み込んでしまう。すると、わたしたちの罪の汚れは一瞬のうちに、ふっとんでしまって、わたしたちの心の中は、ただただもう神様の愛だけ感じられるというふうである。ブース大将は、ですから、きよめのことを「まったき愛」と呼ぶこともいたしました。
聖潔の教師と言われましたサムエル・ブレングル中将も、若き青年時代に、やはり一生懸命きよめの恵みを祈り求めたときに、じきなくして願ったとおり求めたとおり、それがやってきた。きよめを経験したとき、若きブレングルもまた「まったき愛」に満たされたのです。ですから、すぐ外を歩き回ると、そこらへんにいる人間に愛情を感じたというだけでない。鳴いている小鳥や、道を行く馬車馬にまで喜びを感じ愛情を感じるというふうでありました。
すべての生きとし生けるものに深い愛を感じるようになるという、これはなぜかというに、大きく深い神様の愛が、このわたしたちの小さな心に流れ込んで、わたしたちの心を神様の愛で満たすからです。そういうわけで、神様がすべてを愛していたもうように、わたしたちも、すべてを愛するようになるのです。
わたしは先週イギリスのサンベリーコートで5日間にわたって開催されました万国神学倫理シンポジウムに出席してまいりました。まさにこの「聖潔」という問題について、それが、わたしたち救世軍というグループにとって、まっすぐとおった真の柱であり、背骨であり、ゆるがない土台である、ということについて、神学的な方面からあれこれ検討して来たわけですけれども、そこへは世界20か国から救世軍の神学者49人がつどっておりました。その中に、ドラ少佐という、この人はインド北部のヒマラヤ連隊の連隊長ですけども、救世軍士官でありながら自分のテレビ局を持っており、自分のテレビ番組を持っており、あんたの説教のビデオを送ってらっしゃい、わたしのテレビで放送してあげるから、というふうな人でありましたけれども、ドラ少佐が自分の「聖潔」の経験を証しして言うのに、それは「まったき愛」に満たされることであった。まったき愛に満たされた結果、しばらくなんにもしゃべることができないほどだった。そうして、蚊やハエにも愛情をおぼえるようになった。だから蚊を殺さない。そう証ししておりましたけれども、その横からウイリアム少佐という、これもインド人の士官でありますが、「蚊も殺さないというが、おまえさんはいまこうしてローストビーフを食べているではないか」と茶々を入れて笑いを誘っておりました。蚊やハエをどうこう、というのは別にいたしましても、わたしたちは、あの大きな神様の愛の波に自分が飲み込まれてしまうときに、世界に対する自分の印象・感覚がずいぶん違ってしまう、ということは事実であります。昨日までは自分は、世界に対して、周囲に対して、あれやこれや不平、不満、不満足、怒り、いらだち、嫉妬、憂慮、不安、疑念、疑惑を抱いて生きていた。これが世界に対する自分の印象・感覚であったんだけれども、この「聖潔」という神の愛の大いなる波に小さな自分がすっかり飲み込まれてしまったあととなると、世界はまるで違って見える。蚊やハエにまで愛を感じるというほどに世界が変わる、いや、自分が変るのであります。
神の愛に満たされた人間が、まったく変ってしまうという、この驚くべき出来事について、メソジスト教会の創始者ジョン・ウェスレーは、日記の中に詳細で膨大な記録を書き残しております。救世軍創立者ブース大将は、非常に大きな影響をウェスレーから受けておりましたから、ウェスレーは救世軍の元祖と言うことも出来るぐらいであります。ところでウェスレーという人は、35歳から88歳まで50年以上にわたり、ずっと馬に乗ってイギリス全土をめぐって説教した人であります。そうしてウェスレーは、イギリス各地の行く先々で、臨終の床にある人たちを看取るという、看取りのわざをした人でありました。多くの人々の臨終の場面において、いったい何が起きるのか。それをウェスレーは自分の日記に克明に記録していたんであります。
どこそこに病気で死にかけている人がおります。先生、祈ってやってください。そういう知らせを聞いてウェスレーが出かけて行きますと、はたして病人が臨終の床で苦しんでおります。それはただに病気のもたらす痛みが苦しいというのでない。自分が死んだらどうなるか。なぜ自分が死ななきゃならないのか。過去のあの罪、この罪の当然の報いとして、今こうして死ななきゃならないのか。そういう精神的の苦しみ、霊的の苦しみ、霊的痛み、スピリチュアルペインというべきものでもって、苦しんでいるのであります。この霊的苦しみ、霊的痛みたるや、水を飲んだって薬を飲んだって少しも和らぐもんじゃない。霊的な問題から来るところの痛みだからであります。しかし病人は、臨終の床での葛藤を通って、ついに最後の一点にやってまいります。すなわち、自分でもがきあばれることをまったく断念して、もうただ主イエスキリストを信じて、信頼して、このお方に自分をおゆだねするほかないんだという、この信仰によるしかないという最後の一点にやって来るのであります。そうすると、ウェスレーの観察によりますれば、突然病人の顔に喜びの光が輝く。まったき平安が病人を包んでしまう。弱った病人が病床で証しをいたします。「わたしの罪はイエス様の十字架の血潮によってまったくゆるされ、きよめられました。わたしの心の中には、ただ救い主への愛があるだけです。わたしはいま、ただ神の愛しか感じません。主をほめたたえます!」 こういうふうな証しであります。そうしてのち、病人は静かに息を引き取り、天国へ旅立って行くのであります。
こういう経験を、ウェスレーは「まったき愛」と呼んだのでありました。最後の一点において、もう自分でもがきあばれることをまったく断念して、もうただ主イエスキリストを信じて、信頼して、このお方に自分をおゆだねするほかないんだという、信仰によるしかないんだという、最後の一点にやって来ることによって、突然「まったき愛」に満たされるという、そういう経験であります。そういう意味で、これを「転機的経験」あるいは「危機的経験」とも言うことができるでありましょう。
さて、ウェスレーは、このように考えたのでした。わたしたちが、こういう「聖潔」を受けるためには、わたしたちが、こういう「まったき愛」を経験するためには、死ぬまで待たなきゃならないんだろうか? 臨終の床で息を引き取る直前にならないと、「聖潔」を受けることは、できないんだろうか?
そうじゃないだろう、とウェスレーは考えたのです。「まったき愛」は、「聖潔」は、どういうふうにして与えられるんだろうか? それはただ信仰によって与えられるんであります。すなわち、自分は自分を救うことができない。自分で自分をどうすることもできない。だからもう、無駄にもがきあばれることをまったく断念して、ただひたすらイエスさまの十字架の血潮が、自分の罪をゆるしきよめてくださるよう、信じるほかない。この「信じるほかない」という信仰によって、信仰のみによって、信仰だけによって、「聖潔」の経験がやって来るのであります。神は信じる者に「聖潔」を授けたもう。
そうであるならば、これは死ぬより前に、しかも、死ぬよりずっと前にだって、受けることができるはずのものじゃないか。そうウェスレーは考えたのです。死ぬより1か月まえに「聖潔」を受けることは可能だろう。いや、死ぬより1年前に「聖潔」を受けることは可能だろう。いや、死ぬより10年前に「聖潔」を受けることは可能だろう。いや、60歳のうちに、50歳のうちに、40歳のうちに、30歳のうちに、20歳のうちに、10歳のうちに、「聖潔」を受けることだって可能だろう。なぜなら、神は信じる者に、ただ信じる者に「聖潔」を授けたもうのであって、信じるということ以外に、何も条件が無いからです。
主イエスキリストは言いたまいました。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい、そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(マタイ7:7-8)
ただ信仰によって、信仰のみによって、まったき愛、聖潔の経験、聖潔の祝福、聖潔のお恵みが、わたしたちに与えられるのであります。
[どういう信仰によって、聖潔のお恵みが、わたしたちに与えられるんだろうか。主イエスキリストの十字架を仰ぐ信仰によって、与えられるのであります。
わたしたちは自動車に乗るときに、2本の鍵を使うわけではない。ただ1本の鍵を使うだけです。同じ1本の鍵を、ドアを開けるために使い、同じ1本の鍵を、エンジンをかけるためにも使うのです。
信仰もそれと同じです。2つの信仰があるわけじゃない。十字架につけられた主イエスさまを仰ぎ見るという、ただ1つの信仰があるだけだ。しかし、この1つの信仰が、2つの働きをするのです。
第1に、わたしたちがクリスチャンになるときに、こういうふうに信じたのだった。「神様、わたしが過去に犯した、あの罪、この罪のために、イエス様が十字架にかかってくださって、わたしの罪を全部償ってくださったと信じます。どうかわたしをゆるしてください」 これがただ1つの信仰の第1の働きであります。その結果、わたしたちはお恵みにより救われます。
第2に、わたしたちは「聖潔」を受けるときに、こういうふうに信じるのであります。「神様、イエス様が十字架にかかってくださったとき、このわたしもイエス様に結び付けられて、イエス様の中で、イエス様と一緒に死んでしまったんだと信じます。そうして、復活のイエス様が新しいわたしを生きてくださるんだと信じます。どうかわたしをきよめてください」 これがただ1つの信仰の第2の働きであります。その結果、わたしたちはお恵みによりきよめられます。]
巨大な神様の愛の大いなる波がわたしたちの心に注がれてまいります。わたしたちの心を満たす、この神の躍動する愛を、新約聖書は「聖霊」と呼んでおります。神の愛であるところの聖霊が、わたしたちの心を満たしてくださる。
そうして、いまや聖霊が、わたしたちの人生の歩みを導いてくださいます。
サンベリーコートでの神学会議の最終日に、万国教理会議の議長であるウイリアム・フランシス中将が、こういう説教をなさいました。
「わたしが友だちと一緒にセスナ飛行機に乗ったときのことです。3人しか乗れない小さな飛行機で、操縦席に友だちが座り、副操縦席にわたしが座り、その後ろへもうひとりが座りました。小さな飛行機が空に飛び上がると、友だちはわたしにこう言いました。『やってみるかい?』 わたしはおそるおそる操縦桿を握りました。友だちはいいました。『簡単だよ。引くと上昇する。押すと降下する。引くときも押すときも、ゆっくりやるんだ』 わたしは操縦桿を引きました。ぎゅーんと急上昇しました。友だちは言いました。『ゆっくり押すんだ』 わたしは操縦桿を押しました。ぎゅーんと急降下しました。しかし、友だちは操縦席で操縦桿を握りながら、ちゃんとコントロールしたので、飛行機は墜落せずにすみました。友だちは言いました。『さあ、またやってごらん』 友だちはわたしの横にいて、一緒に操縦桿を握りながら、わたしに助言し、指示し、助けてくれたので、ついにわたしは飛行機を安定して飛ばせるようになりました。新約聖書で聖霊はパラクレートスと呼ばれています。その意味は、わたしの横にぴったり寄り添って、助言し、指示し、助けてくれる人、という意味です。聖霊は、私の友だちに似ています。わたしたちが聖潔の経験をすると、聖霊がわたしたちの心の中で、人生の操縦桿を一緒に握ってくださいます。わたしたちが自分の人生をどう生きるかを、聖霊が助言し、指示し、助けてくれるのです。『やってごらん』 わたしたちは失敗するかもしれない。しかし、聖霊はおっしゃるのです。『さあ、またやってごらん』 また失敗するかもしれない。しかし聖霊はおっしゃるのです。『さあ、またやってごらん』 こうしてついにわたしたちが神様の御心に沿って人生を歩むことができるようになるまで、聖霊はわたしたちのかたわらにぴったりと寄り添って、助言し、指示し、助け、導いてくださるのです」
そのような聖潔のお恵みは、すべての人に備えられているものです。だからこそ、わたしたちは、神様の招きにこたえて、このお恵みを自分のものとして受け取るべきであります。
ジョン・ウェスレーの弟のチャールズ・ウェスレーは生涯にわたって9000曲の讃美歌を作詞しました。1日に1曲を作曲した計算になります。そのチャールズ・ウェスレーの歌の多くは、聖潔の祝福に関するものです。今日の三番目に歌った救世軍歌223番の第3節と4節は「まったき愛」としての聖潔の祝福をうたっています。
まことのさちの いずみをくませ
世のたのしみを とおざけたまえ
聖潔のお恵みを受けるということは、病気によっても死によっても奪われることのない、ほんとうの幸福を得ることであります。
主のかぎりなき 愛のとみこそ
たぐいもあらぬ わがたからなれ
使えば磨り減り短くなり古びて壊れてしまうものが、どうして宝だといえるでしょうか。しかし、神様の愛は、どんなに注がれても注がれても、減ることも枯れることもありません。むしろ、注がれれば注がれるほど、いよいよ豊かに溢れるて来る、限りのない愛であります。それこそが、ほんとうの宝です。
主の愛こそは もとめにあまれ
主の愛こそは わがすべてなれ
ここに聖潔の祝福を受けた人の境地がつづられています。神の愛は、わたしたちを飲み込んでしまうほどに大きいので、ついにわたしたちは、神の愛の中で、自分の求めを忘れ、自分自身を忘れてしまうほどになります。その結果、神の愛が、わたしのすべてとなります。それが天国の究極の喜びでありましょう。
どうか、わたしたちにもこのような経験が今日可能とせられることを信じて、祈り求めたいものであります。
祈り
天の父なる神様。あなたは天地創造の前から、わたしたちをキリストイエスにおいて聖なる者にしようとお選びになり、わたしたちに「聖潔」の恵みを与えるために、御子イエスの十字架と復活のみわざを備えてくださいました。それゆえ、いま、「まったき愛」の祝福が、わたしたちのすぐと手の届くところにあり、それはただ信仰によってのみ与えられることを、感謝いたします。どうか、そのような信仰を、わたしたちにお授けください。主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン >>
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