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(2007年5月8日の私のミクシイ日記をお送りします)
今日は、5月8日です。今日、5月8日は、ヨーロッパで、第二次世界大戦が終結した日です。例えて言へば、日本の8月15日に当たる日です。今から62年前の今日(1945年5月8日)、ドイツは降伏し、ヨーロッパにおける第二次世界大戦は終結したのでした。しかし、戦争が集結した事は、直ちに平和の訪れを意味したのでしょうか?
今から、15年前の事です。チェコ・スロヴァキア(当時)のハヴェル大統領(当時)が、日本を訪れる直前、朝日新聞の週刊誌「アエラ」に次の様な記事が載りました。その年の(1992年)2月、ドイツのコール首相が、チェコの首都プラハを訪れ、チェコ・スロヴァキア(当時)とドイツの間に善隣友好条約の調印が結ばれたのですが、その条約に、第二次世界大戦直後の或る歴史が、明記された、と言ふニュースです。先ず、その記事をお読み下さい。
社会主義独裁が自滅して二年四ヵ月のチェコ・スロ
ヴァキアで、人心が、大きく分裂している。
「(わが国民のやったことは)度外れた非道でありま
した」
こういう言葉遣いで、過去への謝罪が、第二次大戦
終結までナチス・ドイツに支配された国家とドイツと
の首脳会談で行われたら、それはドイツ側からのもの、
と思うのが普通かもしれない。
プラハだけで死者一万五千人
しかし、この発言は、劇作家でチェコ・スロバキア
大統領でもあるバツラフ・ハベル氏(55)が、ドイ
ツのヘルムート・コール首相に対して為したものだ。
二月二十七日、首都プラハで、ドイツとの善隣友好協
力条約を調印した日のことである。
条約には、第二次大戦直後にチェコ・スロバキアで、
三百万人以上のドイツ少数民族が即時国外追放を強制
された事実も、「追放」という語を用いて盛り込まれ
た。
チェコ・スロヴァキアでは当時、ドイツ人に対する
大虐殺が発生していた。1945年5月5日、連合国
に対する無条件降伏にドイツが調印する二日前のプラ
ハで、それは始まった。
チェコを領有していたドイツの執政機構の関係者で
あろうとなかろうと、ドイツ人であれば、小さな子ど
もでも、難民でも、所かまわず、滅多打ちにされたり
して殺された。生きているままガソリンをかけられ、
火をつけられ、焼け縮んだ死体が吊された。
難民も含めて、プラハだけで1万5千人のドイツ人
が殺された、とドイツ側は推定している。チェコ・ス
ロヴァキア全土での死者数は捉えようもない。
ナチスに抵抗した人々であっても、ユダヤ人でも、
ドイツ系であれば虐殺の標的となった。死を免れた人
たちは、強制収容所へ放り込まれ、死者も続出した。
(「チェコ 終戦時のドイツ人虐殺を謝罪/謝罪を国賊
視する反撃を受けてもハベル大統領は動じない」
朝日新聞社「アエラ」1992年4月7日号 18ペー
ジより引用)
第二次大戦中のドイツ側の残虐行為については、戦後、散々語られて来ました。しかし、その逆に、ドイツの女性や子供たちが、戦争直後のチェコやポーランドで大量に殺されてゐた事は、余り知られてゐません。上の記事は、そうした、ドイツの女性や子供たちの悲劇を取り上げた、珍しい記事ですが、皆さんは、こうした歴史の事を、今まで、御存知だったでしょうか?
この記事の続きです。
ズデーテンラント地方のドイツ系少数民族は、
そこが中世ごろからの故郷なのに、着のみ着の
ままで国外に追放された。途中で殺された人た
ちも少なくない。
(朝日新聞社「アエラ」1992年4月7日号18ペー
ジ「チェコ終戦時のドイツ人虐殺を謝罪/謝罪を国賊
視する反撃を受けてもハベル大統領は動じない」より)
ズデーテンラントと言ふのは、チェコとドイツの国境地帯に当たる地域です。この地域は、第一次大戦後、チェコスロヴァキアが独立した際、チェコスロヴァキアに編入されましたが、そこに住む住民は、圧倒的にドイツ人で、歴史的に言えば、ズデーテンラントに住むそれらのドイツ系住民は、アエラ(朝日新聞社)のこの記事も認めてゐる様に、「中世ごろから」そこに住んで来た人々でした。ですから、これらのドイツ系住民は、ただ、そこにドイツ人に生まれただけで、何ら「侵略者」などではなかったのです。
ところが、第二次大戦が終はると、この地域に住むドイツ系住民は、ただドイツ系であると言ふだけの理由で、中世以来住み続けて来たこの土地から、一方的に追放されたのでした。そして、その際、それらのドイツ系住民の多くが、この記事が述べる様に、チェコ人によって、無残にも虐殺されたのでした。
このチェコ人によるドイツ人大虐殺は、日本では、戦後、殆ど語られる事が有りませんでした。ドイツ人と言へば、「加害者」としてしか語られない傾向が永く続いて来たからです。しかし、1990年代に成ってから、日本のマスコミでも、この事が、少しずつですが、語られる様に成りました。以下に引用するのは、ニューズウィーク日本版が、1995年5月、第二次世界大戦終結50周年の記事として掲載した記事の一節ですが、皆さんは、これをどう読まれるでしょうか?
一九四五年七月三一日、ズデーテン地方のアウシヒ
(現在のチェコのウースチー・ナド・ラベム)にドイ
ツ軍が残した弾薬庫で、爆発が起こった。チェコの民
兵と市民たちは、ナチスの残党による破壊工作だと主
張し、町のドイツ人に怒りの矛先を向けた。
エルベ川の橋では乳母車に子供を乗せた母親が殴り
殺され、親子ともども川に放り込まれた。チェコ人は
ドイツ人に見境なく発砲した。この町だけで死者は
三○○○人近くに及んだとの推計もある。
一方チェコの歴史家たちは、犠牲者は三○○〜七○
○人と主張している。だが、虐殺を目撃したある官僚
はこう語る。「この事件は、いずれきちんと議論する
必要がある。われわれが事実を語らなければ、ドイツ
のように国民全体が罪を負わされてしまう」
欧州戦の終結五○周年を契機に、少しずつだがそう
した議論が広がりはじめている。戦争末期のポーラン
ド西部やチェコスロヴァキアなどで迫害された数百万
人のドイツ人の苦しみにも目を向けよう、という機運
が出てきたのだ。
実際、当時の東欧におけるドイツ人追放は驚くべき
規模に及んだ。今なら「民族浄化」と呼ばれるだろう。
(アンドルー・ナゴースキー「終戦後の『民族大虐殺』」
ニュースウィーク日本版・1995年5月17日号
42〜43ページ)
この記事の筆者は、公平です。 この記事は、更に、次の様に指摘します。
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八九年に共産主義政権が崩壊してからは、ポー
ランドとチェコの人々も、ナチスの蛮行による自
国民の苦しみだけでなく、ドイツ人の苦難にも目
を向けはじめた。
たとえばポーランドでは、旧共産主義政権はソ
連との同盟関係を正当化すべく「反独感情」をあ
おったのだと認識されるようになった。共産主義
時代には、ドイツ人への迫害について語ろうとす
るポーランド人はごく少数だった。
これまで東欧の人々は、歴史のこの一章をほと
んど無視してきた。一方、ドイツ人は恐怖の記憶
を克明に記録していたものの、それを口に出せな
かった。ドイツの民間人がこうむった苦しみもわ
かってほしいと願う半面、被害者としての立場を
強調すれば、歴史を書き換えようとしていると非
難されかねないからだ。
東欧からのドイツ人引き揚げに大きな悲劇があ
ったことに疑いの余地はない。行方不明者も含め、
死者は約二○○万人にのぼるともいわれる。
ドイツの敗色が濃厚になった時点でヒトラーが
戦争をやめていれば、多くの命が助かっていたこ
とだろう。だがそうはいっても、東欧でドイツ人
が迫害されたことは厳然たる事実だ。しかも犠牲
者の中心は、銃後に残った女性と子供、老人、病
人だった。
(アンドルー・ナゴースキー「終戦後の『民族大虐殺』」
ニューズウィーク日本版・1995年5月17日号
43ページ)
私は、チェコとポーランドが大好きです。そして、チェコ人やポーランド人があの時代苦難を体験した事は、もちろん知って居ます。しかし、その私ですら、そのチェコ人やポーランド人が、逆にドイツ人の女性や子供をここまで迫害したと言ふ事実を無視する事は出来ません。
あえて問ひます。−−ドイツは、本当に、一方的な加害者だったのでしょうか?
(続いてこれをお読み下さい)
↓
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=427925021&owner_id=6445842
2007年5月8日(火)
西岡昌紀
http://www.ihr.org/
http://www.jca.apc.org/~altmedka/nise.html
(この記事は、2004年に私が配信したメルマガの文章を
編集した物です)