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by クリストファー・レダー:CounterPunch2009年5月19日掲載 何歳だったか憶えていないが、たぶん高校に行っていた頃、私の父が妙な質問をしてきた。どういう会話の成り行きでそんなことを言い出したのかわからないが、言われた時にはレンガで殴られたような気分だった。父は言った:「おまえの腕の中で、母親の助けを求めて泣きながら死んでいった仲間は何人いたんだね?」 今日までに、私の腕に抱かれて死んでいったり、母親を求めて泣いた者は一人もいない。当時どんな風に答えたのか憶えていない。私は呆然としていた。 父はベトナム戦争に従軍した。歩兵偵察犬の調教師として、ボーという名のジャーマン・シェパード犬と共に、部隊の先頭を歩いた。部隊はベトコン、待ち伏せ攻撃、ブービー・トラップ、トンネル、武器の隠し場所を探しながら前進した。父とボーはチームだった。彼らは偵察部隊の先頭に立ち、危険を察知すると、ボーは父に警告するのだ。南ベトナムのジャングルを行軍する部隊の命は、父たちが護っていた。 気がかりな問いかけから何年か過ぎた頃、父はベトナムでの出来事を説明してくれた。ある日、ジャングルで、父とボーが偵察部隊を率いて歩いていると、ボーが危険を察知して父に警告したので、父は移動を中断した。まもなく中佐がやってきて、なぜ“我が隊”が停止したのか聞いてきた。父は中佐に、犬が警告を発したので、前方に何か危険が待ち受けていると説明した。中佐は怒って「馬鹿を言うな。この地域はすでに掃討済みだ。」と言い、移動を再開させた。父の判断に逆らい、中佐は部隊を率いてジャングルの奥深く前進していった。 数分後、部隊は激しい待ち伏せ攻撃に遭遇した。ボーは正しかったのだ。偵察部隊は身動きできなくなり、離脱のために戦う羽目に陥った。運良く部隊は敵との銃撃戦を突破し、安全なエリアまで戻ることができた。 しかし、銃撃戦の最中に、部隊の兵士が一人、下腹部を撃たれて大量出血していた。この若い兵士はたまたま父の親友だった。戦友の負傷を見て、父は衛生兵の助けを叫びながら急いで走り寄った。地面に寝かされた戦友は、手で内蔵を抑えながら、母親を求めて泣いていた。父にできたのは、ただ死にゆく戦友を腕に抱いて、可能なかぎりの安らぎを与えることだけだった。 この体験を話してから、父は若い兵士を死なせたことへの罪悪感が未だに残ることを吐露した。中佐にこれ以上先に進んではいけないと説得することもできたはずだった、と父は言った。何か他にできることがあったのかもしれなかった。 父の顔には、重い罪悪感と怒りが見えた。父の頬には大粒の涙が流れていた。そのとき私は、父が、おそらくあまり多くの人とは共有できなかった何かを、私と共有したのだと知った。その頃は、なんと言うべきかわからなかった。でも数年前、父があんな質問をした理由がわかってきた。 すでに書いたとおり、私の腕の中で母親を求めて泣きながら死んでいった者はいない。だから父への答えは、いいや、そんな事経験したことがない、ということになる。でも、私なら父にこう聞きたい。自分の腕に抱かれながら、父を求めて泣いた9歳児は何人いた?自分が殺したばかりの、すでに息のない父親にしがみついていた子供は? 2003年夏、私はイラク北部アル=ハウィジャの小さな町外れにある検問所で勤務していた。父と同じく陸軍歩兵部隊所属だったが、ベトナムの湿ったジャングルを偵察する代わりに、私は極端な暑さと砂だらけのイラクで、市街地のゲリラ戦争を戦っていた。 私の居た検問所は街の外に設置されていたので、街に入ってくる全ての車輌を停止させていた。私らは武器や、爆発物、怪しい者、手製爆弾の材料その他禁止品を捜索していた。検問所の様子はこんな感じ:300メートル手前に、アラビア語で“速度を落とし、停止すること!”と書かれた警告標識があって、さらに150メートル手前には“停止しなければ致命的な武力を行使する!”と書かれた標識が置かれていた。その先には迷路のようにワイヤーが張り巡らされ、ピットと名付けられた場所にたどり着くまで車輌をジグザグに走らせる仕組みになっていた。ピットでは、車輌を検査し、何も見つからなければ手を振り、街への進入を許可されることになっていた。 2003年の夏、私の部隊はハウィジャの検問所に配置されていた。交通量の少ないのんびりした日だった。昼間の暑さに関係していたのだろう。気温が華氏130度(摂氏54度)を超えると、ほとんどのイラク人は室内に避難し路上から姿を消す。ほとんどの人は気温の下がる夜に移動するのだ。1台の車輌が検問に近づいてきた。双眼鏡で見ると、小さな白いトヨタのピックアップトラックがこちらに向かってきていた。私は双眼鏡を下ろし、臨戦態勢を整えた。 白のトラックは最初の警告標識に近づいたが、速度を落とす気配はなかった。部隊長は武力行使の合図として警告射撃を命令したので、私の隣の兵士が M-16で、トラックの屋根めがけて3連射した。自爆用の爆発物を積んでいる恐れがあったので、部隊長は皆にトラックを銃撃するよう命令した。私はライフルを構えて、車輌の運転席の窓際に30発ほど撃った。隣に居た兵士はM-240Bマシンガンで車輌エンジンめがけて150発ほど撃った。 フードの下から黒い煙が立ち上り始め、トラックは進路から外れだした。検問のワイヤーに突進し、ピットの中でようやく停車した。私はすぐに弾倉を入れ替えて、数十発を運転席のドアに撃ち込んだ。部隊長が銃撃停止の命令を叫んだ。銃撃は止まったが、私のアドレナリンはまだ収まらなかった。トラックの運転手は運転席のドアからぶら下がり、うつぶせになっていた。頭部、胸、両腕から血が流れ、トラックの側面が暗い茶色の液体に染まった。同僚たちが運転席のドアを開けると、運転手の遺体が地面に落ちた。トラックから遺体が崩れ落ちた時のあのドスンという音は今でも忘れられない。 助手席のドアが突然開いて、8−9歳くらいの男の子が飛び出し、トラックの前に走り出てきた。彼は銃撃で穴だらけになった遺体の上に乗ると、アラビア語で泣き叫び始めた。何を言っていたのかわからない。私はただ恐ろしさのあまり呆然としていた。 後でわかったのだが、運転手は少年の父親だった。銃撃はトラックの運転席に集中していたので、幸いにも少年は負傷していなかった。少年は狂乱状態で、死んだ父親につかまりむせび泣いていた。少年は父親の血に染まってしまい、兵士3人でようやく遺体から引き離した。少年を遺体から引き離すと、部隊のハンビーに連れて行った。血の海に横たわる父親の姿が目に入らないように、少年を捕まえていた。衛生兵が遺体を検査したが、出来ることは何もなかった。全ては終わっていた。衛生兵は遺体の前に立ち尽くし、落ち着こうとしたが、空に両手を投げ出して言った:「畜生!」誰の目にも、運転手の死は明らかだった。遺体の銃創さえ全部数えられたとは思えない。 少年はハンビーに乗せられ、どこかへ連れ去られた。何処なのか、私にはわからない。二度とその少年を見ることはなかった。午後いっぱいかけて、虐殺の跡を清掃しようとした。父親の遺体を遺体袋に入れて、まるで古いゴミ袋みたいに、ハンビーの後ろに放り込んだ。何処に運んだのかもわからない。殺害された死体が何処に運ばれるのか尋ねたこともなかった。気にもしなかった。私の仕事は殺しだけ。残りは誰かの仕事だった。どっちが酷い役回りなのかはわからない。 次に、トラックをどうするのか判断することになった。完全に廃車状態で、中身は血と肉塊で覆われていた。誰もトラック内部に入ろうとしないので、整備士を呼ぶと、彼らは車輌を検問から引っ張り出していった。後に整備士が語ったところでは、トラックのブレーキが故障していたことがわかった。トラックは検問まで急いでいたのではなく、止まれなかったのだ。結局のところ、スイカ畑でまる一日働いて、ヘトヘトに疲れ果てながら街に戻ろうとしていた父親と息子に過ぎなかった。トラックの荷台にはたくさんのスイカと、ショベルが積まれていた。もしかしたら市場でスイカを売るために街に向かい、トラックのブレーキを直せるくらいの金を稼いでいたかもしれなかった。 あの銃撃は避けられただろうか?私にはわからない。私自身、同僚たちも単に命令に従っただけだった。トラックに銃撃するよう言われ、仕事をこなした。人間性はもちろん、国際法上のいかなる承認もなく、議会と大統領から不法に命令された仕事だ。あの白いトヨタのトラックが自爆のために爆発物を積んでいなかったと、どうしたら知ることが出来ただろう。あのトラックが、畑から帰る途中の父と子の乗った、ブレーキの壊れた車輌だとどうやって知ることが出来た?そして、自分の国を占領している米軍兵士に無実の父親が殺されるのを見ていた少年に、どう説明できたというのか。 これが5年前の出来事で、今では少年は10代になっているはずだ。明日になれば、イラクのどこかで、あの少年はトヨタのトラックを運転しながら、どこかの検問所に向かっているかもしれない。確実に言えるのは、彼はもうスイカを運んではいないということだ。
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