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2009年8月12日 (水)
絵本、「リトルボーイとファットマン」(書評)
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「リトルボーイとファットマン」(マッド・アマノ著)
パロディストのマッド・アマノさんとは、植草さんを支援するご縁で知り合い、爾来、よくお会いしていただいている。マッドさんは様々な分野で造詣が深く、実に幅広い知識を有した方である。お会いするたびに新しい視点や発見を示唆していただいている。
さて、今からちょうど四年前、マッドさんは、「リトルボーイとファットマン」(七つ森書館)という、原爆についての絵本を世に出した。普通、絵本というと、イメージ的には、小さな子供が興味を持つ童話やファンタジー作品を思い浮かべるが、この絵本はまったく趣(おもむき)が異なっている。原爆の真実を絵本形式で真正面から問いかけている力作である。左パージにマッドさんの文章が、右ページにはマッドさんのイラストが配置してある。
それは今から64年前の昭和20年8月6日、及び8月9日、日本はアメリカによって二つの異なるタイプの原子爆弾が投下された事実を、あらためて問いかけている絵本だからだ。同時にマッドさんは、同年の3月25日、325機のB29が東京下町地域に飛来して焼夷弾を投下、下町は全面火の海となり、10万人が殺され、ケガをした人が4万人、100万人が焼け出されるという大被害を蒙った事実もあげている。
東京以外にも、北は北海道から、南は九州、沖縄まで1都99市13町がB29による無差別爆撃のターゲットになったこともあげている。東京爆撃に関して言えば、空爆目標地の外周(アウトライン)である隅田川や荒川の堤防沿いに焼夷弾を落として炎のカーテンを作り、人々の退路を絶った。それから嘗め尽くすように絨毯爆撃を行った。軍需工場などのピンポイントどころか、一般人の殺戮を目的としたものだった。
ハリー・S・トルーマンは、原爆投下の目的について、「戦争を早く終わらせ、アメリカ兵の犠牲者を出さないことだった」と終戦直後に述べている。これが東京裁判の開廷動機と大きく関わり、日本の戦後教育の骨子となった。原爆神話である。もちろん、この神話はアメリカ人の心を一番強く囲繞(いじょう=縛っている)している。
しかし、若い人(私の年代の人)もよく考えてみて欲しい。トルーマンが言ったこの原爆投下の理由には妥当性があるだろうか。本当は次に述べる二つの目的があった。
広島と長崎に落とされた原爆は、併せて33万人の死者を出した。広島市に投下されたリトルボーイは「濃縮ウラン型」であり、長崎市に投下されたファットマンは「プルトニウム型」だった。この二つの異なるタイプの原爆を使用したことは、原爆の殺傷能力を試す生物学的な実験だったことを物語る。そのために、広島市民と長崎市民がモルモットにされたのである。
米軍は爆発後の生存者に治療を積極的に行わなかったことは、被爆者の経時的観察をしていたからだ。被爆によって病気が併発する過程を冷酷に観察したからだ。日本人を人間として見ていなかったことは明らかである。たとえ被爆した生物が猿やネコであっても、治療を施さないまま、放射線障害の発症を観察するなどということは、人間の所業とは思えない。原爆は日本人33万人を対象とした生物学実験だった。
もう一つの目的は、当時ライバルであった大国のソ連に対する示威行為であった。これが戦後の二大大国の核兵器増強の原型になっている。つまり、原爆投下は、生物学的実験とソ連を威嚇するためだったのである。
日本に原爆を投下した連中をアメリカ人だと決め付けてしまうと、問題の本質がぼけてしまう。この決定を下した連中は、トルーマンの上にいた悪魔のスーパーエリートたちである。今なら、アメリカ産軍複合体を牛耳っているエスタブリッシュメントである。広い意味では小泉政権も、植草事件も、この悪魔の連中から大元の指令が下っている。それは原爆話題の本質ではないから、やめておくが、有色人種をウィルスか、有害細菌のようにしか思っていない連中が、原爆投下を命令したことだけは確かである。
ドイツは降伏が早かったから原爆投下は免れたというが、果たしてそうだろうか。管理人は原爆が日本だけに使用された意味は、非白人種だったからだと思っている。ドイツのニュルンベルグ裁判を思えば、原爆を投下されても不思議はないと思うが、白人種が白人種に対して殺傷実験をすることはできなかったのだろう。
マッドさんはこの絵本を、特に中学生や高校生に読んでもらいたいと強く願っている。しかし、管理人が思うのは、もちろん将来ある若い人に読んでもらいたいが、東京裁判に囲繞されてしまった多くの一般人も、これを読むと目からウロコの思いがあるはずである。アメリカ一辺倒の教育体系からは決して出てこない原爆の真実がある。あの戦争を原爆と無差別都市空襲の方向から考えることも重要である。アメリカの真実を見極めるべきだ。そうしないと、現在起きている日本の内政問題は解決できない。
昭和25年11月、パール博士は広島の爆心地に近い本川小学校講堂で開かれた世界連邦アジア会議に、ゲストとして参加した。その時、怒りを込めてこう言っている。
(以下は「原子爆弾」というサイトから転載)
人種問題、民族問題が未解決である間は、世界連邦は空念仏である。
広島、長崎に投下された原爆の口実は何であったか。
日本は投下される何の理由があったか。
当時すでに日本はソ連を通じて降伏の意思表示していたではないか。
それにもかかわらず、この残虐な爆弾を《実験》として広島に投下した。
同じ白人同士のドイツにではなくて日本にである。
そこに人種的偏見はなかったか。
しかもこの惨劇については、いまだ彼らの口から懺悔の言葉を聞いていない。
彼らの手はまだ清められていない。
こんな状態でどうして彼らと平和を語ることができるか。
※ 講演後の11月5日、パール博士は広島の原爆慰霊碑に献花して黙祷を捧げた。その碑文「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」の意味を理解した博士の表情は厳しくなった。
この《過ちは繰返さぬ》という過ちは誰の行為をさしているのか。
もちろん、日本人が日本人に謝っていることは明らかだ。
それがどんな過ちなのか、わたくしは疑う。
ここに祀ってあるのは原爆犠牲者の霊であり、その原爆を落した者は日本人でないことは明瞭である。
落した者が責任の所在を明らかにして《二度と再びこの過ちは犯さぬ》というならうなずける。
この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。
その戦争の種は西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることも明瞭だ。
さらにアメリカは、ABCD包囲陣をつくり、日本を経済封鎖し、石油禁輸まで行って挑発した上、ハルノートを突きつけてきた。
アメリカこそ開戦の責任者である。
●関連おまけ「クマのプーさんブログ」より
http://blog.livedoor.jp/amaki_fan/archives/51705838.html
2009年08月12日
なぜ原爆が広島、長崎に落とされたのですか
【質問】なぜ原爆が広島、長崎に落とされたのですか
東京都 H・Oさん(小3)
【答え】破壊力測りやすい都市
【説明】
アメリカが広島に原子爆弾を(原爆)を投下したのは1945年8月6日。長崎は9日でした。どちらも午前中で、多くの市民はふだんの生活をしているところでした。
(アメリカで)原爆が完成し、砂漠で爆発実験に成功したのは7月です。アメリカはそれより前の春ごろから「日本のどこに落とすか」を検討し、いくつかの都市を候補地にしました。そして広島、小倉(今は北九州市)、長崎などにしぼられていきました。
条件は、まとまった市街地に人口が集まり、破壊の威力が後でわかりやすい所、軍に必要な兵器関係の工場が集まっている所、などです。
中国地方から瀬戸内海に流れ出る河口に、扇を逆さに開いたような平らな三角州。この上に市街地を広げる都市・広島は「郊果」を測る最も良い場所とみられたようです。広島に原爆まで空襲がほとんどなかったのは、郊果を詳しくつかむため、無傷で残したためです。
東京をはじめ各地の都市が空襲で焼かれているのになぜ広島は、と気味悪がる市民はいました。「アメリカ大統領の親類がいるから」というデマもありました。一方、長崎への投下は、その日の第1目標だった小倉が雲煙で上空から見えなかったため、目標を変えた結果でした。
戦後、アメリカの調査団が広島、長崎に入り、破壊ぶりを観察して記録しました。建物を吹き飛ばす威力は実験でわかっていたでしょう。しかし、熱線に焼かれた人たちの無残な姿、外見に傷はないのに突然衰弱する放射線障害、原爆症などはほとんど未知のものでした。
アメリカが設けたABCC(原爆傷害調査委員会)は被爆者の治療ではなく症状進行などを観察・研究する施設で、市民の間に不信と怒りを広げました。
アメリカは戦争を終わらせるために原爆を落としたと主張します。しかし、どれだけの威力か実際の人間と街で確かめてみたいという思いも、原爆をあえて市民生活の頭上に投じた人々の胸中にあったのではないか。私はそう考えています。 【専門編集委員・玉木研二】
以前まんが本を映画化した『夕凪の街・桜の国』を見て、自分でも驚くほど号泣した私は、私の中にまだこれほど悲しみを共有できる情念が残っているのだと驚く経験をした。広島で死んでいった人々の叫びが映画の主人公のセリフに詰まった。
十年経ったけど
原爆を落とした人はわたしを見て
「やった!またひとり殺せた」
とちゃんと思うてくれとる?
今年は新たにビキニ事件のことを大石又七さんの本などを通してたくさん知った。米国がいかに残忍な国であるかを知ると同時に、日本政府がその当時行ってきた数々の市民の側に目線がない行いをしてきているかを知る。
さて、上記の記事は8月8日子ども向け「毎日新聞」記事である。この質問に答えている玉木研二記者は広島の出身と他の記事で書いている。
一瞬にして亡くなっていった人々、あるいは後遺症に苦しみながら亡くなっていく人の思いを、何らかの形で残していきたい思いを私も少なからず共有したい。