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http://www.news.janjan.jp/world/0911/0911032649/1.php
元グアンタナモ被収容者が語る拷問の実態
酒井徹2009/11/04
拷問で「自白」迫られ続けた5年間
アメリカ・ブッシュ前政権の人権侵害の象徴として知られる「グアンタナモ収容所」。そこに無実の罪で約5年間収容されたドイツ生まれのトルコ人、ムラット=クルナズさんが、国際人権団体「アムネスティ・インターナショナル」日本支部の招きで来日している。11月3日、愛知県名古屋市で「奪われた人生―― グアンタナモ収容所の真実を語る」と題する講演会が開かれ、グアンタナモで行なわれていた拷問の実態などを証言した。
■19歳で拘束、軍事基地へ
クルナズさんはドイツのトルコ移民の家庭に生まれた。世界に8000万人のメンバーを有するというイスラム系の社会福祉団体「タブリーグ」に興味を覚え、19歳のときに団体本部のあるパキスタンを訪問。1ヵ月ほど滞在し、帰国しようと空港に向かうその途中、パキスタン治安部隊の検問で拘束された。
「検問で私は、『お前はドイツ人か、アメリカ人か、イギリス人か』と聞かれました。私は最初、パスポートやビザをチェックされるだけだと思っていました。ところが私は、そのまま刑務所に連れて行かれたのです。理由を尋ねても答えてもらえません。『一晩たてば家に帰れるから、一晩だけここにいろ』といわれました」
「私は、『家に電話をしたい』と言いましたが、『電話しなくても、明日になれば元に戻れるから心配しなくていい』と言われました。これが、『奪われた5年間』の始まりだったのです」
翌日ムラットさんは、目隠しをされ、手かせ足かせをされて1時間ほど自動車に乗せられて別の場所に移動させられた。彼はそこで2週間にわたって「待機」させられる。取り調べを受けるわけでもなく、ただ「捕らわれるだけ」の状態だった。「何が問題なのかと質問をしても、答えがもらえないのです」
2週間後、またしても目隠しをされ、パキスタンの都市・ペシャワールの警察署の地下にある拘置所に連れて行かれた。そこでムラットさんは、初めてアメリカ当局の取り調べを受ける。「FBIなのかCIAなのか、私には知るよしもありませんでしたが、彼らは私に色々と質問をしました」
「お前はオサマ=ビン=ラディンを見たことがあるか」。取調官は質問した。ムラットさんは「あるよ」と答えた。取調官が「どこでだ」と訊(たず)ねるので、ムラットさんは「新聞とかテレビとか……」と答えた。
取調官は、「オサマ=ビン=ラディンがどこに住んでいるか知ってるか」と聞いてきた。ムラットさんは、「私はドイツに住んでいる。アフガニスタンの山の中に住んでいるわけではないので知るわけもない」と答えた。
このペシャワールの警察署で、ムラットさんは「053」という囚人番号を付けられた。そしてその数日後、パキスタンの軍人が来て、ムラットさんは米軍に引き渡されたのだ。飛行機の中では動けないように留め付けられ、「テロリスト」とののしられて殴られた。
「そのころはまだ、『誰かと間違えられているだけだ。ちゃんと取り調べを受ければすぐに釈放されるだろう』と思っていました。私は法に背くことを何もした覚えがなかったからです。捕まった当時、私はまだ19歳。自分がどのような状況におかれているのか、理解がまるでできていなかったのです」
■電気ショックや水攻めで「自白」迫る
着いたのはアフガニスタン南部のカンダハルにある軍事施設だった。元々はアフガニスタンに侵略したソ連軍の基地で、その後タリバンの基地となり、今はアメリカ軍が使っているとのことだった。
「カンダハルの取り調べで、彼らは書類を持ってきました。そこには、『私はアルカイダのメンバーです。アメリカ軍を攻撃しました。二度とこのようなことはいたしません』というようなことが書かれていました。彼らはそこにサインをするよう求めてきましたが、私はタリバンでもアルカイダでもありません。『サインはしません』と言いました」
すると米軍の取調官は、「お前がサインをしないなら力ずくでサインをさせてやる」と言ったのだという。ムラットさんはその後しばらくして、取り調べのためのテントに連れて行かれた。
「私は床に座らされました。手かせも足かせもされ、足の部分に電気ショックを押し付けられました。体中にハリを差し込まれたような痛みを覚えました。彼らはそれで、私がサインをすると思っていたようです。サインをさせるために電気ショックを与えたのです。しかし、私はサインを拒みました」
「数日後、彼らは私を『水攻め』に遭わせることに決めたようです。この『水攻め』はアメリカがよく使っていたやり方で、アメリカではこれは『尋問の方法』であるということで、非合法な『拷問』ではないとされていました」
「バケツに一杯の水が用意されます。私は手を後ろ手に縛られた状態で頭をバケツに何回もつっこまれ、その状態で腹を蹴られます。腹を蹴られると息を吸い込まざるを得なくなり、私は水の中で溺れたような感覚になります」
それでもムラットさんが「自白」しないとみると、アメリ軍は彼を天井から宙づりにした。
「手錠をはめられた状態でつるされ、足は宙ぶらりんの状態です。取調官が来ると下ろされて、『お前はこれにサインするか』と言われますが、断るとまた宙づりにされます」
「1日に3回ほど医者が来て状態をチェックをしました。OKということになればまた宙づりにされるのです」
「3日ほど経ったところで私は気を失ってしまいました。そして牢屋に戻ると他の囚人が、『お前は5日間いなかった』と言うのです。どうやら私は2日間、気を失っていたらしいのです」
彼と一緒に宙づりにされ、命を落とした囚人もいた。
「宙づりにされている間は食事も一切与えられません。冬の寒い中でした。彼は生き延びることができませんでした。亡くなってからもしばらく宙づりのままで放っておかれていました。彼らはサインをさせたいためだけにこのようなことをしたのです。しかし、その人だけが殺された唯一の人ではありません」
「ある別の囚人は、アフガニスタン人でしたが、顔に覆いをされ、手かせ足かせをされた状態で3人の人間に殴られ続けました。彼は叫び声を挙げますが、それを5〜6人の人間が何もしないで見て笑っているのです。その後、その人たちも加わって暴行が加えられ、死んでから15時間ほどの間、遺体は放置されていました」
■グアンタナモ収容所への連行
ある日ムラットさんは、収容所の外に連れ出され、飛行機に乗せられた。
「どこに連れて行かれるのか一切分かっていませんでした。ただ、『これからお前を撃ち殺しに行くところへ連れて行くから』とだけ言われていました」
着いた所は『非常に暑い所』だった。ここが、グアンタナモ収容所だったのだ。
「そこで私は、オレンジ色の囚人服を渡され、小さな部屋に入れられました。部屋にはバケツが2つあるだけ。一つのバケツには水が入っていて、もう一つはカラでした。私は最初、そこは着替えのための部屋で、その後どこかへ連れて行かれるのだと思っていました。あまりに小さい部屋なので、まさかそこで5年間暮らすことになるとは思っていませんでした。水の入ったバケツが飲み水用、カラのバケツがトイレ用でした」
グアンタナモでの拷問は苛烈を極めた。
「グアンタナモでも彼らは私に書類にサインをさせようとしていました。けれど実は、――これは後で分かった話なのですが――そのころには彼らも、私が無実であることを知っていたようなのです。2002年、アメリカはドイツ政府に私を連れて帰国させるよう要請しています。もっとも、当時のドイツ政府はこれを拒絶しました。この決断をした担当官は、今でも私に謝ろうとはしていません」
「グアンタナモでは想像を絶するひどいことが行なわれていました。グアンタナモには子供がたくさんいたのです。最年少で9歳、次が12歳。9歳の子供はお母さんから離れているだけで辛い状態にあるというのに、米軍は『これは教育だ』といって彼を殴っていました」
「私が身近に接したのは14歳の男の子です。彼は床に叩き付けられ、M16で肩を打たれました。骨に穴が空き、片目も失明していました。とても痛そうな状態でした。ところが看守たちは、彼が取り調べで自分たちが望む通りのことを言わないと、治療を止めてしまうのです。当時14歳だった彼は今は22歳。彼は今でもグアンタナモ収容所に捕らわれたままです」
ムラットさんは、「グアンタナモは収容所ではない。あれは拷問のためのキャンプだ」と断言する。
「グアンタナモでは精神科医などと緊密に協力しながら専門的に拷問が行なわれます。単に拷問をするだけでなく、その様子を他の囚人たちに見せるのです」
「看守たちはグアンタナモに来る前に3週間ほどの研修を受けているようでした。グアンタナモにいる人間はアメリカに破壊攻撃を行なったテロリストだ…… というような内容のビデオをたくさん見せられてきたようです。だから、来たばかりの看守は私たちと口を利こうともしません。ところが、実際にしばらく接していると、必ずしもそうでないということがうすうす分かってくるようなのです。中には私たちに、そうした話をしてくれる看守もいました。しかし、私たちと個人的に話をしたことがバレると、彼らは罰を受けます。私にそうした話をしてくれた看守も、収容所の外に追放されてしまいました」
■グアンタナモからの釈放
ある日、ムラットさんは「ジーンズ」や「ジャケット」のような「普通の服」を渡され、「着ろ」と言われた。これは、彼がグアンタナモに連れてこられたときと同じような服装だったという。
「私はそのままドイツの基地に連れて行かれ、警察に引き渡されました。家族が迎えに来ていたのですが、父親を見ても私は誰だか分かりませんでした。父は私のいない5年間ですっかりやつれてしまっていました」
「2人の弟もすごく成長していて、私には分かりませんでした。ただ、母親だけが『お母さんだ』とわかりました。もっとも母も、すっかり年老いて見えましたけど」
2006年8月のことだった。当時ドイツを訪問したブッシュ大統領に、ドイツのメルケル首相がかけあい、ようやく帰国が実現したのだ。
「でも、まだ200人以上の人たちがグアンタナモ基地に捕らわれています。グアンタナモ収容所ができて8年。当時未成年だった子供たちも、家族に会えないまま大人になっています」
グアンタナモの収容者たちは「犯罪者」でも「捕虜」でもない「適性戦闘員」であるとアメリカは主張している。「犯罪者」であれば弁護士も付け、公正な裁判を受ける権利がある。「捕虜」であればジュネーブ条約に基づき人道的に遇され、戦争が終われば帰国できる。だが、「適性戦闘員」はそのどちらでもないとして、公正な裁判も受けられないまま、期限の無い収容状態に置かれている。アメリカのオバマ大統領は選挙戦で「グアンタナモ収容所の早期閉鎖」を約束したが、「テロリストが釈放されるとアメリカが危機にさらされる」など保守的な世論の抵抗を受け、公約の実現は難航している。
■なぜ拷問を耐えられたのか
講演が終わった後、会場から次々と質問が寄せられた。私も次のような質問をした。
「ムラットさんは5年間、非常に苛烈な拷問の中、『自分はアルカイダだ』という書面へのサインを断り続けた。どうしてそのようなことが可能だったのか、私はそれが知りたいです」
それに対するムラットさんの回答はこうだった。
「私は小さい頃から母親に、『お前はいい子でいなさい』と常に言われて育ってきました。サインをすると自分はテロリストだと認めることになります。私はともかく、母が『お前の息子はテロリストだ』と言われるのは、私には耐えられませんでした」
そう言ったあとムラットさんは、「ただ……」と言って付け加えた。
「ただ、サインをしたら確実に釈放されるということなら、私もサインしていたかもしれません。けれど、サインをした人がその後どうなったのか、私にはさっぱりわからなかったから……」
最後にムラットさんは、「日本はアメリカと非常に近い関係にあると聞いている。だから、日本の人が行動を行なうことが重要です」と切り出した。
「グアンタナモの収容者たちの中には、身体は丈夫でも精神的に病んでしまった人もいます。自分の他にもグアンタナモから釈放された人はいますが、そういう人は自分の経験を語れません。逆に身体をボロボロにされた人もいます。拘束状態は長期にわたっていて、私は中の人の健康状態を非常に心配しています」
ムラットさんはそう語り、オバマ大統領が選挙の公約に従って早期にこの非人道的な収容所を閉鎖するよう訴えた。
阿修羅内参考記事:
・厳しい拷問の実態:グアンタナモ元収容者に聞く
http://www.asyura2.com/09/warb1/msg/436.html
投稿者 妹之山商店街 日時 2009 年 10 月 29 日 12:50:12: 6nR1V99SGL7yY