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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成21年(2009年)11月24日(火曜日)
通巻2783号
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カブールは「中央アジアの巴里」と呼ばれたこともあった
アフガニスタンの「闇の奥」は深い闇
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欧米がアフガニスタンへの兵員増派を躊躇(ためら)いだした。
民主化のために犠牲を恐れず、経済的、人道的支援も展開してきたが(というのが欧米のミッション意識だ)、アフガニスタン大統領選挙は不正、買収。結果が信じられず、米国の圧力で上位二人の決選投票になった。
米国はカルザイを昨秋から見限り、代替候補を探してきた。バイデン副大統領が、カルザイを嫌いなのだ。
しかし対立候補のアブドラ元外相が不出馬を宣言し、辛うじて再選された大統領のカルザイは、じつはカブールでさえまったくの不人気。カブールのインテリの多くは棄権した。
最初からボタンの掛け違いばかりだった。
79年にソ連がアフガンに侵攻した直後から、米国は一転してパキスタンに軍事援助を拡大し、CIAが秘密工作を各地で展開、反ソ連ゲリラの「ムジャヒデン」を英雄に祭り上げて、パキスタン経由で武器を供与するなど大々的なテコ入れした。
この間にCIAがオサマ・ビンラディンにも資金を与えたのは周知の事実である。
▲米国の誤算は凄まじい
思い出されたい。シルベスタ・スタロンーンの『ランボウ・第三弾』はアフガニスタンのゲリラを助けに行く物語であったことを。だがムジャヒデンは地方軍閥とゲリラの野合であり、統一された軍事組織ではなかった。
米国は戦術的優位にたたせようとムジャヒデンに虎の子の戦場兵器=スティンガー・ミサイルを多数供与した。
だからソ連の武装ヘリコプター「ミル・ハインド」は墜落ばかり。捕虜になったソ連兵は皮を剥がれ、目をくりぬかれ、性器をもがれ、残酷に処刑された。この残虐性は大英帝国が数万の軍隊をアフガニスタンへ入れて、全員が殺されたときと同じ残酷な風景だった。
ソ連は劣勢に立たされ、国内には厭戦気分が横溢する。
モスクワでは母親があつまって「息子をアフガニスタンにはやらせないで」とデモ行進があった。
ゴルバチョフはアフガンからの撤退を決意し、89年に撤退するのだが、その後、ソ連傀儡のアミン、ナジブラでは統治は不可能だった。
▲ムジャヒデンは反ソという目標を達成したあと地方軍閥やギャング団に分裂
ソ連撤退後、ムジャヒデン各派には「反ソ連」という統一目標がなくなり、部族別に分解した。地方軍閥にもどったのだ。
タジク人は「北部同盟」により、ウズベク人は北部で軍閥を率いて自治を行い、ハザラ人は集散離合、政権に近寄ったり、離れたり、あげくに首相になったヘクマチアル(ハザラ人)はカブールを攻撃した。
要するに軍閥が割拠し、混乱の極みが続いていたのだ。
多数派のパシュトンは部族によって分裂しており、お互いが対立し、しかし拝外主義的行動をとるので、イスラム神秘主義に基づくタリバンが急速にアフガニスタン全土に拡大する精神的土壌ができていた。
パシュトンの軍閥の背後にはパキスタン軍情報部が関与していた。パシュトンを軍事的に強くすることはパキスタンの安全に繋がるからだ。
ソ連撤退後、90年代前半の「北部同盟」主体のアフガニスタン政権は内ゲバを繰り返し、この間にタリバンはカブールを囲むほどに成長していた。
1996年にタリバンはカブールを陥落させた。タリバンは、それまでのアフガニスタンの習慣を覆し、長老政治、部族会議よりイスラム法の厳格な適用を強制した。
女性はブルカを着用し、学校へは行くな。たこ揚げ、サッカーの禁止など。
タリバンvs北部同盟の対立図式が生まれ、欧米が比較的に支援した北部同盟のマスード司令官は、暗殺された。
2001年、「911テロ」に襲われた米国は急転直下、アルカィーダ殲滅作戦を開始し、アフガニスタンの軍事基地にトマホークミサイルを多数お見舞いした。
アフガニスタンに米軍が介入を始めると、タリバンはたちまちにして雲散霧消し、カブールには欧米に支援されたカルザイ政権が誕生をみる。
欧米は当面の目標が達成されたとして、とくに米国はイラク戦争に没頭し、アフガニスタンはNATOに任せた。
▲カルザイは傀儡を演じたのか、本当の傀儡なのか
ところがカルザイ政権の実態とは、パシュトン主体ではなく、タジク人が軍と警察をおさえるというバランスに乗っかった、部族均衡という意味でバランスをとるかに見えて、実態はおそろしく均衡を欠く特色がある。
多数派が少数派ながらも武装するタジク人とウズベク人と妥協した政治構造は、パシュトンが好ましく思わない。
とくに軍と警察と秘密警察がタジク人が七割を締め、幹部はタジク人がほぼ独占するという妥協をカルザイは行った。
ウズベク人はつかず離れず、ハザラ人はイランとの均衡をはかる目的もあって優遇され、肝心のパシュトンが疎外された。カルザイはパシュトン族の名家の出身であるにもかかわらず。
以後、パシュトンはカブールを囲む形で、各地に軍閥が群雄割拠。これが「タリバン」の実態であり、反中央政府の軍事活動に見えてじつは軍閥同士の内ゲバという側面が見落とされがちである。
介入した外国軍は当初、歓迎される雰囲気もあったが、それから八年間も閲して、内戦、内乱、騒擾、ゲリラ戦争は悪化の一途をたどり、アフガニスタンは外国軍の駐留が、むしろ事態悪化の元凶と見られるようになる。
だから外国軍の支援と財政支援に依拠するカルザイ政権を大多数のアフガン人は「欧米の傀儡」と認識し憎む。
▲砂漠のオアシスが血の海に染まった
もともと政府とか国家をみとめていないアフガニスタンの歴史があるだけに、カルザイ政権を中央政府とは考えない。軍閥の主導権争いが部族の対立より強い要素として浮かび、麻薬ビジネスの主導権争いで軍閥同士が殺戮をしあう。
往時、カブールは砂漠のオアシスとして栄え、ソ連侵攻前までは『中央アジアの巴里』と呼ばれたこともあった。
その砂漠の麗都は血の海となった。
タリバン vs 外国軍という単純な対立構造ではなくなった。
アフガニスタンは部族の長老が政治を司るという西側の認識も古くなった。タリバンはイスラム法の厳格な適用をおこない、女子を学校にやらず音楽を禁止し、映画館もダンスも禁止し、西側の文化を破壊したばかりか伝統的な長老政治の習慣を後退させた。
西側援助の学校建設がしばしば攻撃目標とされるのは当該地域の軍閥の利益になれば外国御プロジェクトチームに協力的であり、軍閥の利益にならなければ破壊し、強奪することも頻繁に起きる。
カブールの政権はこれらの混乱を治める統治能力も軍事警察能力も欠落させているのだ。
西側がのぞんだ『法と秩序』はアフガニスタンには、その概念さえ存在しない。
アフガニスタンに平和が来る?
三千年以上に亘って戦争を繰り返し、アレキサンダーもペルシア王朝もモンゴルもムガール帝国も英国もソ連も、最後には匙を投げて逃げ帰った、このアフガニスタンを西側の民主主義で統治する?
夢想に終わるのではないのか。