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元気の出る聖書の言葉2010年9月11日
彼らは、わたしの民に、聖なるものと俗なるものとの違いを教え、汚れたも
のときよいものとの区別を教えなければならない。エゼキエル書44:23
+++
人は、尊いものと尊くないものをどのような基準によって区別しているでし
ょうか。多くの場合は、金銭的価値、あるいは、個人的な思い入れによって
それが決められます。
それらは、人の相対的な尺度の範囲の中にあるもので、人が尊いと決めたら
尊く、尊くないと決めたら尊くないと分類されることになります。
人のこのような相対的価値基準は、聖と俗、清さと汚れの理解にも及んでい
ます。「汚れた思いに支配されることが少なくなってきているから、少しず
つ清くなり、聖なるものとなりつつある」と感じたりするのは、そのことを
表しています。
ところが、聖書によると、聖と俗、清さと汚れの間には、絶対的な断絶があ
り、人が努力や精進によって少しずつ俗から聖へ、あるいは汚れから清さへ
と変化していくようなものではありません。
聖、清さというのは、神様だけが持っておられる絶対的なご性質で、人間に
は本来備わっていないものなのです。
人は、神様の聖と清さに触れられることによってのみ、聖なるもの、清いも
のとされるのです。
人は、神様の聖と清さを侮ってはなりません。これを侮り、不用意に、ある
いは不遜な思いのまま近づいて滅んでしまった人々がいると聖書は告げま
す。
神様がお決めになった方法によってのみ、人は聖なるもの、清いものとされ
るのです。
神様は、主イエスの御言葉、十字架の血、聖霊を与え、これを受ける者を聖
なるもの、清いものとなさるのです。
しかし、私は、聖なるもの、清いものとされるだけの価値があったのでしょ
うか。そうしなければならない理由が神様にあったのでしょうか。そうとは
思えません。
一方的な愛と恵みによって、主はご自身の性質を私に与えようとなさったの
です。
心からあなたのために祈っています。私のためにも祈ってください。
+++
祈り9/11
天のお父様。尊い御名を心から誉め讃えます。今日もあなたの溢れる恵み、
測り知ることのできない慈しみの中に置いて、御前に引き出して下さったこ
とを感謝いたします。
主よ、この汚れた者に注がれる、あなたの圧倒的な御言葉、十字架の血潮、
聖霊を感謝します。どんなに清くなろうとしても清くなれないこの私たちを
清め、聖なるものとなさるのは、あなたの聖です。
あなたの聖に触れられる時、古い自分が消えてなくなること、あなたの御恵
みを感謝します。
日々、汚れが身にまとわりつく私たちですが、あなたの御言葉に耳を傾け、
あなたの血潮を受け、聖霊に満たされて歩むことができるよう、助けて下さ
い。
感謝して、尊いイエス様の御名によって祈ります。アーメン。
岩本遠億
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