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http://indai.blog.ocn.ne.jp/osorezan/2009/08/post_1dea.html
福井の寺に戻っています。お盆の行事に突入、ヒマ僅少。そこでまことにすみませんが、以前書いた拙文を転載して、今回の記事とさせて下さい。
以下は、6年前、当時のアメリカ大統領ジョージ・ブッシュがサダム・フセインのイラクに戦争を仕掛けた直後、宗門の青年会機関誌に寄稿を求められて書いたものです。この季節に便乗するようで恐縮です。
▼「反戦」と「非戦」の間
この度の戦争を簡単に言ってしまえば、危険きわまりない武器を隠し持つ疑いがある上に、ひそかに山賊海賊を煽って悪事の限りを尽くさせているらしい、極悪非道の「ならず者」を、自称「自由と民主主義」のチャンピオンが、圧倒的なハイテク暴力で抹殺する、ということだろう。
すると、この戦争を支持するか否かの議論は、結局「善い戦争」、あるいは少なくとも、「役に立つ戦争」があるのかないのか、という問題をめぐるものとなろう。
だとすれば、この議論は善悪や有益無益の根拠をめぐって、道徳的・政治的・経済的観点から、甲論乙駁、果てしない論争となるに違いない。この場合、「反戦」とは、論争の一方の当事者となることである。
もしこのように考えるならば、私が思うに、仏教のとる立場は「反戦」ではない。その立場は「非戦」である。
「非戦」は、何か根拠を挙げて戦争に反対する「反戦」とは違う。それは「戦わない」と決断することである。あるいは「殺さない」と決断することである。ゆえに、論理的に言えば、「反戦」で死刑支持はあり得ても、「非戦」で死刑支持はあり得ない。最も極端に言えば、虫も殺さないのが「非戦」の立場である。
したがって「不殺生戒」の立場で「反戦」だと言うのは、誤解である。何らかの理由で殺すことが悪いことだから、「不殺生」なのではなく、釈尊が「不殺生」と決めたから、その教えにしたがう者にとって、殺すことが悪いことになったのだ。「戦わない」「殺さない」は、論理の問題ではなく、決断の問題である。それが仏教の立場であり、その決断の責任をとるのが、仏教者の主体性の根拠である。
である以上、我々は、まず自ら殺さない、戦わないと誓い、その立場をあらゆる機会をとらえ、あらゆる手段を駆使して訴えなければならない。殺さず戦わずにすむように、持てるすべての方法を、戦いの前・中・後を問わず、動員しなければならない。
そして何よりも、戦争の原因となる格差・差別・対立、すなわち隠れた小さな戦争を除去する行動を、日常から積み上げていかなければならない。
その主張が社会から嘲笑され、時の権力から攻撃され、教団の存続と僧侶の生活が危険に瀕したとしても、互いに励まし合い、一丸となって非戦の立場を全うする覚悟と努力を持続することーーー我々のとるべき道はこれであろう。
敢えて言えば、仏教は「平和」を求めるのではない。「非戦」を貫くのだ。
道元禅師いわく、
「人は我を殺すとも我は報を加へじと思ひ定めつれば、用心もせられず盗賊も愁へられざるなり。時として安楽ならずと云ふことなし」(『正法眼蔵随聞記』)〈私訳:誰かが自分を殺そうとも、自分は報復を加えないと決めてしまえば、身を護る心配もしなくてすみ、盗賊に襲われる不安もなくなって、時として安らかな気持ちでいられない、ということもない〉
この「安楽」は、現在の我々にとって重く、厳しい。多分「平和」とは、ただの無戦状態の安逸ではなく、「非戦」の緊張の中で創造される過程だろうと、私は考える。(了)
当時の状況もあり、若い僧侶が読者であることもあり、読み直してみると、ずいぶん気負った文章になっていますが、私には今も思い入れのあるものです。