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「トンデモ本の世界W」の大沈没W(終ったね):番外 「真偽」の判断と「正邪」の判断
この投稿は、次の拙稿に続くものです。最も大切なことを言い忘れていましたので。
http://www.asyura2.com/09/warb1/msg/323.html
「トンデモ本の世界W」の大沈没W(終わったね):第1部 藤田議員の本「トンデモ」規定について
http://www.asyura2.com/09/warb1/msg/334.html
「トンデモ本の世界W」の大沈没W(終わったね):第2部 その@ 真偽基準、93便、ペンタゴン
http://www.asyura2.com/09/warb1/msg/336.html
「トンデモ本の世界W」の大沈没W(終わったね):第2部 そのA WTCツインタワー、第7ビル
http://www.asyura2.com/09/warb1/msg/341.html
「トンデモ本の世界W」の大沈没W(終わったね):第2部 そのB スーパー・テルミット、委員会報告書
●「真偽問題」と「正邪問題」
私が、阿修羅投稿でも本でも私のウエッブサイトでも、常に強調しているのが「真偽」の判断基準です。ところで、「911委員会報告書」から「トンデモ本の世界」にいたるまで、常にこの「真偽」の判断とゴチャ混ぜにされて読者に印象付けられるのが、「正邪」の判断です。「ビンラディンは邪である」「アルカイダは邪である」という《言わずもがなの前提》がそのベースにあります。
もちろん私も「ビンラディンは邪である」「アルカイダは邪である」と思っています。(ただし、それらがCIAの作り上げたお化けである、という意味でですが。)しかし、そのことと、ペンシルバニア州シャンクスビルの穴はいったい何か、WTCツインタワーと第7ビルはいったいなぜ崩れたのか、とは、少々次元の異なる問題でしょう。
「真偽問題」とは、起こった物事に対する説明や認識が本当に正確なものなのかそれとも誤ったものなのか、ということです。一方、「正邪問題」は、その出来事と認識が我々と我々の社会に対して良い影響を与えるのか悪い影響を与えるのか、という観点から判断される問題のはずです。それは善悪に対する我々の価値判断に属するものであり、「実際に何が起こったのか」という客観的な事実関係を問うものではないでしょう。
では、「真偽」の判断と「正邪」の判断で、何かの事件が起こった際に、いずれをまず先に行うべきものでしょうか。私は、物事の「真偽」が十分に明らかにならない限り「正邪」の判断を行うことは不可能だと思いますが、皆様方はいかがでしょうか。
実際に何が起こりその原因は何なのかが不明確な場合、誰かを「正」とし誰かを「邪」とすることが可能でしょうか。もし「正邪」の判断を先に立たせた場合、
《「正」である。ゆえに「真」である》、
《「邪」である。ゆえに「偽」である》という、
論理が成り立ってしまい、そこではもはや客観的な事実の追及など何の意味も持たないばかりか、それを行うこと自体が「邪」でありゆえに「偽」であるという、本末転倒した世界となってしまうことでしょう。
●「真偽」判定のできない専門家の一群
「正邪」の判断を「真偽」の判断に優先させる人の場合、往々にして、権威の高い専門家が、自分たちの「正邪」の判断に沿って語ったことを「真」とすることになります。しかし我々は、権威の高い専門家が必ずしも「真」を語らないことを、9.11事件を通して、すでに十分に知っています。
9.11事件の直後に大勢の理工学系の専門家たちが「ジェット燃料火災で鋼鉄の支柱が溶けた」と明言しました。英国国営放送のBBCは、図解で「火災は800℃に達するがそれは鋼鉄を溶かすのに十分な温度である」と明記しました。もちろん鋼鉄は1500℃前後にならないと溶けません。
ユナイテッド93便「墜落跡」について大勢の権威ある学者たちが「秒速280mで地面と激突するとそのような事実(残骸や焼け跡が周囲に見えない、機体の多くがそのまますっぽりと地面にもぐりこむ、主翼や尾翼が消滅する、主翼が激突した跡の凹みに草がボウボウと生えている、等々)が起こりうると明言したそうです。彼らは明らかに「偽」を語っています。
NISTやFEMAに関係する専門家たちがやったことは今までに散々述べてきました。彼らはあからさまに事実を無視し、時には科学法則すら無視し捻じ曲げてきました。事実に触れることが避けられないと判断すると研究・分析自体をストップしました。この9.11事件ほど、理工系の専門家の権威を貶めた事件は、歴史上かつて無かったでしょう。私にとってこれは無念極まりないことです。
●「正邪」と切り離した「真偽」の議論を
それはひとえに、「9.11事件はビンラディンに指揮されたアルカイダが起こした」「人類はこの邪悪なテロリストと戦わねばならない」という、何一つ具体的な根拠もなしに政治的に決定された判断を「正」とし、それに疑問を述べることを「邪」とする、「正邪」判断が優先されてしまったからです。そして「正」とされた判断に沿ったものだけが「真」とされ、その判断にとって都合の悪いものは「偽」とされました。そこにはもはや、事実を追求し事実に沿って「真偽」の判断をする、正常な人間の精神の働きはありません。
いま、日本でも世界でも、最も必要とされていることは、「正邪」の問題と「真偽」の問題をいったん切り離し、9.11事件について、何が「真」であり何が「偽」であるのか、という議論を活発にさせることではないでしょうか。
つまり、
《「偽」を「偽」と為し、「真」を「真」為す。ゆえに「正」なり》
《「偽」を「真」と為し、「真」を「偽」と為す。ゆえに「邪」なり》という、
根本的な見方に立ち返ることです。
いや、もっと正確に言うなら、神ならぬ人間の身で、いきなり「真」を問うことは不可能かもしれません。我々人間にできることは、今までにも散々申してきたように、一つの事実を説明しえない解釈を「偽」とみなすという消去法を用いながら、「偽」を次々と削り落として、「偽ではない」ものの範囲を狭めることで「真」に近付けていくことができるでしょう。
したがってそこでは、「偽である」ものを「真である」とすることを「邪である」と規定することになります。こうして「邪ではない」ものの範囲を狭めていくことで、初めて「正」に近付くことができるわけです。さきほどの言い方を少し変えましょう。
《「偽」を「偽」と為す。ゆえに「邪」に非ず。》
《「偽」を「真」と為す。ゆえに「邪」なり。》
●「真偽」判断の鍵を握る「事実の判定」
その「真偽問題」を語る場合に最大の鍵を握るのが「事実の判定」です。専門家の語ることが必ずしも事実とはいえないことは、もう十分に明らかになっています。では「犯人の自供」や「目撃者の証言」が事実でしょうか。日本でもどこでも、数々の冤罪事件ででっち上げ調書を支えているのが「犯人の自供」と「目撃者証言」であることを考えても、このようなものが必ず「真である」とはできません。では、国などの機関の報告書が「真」でしょうか。これについても我々は、いかに国家とその機関が平然と嘘をつくのか、いかに平然と事実を隠すのかを、散々に見てきました。その中の一部は「911委員会報告書」の原稿を作成した人自らが明らかにしています。
拙著『「WTCビル崩壊」の徹底究明(社会評論社)』でも申しましたが、「人間嘘つく、自然法則嘘つかない」です。自然科学の専門家でさえ自然法則を平気な顔をして無視し嘘をつくのが、現実の世の中なのです。
したがって、「誰が嘘をついているのか」の判断基準は、一般の我々がしっかりと持っていなければなりません。そして、それをまとめたのが、私がこのシリーズで常に取り上げている「真偽の判断基準」です。そしてこれは、「正邪の判断基準」とは異なった次元にあります。再掲しましょう。
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●映像資料で
【B-1@】一つの画像で捕らえられているある現象が、別の場所からの別のカメラによる映像でも明らかに確認できること、
【B-1A】それらの映像に記録される現象に矛盾が無く(ただし光の具合などによる色調の違いやカメラの性能による違いなどを除く)明らかに同一のもの、あるいは同種のもの、あるいは連続したものであると確認できること、
【B-1B】被写体が通常の手段で輸送や移動が可能であり、被写体捏造の可能性をゼロと断言できない場合、その実物が存在するか、あるいは映像と附合した正確な分析記録が存在すること。
●他のデータを含めて、
【B-2】事件とは無関係に作られた、建築や飛行機に関する資料やデータは、上記の映像資料と一致する、少なくとも矛盾しない範囲でのみ、「事実である」と判断する。
【B-3】アメリカの公的・私的機関がまとめた報告書、公表されたデータや文書資料、目撃者の証言に関しては、事実と判定できる映像資料と一致する、少なくとも矛盾しない範囲でのみ、「虚偽ではない」と判断する。
【B-4】映像資料、文書資料、証言、音声その他によるデータが、真偽の議論が進行して以後に公開された場合、それはすべて「疑わしいもの」とみなし、確実な事実とみなされる資料との比較・対照によって真偽を判断しなければならない。
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なお、物的証拠については、この事件の場合、そのほとんどが、最初に「正邪」の判断を下して「真偽」の判断を狂わせたアメリカの国家当局によって、破壊・消滅させられ、あるいは隠匿されました。そして、その、最初に「正邪」の判断を下して多くの物的証拠を破壊・隠匿したアメリカの国家当局によって、犠牲者やテロリストの遺品やDNAなどの、手で持ち運びのできる、あるいは分子レベルで判定できる物体だけが、「物証」として取り上げられています。
しかしそれらはいずれも捏造や偽造の疑いを排除できるものではなく、それらがすべて、最初に「正邪」の判断を下して「真偽」の判断を狂わせ多くの物的証拠を破壊・隠匿した、当のアメリカの国家当局によって取り上げられたものであることを考慮に入れるならば、疑いをさしはさめない映像資料に比べての証拠能力の疑わしさは、如何ともしがたいものでしょう。
●「事実」、「真偽」そして「正邪」の判断
上記の原則に沿って判定された事実によって、初めて「真偽」が判定できます。その「真偽」を突き詰めていく中から、初めて「正邪」の判断ができるでしょう。何よりも「初めに事実ありき」です。その次の段階として、さまざまに言われている説の「真偽」が判定されるでしょう。そしてその判定作業の中から、初めて、何が「正」であり何が「邪」であるのかが、明らかにされていくことでしょう。
こうして、「偽なるもの」を「真」と強弁する「邪悪なるもの」が、我々の善悪の価値基準で明らかにその位置を取っていくことになります。さて、そのように見てみますと、「911委員会報告」で説明されていることから、果ては「トンデモ本の世界」で述べられていることにいたるまで、いったいどれほどが「偽ではないもの」「邪ではないもの」として残ってくるでしょうか。
9.11事件は、我々に、何千年続いてきた人類の歴史での根本的な問題、「何を正とし何を邪とするのか」という大問題について、非常に貴重な教訓を与えてくれるものなのでしょう。この問題をゆるがせにした場合、我々と我々の社会は、破滅に向かい救いようの無い混乱と暴力と差別の中に沈んでいくことでしょう。
9.11事件の解明は、人類の歴史で、「事実」「真偽」「正邪」を明らかにさせるための、唯一の、そしておそらく最後のチャンスといえます。それが、事実の認定に十分なほどの客観的な映像資料にあふれているからです。そしてまた、そうであるにもかかわらず、事実を無視し、基本的な自然法則すら捻じ曲げる人々や報告に事欠かないからです。そしてこのような我々の世界の実態を余すところ無く映し出してくれるのが、9.11事件と対テロ戦争なのです。
(宣伝で申し訳ないのですが)この点についてより詳しいことは、ぜひ、きくちゆみさんと私の共著である「テロ&戦争詐欺師たちのマッチポンプ」をお読みください。
以上です。祖国の皆さんへ、バルセロナより愛を込めて。