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神の原理(千葉邦雄) http://www.asyura2.com/10/bd58/msg/103.html
千葉邦雄のニュースの落とし穴 ■私たちを取り囲む現実の正体 私たちが生きている視覚的空間は、五感がとらえた仮想の世界で、スクリーンに映った映像のような世界なのです。つまり嘘の世界ですから、何事が起きていようが、ふりまわされ、意気消沈する必要はないのです。幽霊を本当に存在すると思えばこそ、その恐ろしさを発揮するのです。それは、恐怖心が自分勝手に描き上げた錯覚だと見抜けば、すぐさまその恐ろしい姿は、跡形もなく消滅してしまうのです。
私たち現代人の生活環境は、自然の草木ではなく、人工的に加工されたニュースや情報、消費者を洗脳するがための大企業の洗練されたコマーシャルの洪水の波に、朝から夜眠りに就くまで包囲され、資本主義社会で生きる私たちには、ほとんど逃げ場がない。それどころか、それらの無意味な情報を無視して拒絶したりすると、世の中の大きな波に乗りそこなう結果となる。
すると、あっという間に情報の容赦ない無慈悲な波間に呑み込まれ、溺れて、私たちは、恐怖に打ちひしがれた臆病な負け犬となり、下手をすれば、ひとりぼっちで死体となって、情報の波打ちぎわに横たわる結果となりかねない。資本主義社会で、消費者として生きるしかない私たちは、そんな風な恐怖に常につきまとわれて、安らぎのない生活を強いられ、孤独に生きなければならない。
■霊的なるものへの目覚め
私たちは、人生に絶望し、疲れ果て、ボロ布になったような気分に襲われる。中国の存在が、モノ造りの利益体系の根幹を揺るがすことで、労働者の低賃金化が加速し、かつて日本の豊かさの象徴であった中産階級が崩壊する。大企業の果てしない利益至上主義と、消費財の低価格化が、中小の経営者の自信を奪い、ゆとり教育の中で育ったにもかかわらず、激しいデフレの波に呑み込まれている若者は、給料が安く、結婚や車を持つことさえままならない。先の見えない生活に押しつぶされて、孤独感を感じ、疲れ果て、愛に飢えている。
そんな具合に、どん底に沈んだ悲しみの底の底のところで、私たちは打ちひしがれ、「どうして自分だけこんな目に遭わなきゃならないの?どんな悪いことをしたって言うの?」と、運命を呪い、暗い絶望の底に沈む。それでも好きな音楽を聴いたりして、それなりに気持ちが静まってくると、ふと誰かが、自分をじっとやさしく見つめてくれているような気配を、ふと感じたりする。
言葉では、うまく表現できないけど、誰かが優しく包み込んでくれているような感じなのです。それなりに、自分も何度か艱難にぶつかったことがあるから、他人事ではない。それは、私たちが物質的な肉体ではなく、目には見えないけど、オーラのようなものに包まれた霊的存在だ、と気づく瞬間なのかもしれない。それは表面的な意識の存在、いつもの自分の自我ではない何か、隠された巨大な原理に触れた瞬間、と表現してもいいかもしれない。もっと単純にいえば、神の存在に気づいた瞬間なのです。
■本当の自信の発見
私たちが、大きな危機に直面した時、自分の無力さを思い知らされ、死に物狂いのストレスの渦巻きから救いを求めて、すべての全てである生命の原理の方に、ようやく、私たちのこころを振り向かせる。そんな条件が整ったときに、不思議な安らぎの光の膜に包まれ、至福に満たされる。今までは気づかなかったけれど、いつも私たちを常に見守り、生かし続けてくれていた全能の力に身を任せた瞬間、思いがけず真の自信を確立する機会が訪れる。
わがままな自我を放棄した瞬間、恐怖や苛立ちから開放され、今まで感じたことのない充実感と、生きている喜びに包まれる。私たちは、いつものように孤独ではなく、宇宙のすべてとつながっているという実感が、魂の底の底から沸きあがってくる。手に負えない窮地が、私たちをして、自我というタマネギの皮を最後の一枚までむいて、完璧に自己否定されたとき、神の偉大な力が内部からあらわれてくる。
自分の死すべき運命の弱さを自覚すると、私たちは、真の自信を発見する。神に振り向いて、神の無限の力にひざまずいた瞬間、ありきたりの凡庸な人生の牢獄から、ついに自由になる。独りよがりな自我の敗北が、私たちをして、無限の可能性の世界に導き、現実の艱難や障害に立ち向かう真の勇気を獲得することが可能となる。
■こころの安らぎを求めて
私たちの中にある生命の根源、五感では感じることはできない霊的な不思議な力、そんな風な宇宙の無限のエネルギーと一体となることで、私たちは、言わば「神の子」となるのです。「神の子」となることで、ライバルに負けるかもしれない、もしかしたら地位や財産や愛を失うかもしれない、という恐怖心から開放されて、私たちは、本当の心の安らぎを手に入れることができるようになる。
私たちが、人生に成功して、財産や大きな家を手に入れようとするのは、究極のところ、皆幸せになりたいのです。幸せになって、こころの安らぎを手に入れたいのです。つまり、そういうことなのです。最後のところは、皆同じ結論に至るのです。幸せを求めて、私たちはあらゆる場所に出かけてゆき、あらゆる地位やお金を求めて、ヘトヘトになるまで夢を追いかけてきたのに、何故か、幸せは、いつも蜃気楼のようにはかなく消えてしまったのです。
チルチル・ミチルの青い小鳥のように、幸せは、外の世界には見当たらないのです。ないところに幸せを求めても、ないものは、あくまでないのである。私たちの五感によって認識している現象や出来事は、心の想いがスクリーンに映った虚像であり、シンボルに過ぎないのです。五感がとらえる世界は、すべて幽霊の世界であって、本当は存在しないヴァーチャルな世界なのです。本当の幸せは、外界にはなく、自分の中の霊的な世界にしか存在しないのです。
■不運こそ、幸運の始まり
こころが霊的になったとき、初めて私たちは平安に満たされ、幸せになることができるのです。私たち人間は、肉体を中心とした物質的存在ではなく、あくまで霊的な存在なのです。その自覚が強くなる度合いに従って、私たちのこころは霊的になる。こころが霊的になれば、私たちの生活は自然に安らぎ、ついに幸せな世界が、自分のもとに訪れてくるのです。
こころが霊的になるということは、無限の供給、無限の愛、無限の知恵に包まれていることを悟ることであり、それと同時に、私たちが、神の無限力に、いついかなる時も完全に守られている、という自覚を持つことになる。どんなに不幸な境遇に見舞われようとも、神にこころを振り向けている者は、あらゆる出来事の奥に潜んでいる「神の原理」が支えてくれている、という真の自覚を持つことができるのです。
その自覚によって、「忍耐をもて主を待ちのぞむべし。主は汝らの魂の願いを叶え給わん」という聖書の訓えどうりのことが、実現されるのである。宇宙の原理、つまり神はすべてのすべてであり、存在のすべての元であり、それゆえに、神のみが唯一の力である、という自覚が自分の中に生れる。人間であれ、国家であれ、絶体絶命の窮地に追い込まれ、絶望した時、人間の奥にある霊的なものの原理に振り向くことになる。思いがけず神に振り向くことで、私たちは、大いなる自信と安らぎを、ついに手に入れることができるようになる。
だとしたら、不運こそ、幸運の始まりといえる。私たちは、いつも神に見守られ、どんな時にも、見捨てることなく愛されている。だとしたら中国の急激な成長は、日本にとって進化するチャンスでもある。中国の経済成長は、人類が望むものを与えているから可能なのであり、日本も世界に奉仕できる国家に常に進化して、たゆまず世界にサービスを提供していける民族として成長していくしかないのです。それが神の原理に沿っていることになる。
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