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(回答先: 未帰還兵:松林要樹「花と兵隊」 投稿者 妹之山商店街 日時 2009 年 8 月 12 日 12:58:22)
宣伝して置きますよ?
「暁を抱いて闇にゐる蕾」「手と足をもいだ丸太にしてかへし」など数多くの鋭い反戦川
柳を詠んだ鶴彬(つるあきら)は、石川県高松に生まれ、本名は喜多一二(きたかつじ)
といいます。
「暴風と海の恋を見ましたか」というロマンチックな句をつくっていた少年が、社会運動
の高まりのなかで成長し、19歳でナップ(全日本無産者芸術連盟)高松支部を結成。反戦
句をつくって戦争反対を貫くとともに、21歳で金沢歩兵第七連隊に入営すると、日本共産
青年同盟の機関紙『無産青年』をもちこむなど反戦活動をし、治安維持法違反で懲役2年の
刑に。
日本が中国に全面的な侵略戦争を始めた37年には「万歳とあげて行った手を大陸へおいて
来た」「高梁の実りへ戦車と靴の鋲」「屍のゐないニュース映画で勇ましい」などの作品
を発表します。その直後にふたたび治安維持法違反で、東京の野方署に留置され、翌年、
赤痢に感染、勾留を解かれないまま病院で亡くなります。特高に虐殺された小林多喜二と
同じ年の享年29歳でした。出身地の高松町には「枯れ芝よ!団結をして春を待つ」の句碑
が建っており、『鶴彬を顕彰する会』もつくられています。
『鶴彬全集』を復刻した澤地久枝さんはインタビューにこう語っています。「一番最後の
句が『胎内の動き知るころ骨がつき』というのもすごいことです。身ごもった赤ちゃんの
胎動がわかって生まれてくる日を予告していたというのに、父親は戦死してその遺骨が届
く。子は父を失い母は夫を失う。戦争をみごとに突いた句です。日中戦争が激しくなった
1938年9月14日に息を引き取った青年は、最後まで反戦の筋を通して死んでいきました。ず
いぶん痛ましい、しかしみごとな人生だと思います。」
警察病院で燃え尽きた鶴彬の遺骨は、ふる里高松へ帰ることなく、兄孝雄さんの手によ
り、岩手県盛岡市の光照寺で手厚く葬られました。