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イスラエル・ロビーの圧力によって議会を追われたアメリカ議員たち  【ヘブライの館】
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投稿者 愚民党 日時 2009 年 1 月 12 日 19:44:06: ogcGl0q1DMbpk
 

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作成 1996.12

 

イスラエル・ロビーの圧力によって
議会を追われたアメリカ議員たち

 

 

■■チャールズ・パーシー議員の場合


●1967年に米・イリノイ州から選出された有力な共和党の上院議員チャールズ・パーシーは、1980年から上院外交委員会の委員長も務め、その議員の地位は不動のように思われた。だが、そのパーシー議員が1984年、イスラエル・ロビー団体「AIPAC」の圧力によってアメリカ議会の議席を追われてしまった。

この選挙結果は、その後「パーシー現象」とさえ呼ばれ、他の議員たちを震憾させるイスラエル・ロビーの脅威のシンボルとなった。

 


チャールズ・パーシー

 

●パーシーのイスラエル・ロビーとの関係は当初から悪かったわけではない。イスラエル国債の購入や経済援助、ソ連のユダヤ人の出国の支持など、長年、親イスラエル派としての議員経歴があったのだ。このため1972年に再選されたときは、70%という記録的なユダヤ人票を獲得している。


●このユダヤ人社会との“蜜月”にかげりが見え始めたのは、1975年、パーシー議員が中東の視察旅行から帰った直後の発言からであった。

「イスラエルは和平交渉の機会を見逃してしまった。アラファトPLO議長は他のリーダーたちに比べ穏健派の指導者だ。PLOがテロ行為を放棄し、イスラエルが安全で防衛可能な国境内で生存する権利を承認したら、イスラエルはPLOと対話すべきだ」というパーシーの発言から1週間後、そのオフィスには2200の電報と4000通の手紙が殺到した。

その95%がこの発言に反発するもので、シカゴ市内外のユダヤ人たちから寄せられたものであった。彼らは今後、選挙での支持をやめると脅迫した。だが、次の1978年の選挙では、前回の選挙で絶大な支持を得た。パーシーを、イスラエル・ロビーはあえて追い落とすために動くことはしなかった。



●そのイスラエル・ロビーが1984年の選挙でパーシー議員つぶしのために全米に動員をかけるきっかけの一つとなったのが、1981年、レーガン前大統領が提出したサウジアラビアヘのAWACS(空中警戒管制機)の売却問題であった。イスラエルとそのロビーは、AWACSによってイスラエル空軍の動きをサウジアラビアに調査されてしまうと、猛反対した。

当時、外交委員会の委員長であったパーシーは、アメリカの国益をイスラエルの国益より優先させ、議会で売却賛成の投票をした。「AWACSは攻撃用ではなく、防衛用の武器です。しかもアメリカが売らなくても、サウジアラビアは英国かフランスから購入しようとしたでしょう」とパーシーは、当時、売却に賛成した理由を語っている。

その判断の直前に外交委員会はイスラエルへ特使を送り、イスラエル情報機関の担当官の意見を聞いている。その担当官は、「AWACSはイスラエルとアラブ諸国の軍事バランスに影響を与えるものではない。しかしアメリカがサウジアラビアと軍事的な取り引きをやっているという象徴になることが気に入らないのだ」と答えた。

これに対しパーシーは、「それなら、アメリカがイスラエルに援助した戦車や戦闘機には、サウジアラビアで生産されたガソリンを使用すべきではない」と反論し、上院議員の同僚たちに「我々はアメリカに忠誠を誓うのであって、イスラエルに忠誠を誓うのではない」と訴えた。


●パーシー議員がイスラエル・ロビーの攻撃の標的にされたもう一つの大きな理由は、1982年、イスラエルのレバノン侵攻時にアメリカ製武器の使用を非難したことである。アメリカのイスラエルに対する武器売却の条件は、その武器を防衛の目的でのみ用いるというものであった。

だが、レバノン侵攻では明らかにイスラエルはこの条約に違反していた。外交委員長としてイスラエルを訪問したパーシーは、ベギン首相やシャロン国防相と会談し、この違反に強く抗議した。しかしイスラエル側は全く改めようとはしなかった。



●このようなパーシーの動きに、イスラエル・ロビーは1984年の選挙で本格的に反パーシー・キャンペーンに乗り出した。

トーマス・ダインAIPAC代表はイリノイ州出身の下院議員ポール・サイモンをパーシー議員の対立候補として担ぎ出した。その選挙参謀と選挙資金責任者の一人に、元AIPAC代表モーリス・アミタイが就任、反パーシー・キャンぺーンの戦略を専門的に研究させる学生を数人専従として雇い、またイリノイ州の外から100人を超す学生たちをサイモン候補の選挙運動のために動員した。

AIPACの戦略は、パーシーを「反イスラエル」「議会でのイスラエルの最大の敵」として描き出し、攻撃する方法だった。だが、AIPACの調査によれば、それまでの議会でのイスラエルに関する重要な決議では、パーシーは89%のイスラエル支持の投票をしている。一方、サイモンは99%という結果が出た。これでは大差はないため、AIPACはその調査の基準を変えた。小委員会での不透明な投票や署名のない決議にまでその審査の対象を広げたのである。この結果、パーシーのイスラエル支持率は51%に落ち込んでしまった。

サイモン陣営にとってこれはユダヤ人から票と選挙資金を獲得する絶好の材料となった。この宣伝によって、サイモン陣営はシカゴ市内外のユダヤ人から莫大な選挙資金を獲得し、その額は全選挙資金の40%の301万ドルにまで及んだ。


●また南カルフォルニアのユダヤ人不動産業者マイケル・ゴーランドは、個人の選挙寄金の制限額1000ドルを遥かに超える120万ドルという大金でテレビや新聞の広告を買い、反パーシー・キャンペーンを展開した。その新聞の全面広告には、アラファトPLO議長の写真を掲載し、「パーシーはこの男を“穏健派”と呼んだ」というタイトルをつけた。このような悪質なキャンペーンに反発する著名なユダヤ人数十人がパーシーを援護する署名広告を出したが、ほとんど効果はなかった。


●果たして選挙の結果、8万9000票の差でパーシーは敗れた。1972年には70%も獲得したユダヤ人票は、この選挙では35%までに落ち込んでしまった。これはAWACS問題でユダヤ人の不評を買ったレーガン大統領が、1984年の大統領選で獲得した得票率と同じという低い支持率であった。

ダインAIPAC代表は、「全米のユダヤ人がパーシーを追い落とすために集結した。今や政治家、公の立場にある人々、またはそれを志す人々は、私たちユダヤ人社会の“メッセージ”を受け取った」と豪語した。

 


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■■ポール・マクロスキー議員の場合


●親イスラエル派だったポール・マクロスキー元下院議員が、イスラエルの政策に疑問を抱き始めたのは、「一国以上の正規軍に攻撃されたときのみ使用できる」というアメリカ政府との合意を無視して、1978年にイスラエルがアメリカ製のクラスター爆弾を南レバノンで一般市民に対して用いたときであった。1982年のレバノン侵攻でもイスラエルは再びこの協定を破った。

「トルコがキプロスでこの協定を破ったとき、アメリカ政府は武器援助を3年間停止した。しかしイスラエルの場合にはアメリカ政府は停止しなかった。イスラエル・ロビーの力が余りに強くて、政府や議員たちはユダヤ人社会を敵に回すことを恐れたためです。私はこれを見逃すことができなかった。」

イスラエルの政策に対して批判的になった理由をマクロスキーはそう説明する。

 


ポール・マクロスキー

 

●その後、マクロスキー議員はアメリカの多額なイスラエル援助を修正すべきであると議会で主張した。その内容は「イスラエル占領地であるヨルダン川西岸でのイスラエル人による入植地の建設を中止させる。もしイスラエルが同意しなければ、入植地建設のために使われると想定されている1億5000万ドルのイスラエル援助を削減すべきだ」というものであった。

だが他の議員たちは、その修正案への投票を迫られることを恐れて、その案の提出をマクロスキー議員に思いとどまるように説得しようとした。アメリカの海外援助の4分の1という高い率のイスラエル援助を快く思わない議員たちも、これに反対していると記録されることは避けたがる。AIPACを恐れるからだ。

しかしマクロスキー議員はその“タブー”を敢えて破った。更にマクロスキーは『ロサンゼルス・タイムズ』紙上で、「AIPACがあまりにも強い影響力を持ち、中東の真の平和の障害になっている。一方、アメリカとイスラエルの国益は異なるにもかかわらず、在米ユダヤ人社会が議会にイスラエルを支持するよう強要している」とイスラエル・ロビーを公に非難した。



●このようなマクロスキー議員の言動は、間もなく在米ユダヤ人社会のマクロスキー離れや攻撃となって跳ね返り、その反発は選挙にも直接影響を及ぼすことになった。地元の新聞も「マクロスキー議員はイスラエル・ロビーがアメリカの国益を破壊するのに懸命になっていると非難中傷している」と強い調子で彼を批判した。

1982年、マクロスキーが共和党からカルフォルニア州の上院議員候補に推薦されたとき、イスラエル・ロビーは“マクロスキー降ろし”に在米ユダヤ人社会を動員したのである。果たして選挙結果は、トップに10%の差で落選した。『ワシントン・ポスト』はこの選挙結果を「ユダヤ人の選挙運動がマクロスキーを破った」と結論づけている。


●ユダヤ人社会のマクロスキーへの攻撃の手は、彼が議会を去ったあとも止むことはなかった。マクロスキーは大学の同窓生の法律事務所で弁護士の仕事に戻ろうとした。だが、この事務所の最大の取引先である会社の社長は、もしマクロスキーを雇うつもりなら取引先を他の法律事務所に移すと通達してきた。「イスラエルに対するマクロスキーの見解のため」という理由だった。友人に迷惑がかかることを懸念して、彼はその法律事務所での仕事を辞退した。

今度はサンフランシスコ市のある法律事務所から弁護士として招聘された。しかし彼に対する圧力はそこまでついてまわった。この事務所の取引先のある銀行の主要株主だと名乗る人物が、「PLOとその議長アラファトを支持し、反ユダヤ主義者として知られる人物を雇うことに抗議して、次の株主総会で取引法律事務所を変えることを提案するつもりだ」と伝えてきた。だが、事務所側はこれを無視した。結局、その銀行は取引先として残った。



●ユダヤ組織「ADL(ユダヤ名誉毀損防止連盟)」の追及は、マクロスキーの私生活にまで及んだ。ADLは彼の下院議員時代の発言や行動を記録したメモと、彼が公の場で発言する場合に反撃するガイドブックを全米のADL支部に配布した。またその妨害の手は大学にまで伸びた。スタンフォード大学でアメリカ下院議会について講義を依頼され、これを引き受けたマクロスキーに、ユダヤ人学生組織「ヒレル」は猛反対したのだ。この圧力に主催者の学生委員会側は、講義に呼ぶゲストの選択の自由やその報酬について様々な制限を加えてきた。

これに対しマクロスキーは、「これは一種の反ユダヤ主義の裏返しだ。我々はこの人物にスタンフォード大学で教えることを望まない、この教材を使って欲しくないと圧力をかけているのはユダヤ人社会なのだ」と強く反発した。

 


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■■ポール・フィンドリー議員の場合


●22年間、下院議員を務めてきたポール・フィンドリーがAIPACの標的となったのは、彼が1978年にアラファトPLO議長と会談して以来、パレスチナ人の自決権にも理解を示す態度をとったことによる。

イランのアメリカ人人質解放のために、秘密裏にアラファトの援助を要請するアメリカ政府の求めに応じて、PLOとの仲介役も果たした。

 


ポール・フィンドリー

 

●イスラエル・ロビーのフィンドリー潰しは1980年の選挙から始まった。対立候補の選挙資金を集めるため、AIPACは、「フィンドリーはアメリカ議会史上、最悪の敵で、反ユダヤ主義者」と全米のユダヤ系新聞に広告で訴え、「この議員を破るために寄金を」と呼びかけた。

またフィンドリーの講演や選挙演説にも、AIPACが動員したと思われる運動員たちが、演説中に「PLO支持者!」と罵声を浴びせ妨害した。シカゴでの外交問題の講演では、ある男が「この会場に爆弾が仕掛けられている!」と叫んだため会場は大混乱に陥り、講演が中止されてしまったこともある。


●親友やこれまでの支持者たちもフィンドリーから遠ざかっていった。友人で彼の支持者であった元連邦準備委員会の委員長は、選挙のための推薦状を依頼したフィンドリーに、「君のPLOに対する見解のために、それはできない」と通告してきた。

同じ共和党の大物政治家たちも、フィンドリーの選挙応援を躊躇するようになった。大統領候補となったロナルド・レーガンがフィンドリーの地元を訪問したとき、大統領選挙対策本部が「フィンドリーと親しくすると、ユダヤ人の多いニューヨーク市での票を失ってしまう」と警告したため、レーガン候補の訪問中も、その運動員たちはフィンドリーをレーガンに近づけなかった。


●様々な妨害にもかかわらず、1980年の選挙で辛くも再選を果たしたフィンドリーも、2年後の選挙では、さらに強化されたAIPACの反フィンドリー・キャンぺ一ンの影響で、遂に千数百票という小差で敗れてしまった。このときもダインAIPAC代表は、そのフィンドリーの敗北がAIPACの力によることを誇示した。



●自らの体験で、アメリカ議会におけるイスラエル・ロビーの強大な影響力を知ったフィンドリーは、その後、このAIPACの実態を丸2年がかりで取材・調査し、著書『彼らは敢えて証言する』を出版した。その本はワシントンを中心に大きな反響を呼び、9週間連続で『ワシントン・ポスト』紙のベストセラーのリストに挙げられた。

 

 
ポール・フィンドリーの著書
『彼らは敢えて証言する』

 


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■■ウィリアム・フルブライト議員の場合


●日本でもおなじみのウィリアム・フルブライト。彼は戦後日本がまだ貧しかったときに、日本の青年たちのためにアメリカ留学の基金をつくった上院議員として有名である。

 


ウィリアム・フルブライト

 

●しかし今、フルブライトは議員ではない。年を重ねたから辞めたのではなく、イスラエルにとって不利な発言をしたから、AIPACによって落とされた。

フルブライトは、アメリカ外交はアラブ諸国とイスラエルとのバランスの上に立たなければならない、という意味の発言をした。それがAIPACの激しい攻撃を受けたのである。

 
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