和田春樹 わだ・はるき 一九三七年生まれ。東京大学名誉教授。ロシア・ソ連史専攻。現代朝鮮研究。著書に「朝鮮戦争全史」ほか。藤原帰一 ふじわら・きいち 一九五六年生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科・法学部教授。国際政治学専攻。著書に「平和のリアリズム」ほか。 姜尚中 カン・サンジュン 一九五〇年生まれ。東京大学大学院情報学環教授。「日朝関係の克服」「在日」「悩む力」など。 --- 二〇一〇年は「韓国併合」一〇〇年に当たります。明治維新直後から、日本は朝鮮を圧迫し始め、日清戦争(一八九四〜九五)は朝鮮の支配をめぐる清との戦争でした。戦争に勝利すると、日本軍部隊がに王宮に侵入して王妃を虐殺するなどしていますから、一九世紀末以来の一貫した朝鮮への介入と圧迫、その結果としての「一九一〇年」ということになります。つまり日本と朝鮮の関係をめぐる近現代史の象徴的な年として、「一〇〇年」を捉えていいと思います。 「韓国併合」といっても、いまの大韓民国ではなくて、かつての大韓帝国のことですが、日本の敗戦と植民地の解放から六五年経った今も、「日帝三六年」はなお日本と朝鮮半島の間に大きな課題を残しています。北朝鮮と日本はいまだに国交もなく、これはかなり異常な事態です。韓国とは一九六五年に国交を正常化しましたが、植民地支配の過去は様々な局面でよみがえってきます。その一方で、ここ一〇年くらいの間に、日韓の文化交流や人的交流はかつてないほど深まっていることも事実です。まず、こうした問題意識について、どのようにお考えでしょうか。
新たな「鳩山談話」を 和田 単なる時間の区切りに過ぎないとはいえ、日本が朝鮮を併合してから一〇〇年経ったことには重い意味があると思います。一九世紀末にアメリカがハワイ王国を併合しましたが、ハワイ王政打倒から一〇〇年後の一九九三年、アメリカ議会が採択した決議にクリントン大統領が署名をしました。この「クリントン・アポロジー」のように一○○年という節目は過去を振り返って一つの歴史認識を持ち、それに基づいて各国との関係を考えていくきっかけとなります。アメリカの前例に倣って日本は韓国併合を見つめ直すべきだと思います。 まったくの偶然ですが、ちょうど自民党の長期政権が終わって、政権交代が実現しました。鳩山内閣の下で二〇一〇年、つまり韓国併合一〇〇年を迎えて、新しい日本としてこれまでの歴史認識を超えたような声明を出すことができると思います。九五年の「村山談話」ですでに植民地支配がもたらした損害と苦痛については反省、謝罪すると表明していますので、「鳩山談話」のようなかたちで、植民地支配がなぜ起こったのか、併合はどのようになされたのか、併合条約とはどういうものであったかについて日本政府の見解が示されることは大きな意味を持つでしょう。 日韓条約が締結してから間もなく四五年経ちますが、その間、韓国併合条約・協定を「already 無効だ」とする日韓基本条約第二条をめぐって日韓で別々の解釈をしてきました。新たな「談話」でこの問題にも決着をつけることができるはずです。日韓の歴史認識のミニマムな統一を図る時機が来ています。 その上で一〇〇年経っても国交がない、植民地支配の清算が六五年間なされていない朝鮮民主主義人民共和国、北朝鮮との国交が、これを機会に果たされるのが当然であると思います。 さらに懸案としては、韓国との間には竹島(独島)問題があります。(乙巳)保護条約(一九〇五)から一〇〇年を迎えた二〇〇五年に、日本で竹島の日が制定されて以来、大きな懸案となっていますが、日本の朝鮮支配と強く結びついたこの問題の解決も視野に入れるべきではないかと思います。 それから、謝罪の意を表明すれば、補償の問題が出てきます。これも長らく議論されていますが、全面補償、あるいは追加補償を主張する声は傾聴すべきとは思いますが、現実的に考えれば、韓国政府が独自に強制連行労働者に対する見舞金の支給、生存者への医療福祉支援を始めていることに対して、日本政府、企業、国民は沈黙を続けていていいのかどうかをまず考えるべきでしょう。 それから最後に、李明博大統領は併合一〇〇年に当たって天皇の訪韓を求めると言われましたが、私は天皇・皇后が高宗と閔妃の墓に詣でるというのは、併合一〇〇年に当たっての一つの象徴的儀式として必要ではないかと思います。 姜 いま和田さんが大体の課題を設定されました。基本的には、過去だけでも現在だけでもなく、過去のために現在、現在のために過去があることが重要であると考えます。 ロンドン版『エコノミスト』一一月五日号の冷戦崩壊特集には"So much gained, so much to lose"とありました。朝鮮半島にも同じことが言えると思います。植民地とされた側の国にとって、解放からの六〇年とは、「たくさんのものを得て、たくさんのものを失った」ことに尽きる。 韓国はいま、経済指標で世界一〇位ぐらいの産業国家となっている。我々の学生時代には想像もできなかったことですが、「漢江の奇跡」と言われる飛躍的な経済成長を喜ぶ人たちはたくさんいます。北朝鮮も落ちぶれたとはいえ、かつては社会主義国家の「優等生」と言われた。しかし、いまだ統一されたコリアは実現していないし、依然として分断は続いています。在日韓国・朝鮮人も同じような境遇にあるのではないでしょうか。ある意味では多くのものを得たけれど、同時に多くのものを失っていると言えます。在日韓国・朝鮮人も、分断された朝鮮半島と同じく、共に分かち合えるようなアイデンティティを未だ持ち得ていないのです。 このように朝鮮半島も、在日韓国・朝鮮人も、砕け散り、散乱した断片のような歴史を歩み、今日にいたっているのです。たとえ、その断片の一つ一つがかけがえのないような貴重で豊かなものであっても、そこには大きな苦渋がともなっていました。朝鮮戦争(一九五〇〜五三)という、未だに終わってはいない「内戦」のために、分断国家の南北を問わず、そして在日や在米、在中、在口を含めて、その国籍や居住の形態の違いはあるものの、世界中のコリアン系の人々にとってそのような苦渋は終わってはいません。 そして二〇一〇年は韓国併合一〇〇年であり、朝鮮戦争六〇年であり、四・一九学生革命八○年であり、光州事件から三〇年の節目の年でもあります。否応なしに、朝鮮半島と韓国の激動の歴史が刻み込まれている年です。このような歴史をくぐり抜けてきた韓国・朝鮮人と、沖縄など一部を除いて、「平和憲法」と日米安保のもとで、「冷戦」というある種の「城内平和」の戦後史を歩んできた日本国民との間に、六〇年にわたり「隣人(となりびと)」としての同時代的な共通の体験が分かち持たれてきたか、甚だ疑問です。そのギャップが、植民地支配という過去の歴史をどうみるのかについて、双方に著しいすれ違いを生み出しているのではないでしょうか。 さらに韓国内だけをみても、満州帝国陸軍軍官学校出身の朴正煕氏によって「漢江の奇跡」が成し遂げられ、その独裁政治に真っ向から抗った金大中氏によって民主化が実現されました。韓国は、シンボリックにはこの二人の大統領経験者が楕円の二つの中心となりながら、解放後の歴史を歩んできました。そして今でも、両者の対立は、韓国社会に鋭い亀裂となって続いています。つまり、韓国国民は、大韓民国という国家の統合されたナショナル・ヒストリーを分かち持つことができないでいるのです。 ヨーロッパの状況は東アジアと違い、ノルマンディー上陸作戦を記念する式典には、ヨーロッパ諸国がナチズムからの「解放」を祝い、ドイツ国民の代表者も招待されます。日本の場合は、日本軍国主義からの「解放」ではなく、あくまで「終戦」なのです。日本国民には軍国主義からの「解枚」という共通認識がどこまであるでしょうか。 歴史的に見れば、日本が朝鮮半島を植民地化したことは、最終的には”満蒙生命線論”へとつながっていきました。歴史のifですが、併合がなければ中国への足がかりもなかったわけで、大陸への膨張も私たちの見ている現実のようにはならなかった可能性があります。日本は侵略の意図を最初から持って、一九四五年を迎えたのではなく、そこに至る過程は実は非常にジグザグなものであった。そのなかで、日本の歴史の進路を大きく誤らせたという意味において、韓国併合を日本側がどうとらえるかという視点は、まだないように感じます。 帝国の暴力、国民国家の暴力 藤原 はじめに、北半分と国交正常化していない状況が異常だというご指摘についてですが、国交が存在しないことは国際関係を維持する上で大きな拘束ですから、それは異常といって差し支えないと思います。ただ、国交が正常化し得ない責任が日本政府にあるということであれば、私は賛成できません。さらに、植民地支配の責任を認識することは正当ですが、それがどのような言説につながるかについては注意が必要です。たとえば中国に対して、日本は侵略を行った側です。それは間違いありませんが、責任の自覚のために、現在の中国政府による苛烈な人権抑圧については語らない、客観的な認識を避ける態度が生まれたことも事実だと思います。 日本の敗北で軍国主義からアジアが解放された後、韓国でも北朝鮮でも中国、台湾でもそれぞれに、独裁的な政権が出来上がった。つまり日本の支配によって苦難を経験した人たちが、今度は独裁政権によって虐げられる状況が各地で続いた。その人権剥奪に対して、どれだけの関心が払われてきたのか。これは中国や北朝鮮が独裁政権であるから我々は正しいのだという議論ではなく、一つの認識が異なった認識の可能性を排除してはならないということです。 併合から一〇〇年が経つたいま、植民地支配を振り返るのは、時宜を得た必要なことです。過去の語り方は様々であり、客観的な事実関係を歴史家が検証したところで、物語として組み立てられたものを多くの人びとが受け入れる状況は繰り返されます。かつては、朝鮮戦争は北朝鮮が仕掛けたものだと考えられていた。いま議論されているのは、韓国併合が朝鮮半島を近代化し、恩恵をもたらしたという物語です。この物語は日本側からすれば、植民地支配という責任に向きあうことを回避させる、便利な議論です。しかしこうした議論の一つ一つに付き合うのではなく、ここでは日本の植民地支配とは何だったのかを考えてみたいと思います。 明治維新は、佐藤誠三郎の議論に従えばナショナリズムの革命であり、国民国家をつくり出す大きな転換だった。キャロル・グラックが指摘するように、様々な象徴を使って国民というシンボルをつくり、普及させていく。こうした国民国家の形成は日本だけでなく、統一後のイタリアでもドイツでも起こっています。 日本の場合、多くの人が寄りかかる擬制、つまりフィクションであるともいえる国民国家ができていくと同時に、日本は帝国に変わっていくわけです。帝国と国民国家の違いは、帝国は多民族から成るということです。多民族の帝国と国民国家の関係は歴史上様々な形で錯綜します。たとえばイギリスのように・・・他のヨーロッパ諸国も遅れてそうなりますが・・・本国では国民国家、海外では帝国、と使い分けをする。しかし支配される民族の自覚・要求に、帝国は絶えずさらされることになるので、国内/国外の使い分けはうまくいかなくなってくる。オランダ領ジャワでは、ジャワ人の権利要求にオランダが直面し、日本の台湾・朝鮮統治も様々な言論にさらされた。問題は、日本ではこのあとのステップ、相手に独立されるという過程が抜けてしまったことです。植民地支配を続けたければ、支配している相手、宗主国と違う民族に対しても人権を付与せざるを得ない。ところが、人権を付与することは帝国の解体そのものです。イギリスやフランスは植民地の独立という苦難を伴うプロセスを経験しています。 日本の場合には敗戦によって、植民地支配を清算する、あるいは清算を強いられるという経験をした。そのことによって帝国と国民国家のダブルスタンダードによる矛盾を無視することが容易になってしまった。 さらに、第二次世界大戦後の日本には、それと異なる意味の責任も幾つかあると思います。戦後、海外領土を清算された日本は国民国家に戻るわけですが、日本の中にはエスニックな意味で日本人でない人がたくさんいた。つまり国民国家に戻ると言っても、エスニックな日本人の地位はどうなるのかという問題が起こる。そこでテッサ・モーリス=スズキさんが『北朝鮮へのエクソダス』(朝日新聞社)で見事に描いたように、基本的には棄民政策として朝鮮人の帰還事業が進められる。イギリスやフランスによる植民地支配が、マグレブ地域の人々とか、あるいはインド人、パキスタン人を本国で排除することができない状況に直面したのと、全く違う姿勢です。 多くの日本人は帝国の清算を望ましいことと捉え、日本人の国家として日本が存続することも望ましいと、保守・革新の違いを問わず長らく受け入れていました。中には大沼保昭さんのように、在日朝鮮人の法的地位について、コリアンが外国人であるという前提自体の正統性に切り込んでいった人もいましたが、多民族の帝国を営んだことの責任という文脈から、戦後の在日朝鮮人の問題を捉える視点は希薄だったと思います。 帝国の時代は終わった、その責任は国と国の間の戦争責任の問題であると考えると、多民族の帝国を営むことによって生まれた様々な立場が、国民国家へと移行することでどう変化したのかという問題に答えられなくなる。帝国の「二級市民」であったコリアンが、今度は国民国家の下での外国人という存在にされる。帝国が暴力だとすれば、国民国家になること自体も暴力性をはらむのです。その問題にまで目を向ける作業が必要なのではないか。 植民地支配という問題 --- 重要な問題を提起されたと思います。帝国の遺産としての在日韓国・朝鮮人の問題を必ずしも自覚してこなかった、そのこと自体に近現代史を貫く問題が孕まれているというご指摘だと思います。 和田 終戦で日本人が感じたのは、軍国主義からの解放とそれから専制的国家(天皇制国家)からの解放でした。もう一つの大きい問題だった植民地支配の問題は、戦後の反省において日本人の心から長い問、消えていた。それは『世界』でも、朝鮮問題に対する反省は、鈴木武雄氏の「朝鮮統治の反省」--- つまり皇民化政策の反省 --- という一本の論文しか載らなかったことにも現れています(一九四六年五月号)。 植民地についての問題は大きく言えば二つあります。海外での植民地支配に対する清算の問題と、日本の中にいる旧植民地の住民という、自分たちの国家の中に残された問題です。後者の、国内の問題は、やはり現実に人がいるわけですから、在日朝鮮人問題として意識はされていた。しかし、治安的な問題から絶えず外に「押し出す」対象と考えられていて、海外に植民地として存在した国と結び付けて歴史的な、帝国主義、植民地支配の清算処理という視点からはなかなか自覚されてこなかったと思います。 姜 国交正常化が実現されないことを日本政府だけの責任として捉えることはできないでしょう。ただ、正常化が成し遂げられていないことを異常とは思わない感覚は、帝国から国民国家へと変わるというか、単一民族神話の国民国家へと収縮していく過程についての二点目のご指摘と関連していると思います。 日本の本国と植民地の二重構造ははっきりと切り離されていたわけではなく、植民地の変化が日本での変化を先取りするような形で支配と従属だけでなく、相互依存の複雑な様相を呈していたと思います。とりわけ植民地は、総力期の戦時動員体制のある種の先駆的な「実験場」であり、そこで実験されたことが日本に還流する形で動員体制が形作られていきました。こうしたことがなぜ日本帝国の場合にとくに顕著であったのかと言えば、やはり日本、中国、朝鮮半島が置かれた一九世紀末の、歴史的かつ地政学的な条件にまで遡ると思います。基本的にヨーロッパの植民地帝国はヨーロッパの外側へと領土を拡大していきましたが、レイトカマーであった日本は地政学的にも、歴史的かつ民族的にも、いちばん近しいところに向かわざるを得なかった。そして帝国本体を守るために、その周辺部分はどんどん最前線になっていく。満蒙問題は、植民地朝鮮を守るためだ、と。朝鮮を守ることは日本を守ることだ、と。地政学的な制約が日本帝国には最初から課されていた。結局日本は、矢内原忠雄が言っていたように、レイトカマーであるがゆえに早熟な帝国主義国家へと変身していく駆動力があった。植民地支配も、満州事変も、世界史の全体の流れから一テンポずつ遅れている。遅れの由来は、東アジアの地政学的かつ歴史的な環境が大きいと思います。 藤原さんのおっしゃる帝国の問題とはここにある。清朝時代、ある種の小中華思想に固まった朝鮮半島と中華秩序の周辺部に位置づけられていた草創期の明治日本との間で改めて国交関係が問題になったとき、日本側が「天皇」という言葉を用いることを、華夷秩序の中心にいると自負していた朝鮮政府は絶対に許さないわけです。近代日本は、そうした旧来の華夷秩序を転覆し、ウェストファリア体制的な秩序を東アジアに押し付ける、いわばその「出先機関」のような役割を果たすことになりました。と同時に日本は、帝国への道を歩み始めることになるのです。 藤原 日本がレイトカマーとして参入したとき、すでに世界地図はほとんど分割された状態でした。ただ、レイトカマーとは日本だけでなくて、一九世紀のごく終わりから帝国となりつつあったアメリカもそうです。和田さんはアメリカのハワイ併合をご指摘になったけれど、そのような後発帝国主義国の一群のなかで、日本と他の国の違いがどこにあるのか。まずこれらの全てに共通した特徴は、最初から国策として植民地支配が進められていったことです。東インド会社のように、冒険家による略奪に支援を与えるわけではありません。一九世紀末には、官僚が次第に海外へと派遣されるようになり、本国の領土と同様に海外の植民地経営を国家事業として進めていくスタイルが出てきます。これはドイツ、アメリカ、日本に共通しますが、実はイギリスもフランスも、二〇世紀後半には、このスタイルを採り始めます。 二つ目は、地政学的な問題ですが、植民地戦略と本国の軍事戦略の結びつきが強まっていくことです。これは植民地分割がほぼ終了したことと関わりますが、植民地獲得が本国の防衛と結びつけて考えられていきます。アメリカと日本はこの点でよく似ていて、アメリカが、フィリピンを重要視したのは、砂糖などの利権目当てではなく、補給港がアメリカの軍事戦略に大きな役割を果たしていたからです。日本が植民地経営を地政学的な利益としてとらえていたことは広く知られています。 結果から見れば、アメリカのコロニアリズムが日本のそれに勝ったわけですが、アメリカ内部では、植民地支配が得かどうか議論は分かれていきました。植民地から独立したアメリカが、植民地を持っていいのかという大きな疑問の他にも、自由貿易を行うための市場として確保する方が本国にとってむしろ有利じゃないかという考え方も根強く存在した。キューバは独立運動のためではなく、アメリカが主体的な判断で手放したわけで、フィリピンも同様です。 日本は、この点で異なります。確かに石橋湛山や三浦銕太郎は自由貿易から日本経済をとらえていて、植民地領有や中国への軍事侵略は日本の損であると主張していた。しかし、これらは少数派で、パン・ナショナリズムが登場してきます。日本の地政学的な権益が、同時に日本国家の防衛、そして民族の生存と結びつけられて植民地支配は民族解放に貢献するとのレトリックが繰り返し使われます。アメリカが人権概念を広め自治能力を持つフィリピン人を育むために植民地統治をしたという主張と似ていますが、アメリカの場合は、人権の概念に依っている。ところが日本は、一方では、民族自決、弱小民族を支えるための支配という議論を掲げながら、一方では皇民化教育など、ほかの植民地帝国では例が少ないような本国に対する同質化を進めていく。それは、言語教育から歴史教育、さらに国籍の概念、国民の概念まで全てに行き渡っていた。もちろん日本の一員となったところで日本国民として認められるわけではなく、二級市民になるわけで、二重性があります。 今でも続けられる植民地支配を正当化する言説は、世界を、国家というよりは、民族の生存地域に分割して考えていく見方です。他民族を支配している日本という単位をどのように観念するかという、その視点が完全に抜け落ちている。つまり「大日本」なのか、それとも多民族の帝国なのかというジレンマがあって、実は第二次世界大戦開戦前からこの問題は自覚されていた。コリアンの人権を完全に排除して帝国が経営できるのか、早い時期から問われていた。その流れは結局日本の中で大きくならない。日本という国民国家の膨張としての帝国、ナショナリズムの膨張としての帝国という観念が支えられ続けた。 国家事業としての植民地支配は、結果的には破綻します。様々な先端的な政策の実験場のように巨額の投資・開発が行われるのですけれど、採算が合わない。領土的支配を完成すればするほど、かりに略奪を重ねたとしても、コストがベネフィットを上回ってしまう。いちばん儲かる植民地経営というのは植民地にしないことであって、アフリカの奴隷貿易とか、あるいはコンキスタドールのラテンアメリカ支配です。だから、植民地統治が国家的な支配に変わることは、実は植民地統治の自殺だったわけです。その意味ではアメリカの進めていた自由貿易を通じた権益の拡大という方向が、明らかに時代の要請にかなっていた。 敗戦後、日本は降りて、自由貿易と一緒になる。ただ、その時に、ナショナリズムの膨張とパン・リージョナリズムで正当化してきた、不思議な帝国という問題は全部残ってしまう。どういう残り方をしたかというと、国民国家に戻ったということで、帝国であった過去を忘れてしまう。チャイニーズやコリアンは「海の外にいる被害者」と位置づけられて、日本の国内問題としてはとらえられない。そしてその背後にあるのは、アジアというシンボルを独占しながら、他の民族の独立のために日本が様々な権力行使をすることが正当化されるという観念で、それは他のナショナリズムの存在を、実は否定する議論です。帝国の清算というヨーロッパでの社会民主主義の大きな課題に、日本では直面しない。 和田 最初に出てくる日本のレトリックは、朝鮮の独立のために朝鮮を支配するという論理ですね。日清戦争・日露戦争は全てそうです。宣戦の布告は全て、そういう言葉に溢れています。しかし、それは矛盾が甚だしく、やっているのは朝鮮の独立や自決を踏みにじることです。ただし、それが皇国臣民化問題になってくると、朝鮮人は日本人と一緒に日本人となることで真の独立を享受するという神話の中に吸収される構図になります。 しかし、東南アジアにおいては、日本の帝国的な支配の拡大の試みが民族の独立を進めることに効果を上げた。欧米帝国主義の植民地へと日本は進出していきますが、その後日本の支配は早く崩れたため、結果的に独立を助けたためです。その意味で、東北アジアと東南アジアとはやや違う性格を持っている。 明治維新後の富国強兵、領土拡張という流れにおいて、その膨張の最初の対象として朝鮮に向かうことは、非常に強い固定観念というか、とりつかれた観念になっていた。これは、地政学的な脅迫観念に、大きな文化的恩恵を受けてきた反動として早くから朝鮮を弱者として見下してみる態度が結びつき、非常に特殊な、病的ともいえる行動がとられました。だから今日もこんなに悩ましい問題であって、朝鮮人をなお苦しめているし、日本人も悩んでいることではないかと思います。 姜 植民地研究をした矢内原忠雄は、結局日本の植民地支配はフランス型の国策先行型だったと分析しています。イギリスはいわば自由貿易帝国主義であり、植民地支配や帝国主義にも歴史的な個性がある。韓国併合は、アフリカやアジアや中南米に全く異文化のイギリスやフランスが進出して植民地化するのとはかなり違っています。中国への列強の侵略とも違う面がある。古代からの関係が歴史的にずっとあって、そのレトリックの上で植民地支配が行われ、正当化された。韓国の側は、逆に古代史以来の歴史を想起すればするほど、この植民地支配への怒り、反発が出てくるのです。 敗戦後、日本は国民国家に収縮し、日本はホモジニアスな(同質的な)社会なんだ、それが国民的な「特殊性」なんだという新たな「国体ナショナリズム」あるいは「文化ナショナリズム」が広がっていきました。そういうなかで、植民地主義の歴史は、戦後の日本国民にほとんど深い影響を与えませんでした。敗戦とともに植民地を手放すことになったからです。「これでせいせいした」、そんな感慨が多くの国民のホンネだったのではないでしょうか。それは、幸か不幸か、「脱植民地化」に伴う痛みを戦後の日本は経験せずに、植民地主義の歴史をあっさりと洗い落とすことになったと言えます。 そして朝鮮戦争です。この旧植民地に勃発した「内戦」は日本にとって経済的な「神風」になりました。しかし、北朝鮮からすると、国交のない旧宗主国の日本は米軍の最前線基地となったのですから、二重の意味で日本に対する敵愾心が強くなっていくことになりました。無辜の市民を拉致するという、言語道断な国家犯罪は七〇年代の半ばからと言われていますが、その背景にはそうした歴史的な経緯があったと思います。 「朝鮮戦争」と冷戦がもたらしたもの --- 日本の敗戦からわずか五年で朝鮮戦争が起きた。世界的には冷戦ですが、東アジアにとっては完全に熱戦になって、それが現在にいた る東アジアの構造を大きく規定しています。藤原さんは、日本の植民地支配たったところが独裁国家になった、と。ばわれたが、実はそれは米ソ(中)冷戦の最前線国家として、韓国も台湾も北朝鮮も中国も位置づけられたからですね。 和田 ここで触れなければならないのは、共産主義運動の存在です。資本主義批判の運動として二〇世紀に起こって、ロシア革命を起こし、やがてコミンテルンを通じて帝国主義批判という形で植民地地域に普及されていきます。その中で最大の共産党として現れて来たのが中国共産党です。共産主義運動は、世界を変えていく大きな力として人々が意識し、期待をかけた。二〇世紀後半には米ソ冷戦になり、国家間の関係になるが、前半は民族解放、植民地解放の重要な運動であった。単純に人権抑圧国家だったというだけではない。 冷戦は基本的にはヨーロッパ的現象で、アジアにおいては冷戦はほとんど大きな影響を持たなかった。アジアにおいては、ナショナリズムの線上で、共産主義者と非共産主義者の、新しい国をつくる争い、戦争が強く出てきた。中国では国共内戦、朝鮮半島では朝鮮戦争、ベトナム戦争もそうです。 日本だけが、その熱戦的状況から外れて、ヨーロッパ的な冷戦の状況にあった。日本だけが平和憲法の下、戦争には加わらない、戦死者も出ない、しかも周りの戦争の利益は全部享受した。朝鮮半島では、韓国は北と戦争状態を続けながら、一方でベトナム戦争に加担した。北はこの戦争状態の中で孤立し化石化していった。今日北朝鮮と日本が国交を持っていないのは、確かに日本だけの責任ではないけれど、ロングピースを享受した日本は、周りの熱戦的状況の中で苦しんできた国々に対して手を差し伸べる義務があるのではないか。かつての植民地支配国としてもそうあるべきだと思います。 藤原 ヨーロッパの冷戦とアジアの冷戦で違いがある点には異論がありません。その違いの一つは、ワシントンの政策であり、もう一つは、広い意味の中国革命のプロセスだったと思います。中国革命とは、四九年の権力樹立だけではなく、辛亥革命からの長いプロセスで、その中で中国における政治変動は、ただ中国本土だけではなくて、海外のチャイニーズ(華人)に大きな影響を及ぼした。たとえばシンガポールの南洋共産党とか、いろいろな共産主義運動が、外に広がっていった。 一方では、中国における大きな政治闘争がチャイニーズ以外の民族の政治的な自己実現の機会とも見倣されて、朝鮮半島、ベトナム、マラヤ、オランダ領ジャワなどに広がっていった。こうした勢力は、日本統治下であれば日本に対する抵抗運動になりますが、時にはチャイニーズを抑圧するナショナリズムともなった。 すでに米国の冷戦政策が始まる前から、こうした下地が出来ていた。こういう下地があった中での朝鮮戦争と考えたほうが正確だろうと思う。ワシントンの戦略とかコミンテルンの指示だけでこの地域を考えると、事態を誤ってとらえることになる。 日本はどうだったかといえば、冷戦時代、日本の国内にも左右対立はあったが、基本的には統治の安定は壊れていない。当時の朝鮮半島や中国などの混乱と比べれば、統治が敗戦とともに弱体化するという経験はほとんどない。それが周辺地域との非常に顕著な違いだったと思います。 冷戦時代は、混乱していて独裁政権の下に置かれている周辺の気の毒な人たちと、相対的安定の中で平和憲法を持ち、人権保障を勝ち取ろうとしている日本との間の顕著な違いが、日本の中に、"日本の平和”としての平和主義、それから”日本の民主主義”としての民主主義という観念を非常に強く根付かせていったと思います。 日本における、東アジアでの共産主義体制を見る議論には、心情的に同化するものから反発するものまで様々ありながら、それは民主主義を裏切るものだという視点からの批判はごく乏しい。中国共産党や朝鮮労働党は軍事的な脅威をつくり出した国家の話として語られることはあっても、そこに住んでいる人たちの人権という観点からの問題には目が行かない。これは結局、反共主義がリベラリズムと結びついていなかったという日本特有の状況に基づくのだろう。その状況は、現在まで続いている。もし民主主義であり、平和主義である日本をつくるというならば、これは普遍的な問題ですから、それが実現されていない地域に対する関心を持つことにならざるをえないはずです。 ただ、人権保障の拡大、民主主義の拡大という視点から東アジアの国際関係を考えることと、安全保障上の厳しい緊張を緩和することが課題だという視点から東アジアの将来を考えることとの間には、違いがあるということは意識しておかなければいけない。民主化の拡大という考え方は、手前勝手な対外侵略の正当化に容易に使うことができるし、緊張緩和が大事だという考え方には国内の抑圧をあえて無視するということにもなりかねないからです。 いま「東アジア共同体」という言葉がよく言われるけれどこれは緊張の水位を下げていって、各国政府が安定した状態を取り戻した国際関係と考えることもできる。この観点から言えば、北朝鮮の中で苦しんでいる人たちがいたとしても、それは基本的には北朝鮮国内の問題であると、クールに突き放す視線が伴う。もう一つ、逆に、人権保障、民主主義を実現する東アジアに向かって動いていくとすると、その民主主義とか人権というシンボルが、中国あるいは北朝鮮を封じ込める地政学的なレトリックになる可能性がある。この問題にどう答えるのかに直面しなければ、コミュニティの話はできない。 姜 いま藤原さんが人権・民主主義と国際関係のポリティックスの矛盾ということを言われたけれど、明確にそれが意識されるようになったのは、最近のことだと思う。 藤原 そうでしょうね。 姜 逆に言えば、たとえば光州事件が起きた時(一九八〇)に日本政府がとった対応は、まったく人権の問題ではなかった。日韓条約締結(一九六五)のときも同じです。あるいは遡って、朝鮮戦争が起きた時(一九五○)も、釜山に赤旗が立ったらどうするか、という安全保障の議論が中心だった。常に安全保障の観点から隣国の状況が議論されたのです。 これも歴史のifですけれど、もし朝鮮戦争で韓国という国が消滅したとすると、日本はどうなっていたか。おそらく日本の「城内平和」は成り立たなかったでしょう。つまり日本の最大の問題点は、地政学的・歴史的な構造と、その主体的な受け止めに非常な乖離があることです。やはり日本の地政学的な安全保障のためには、韓国という、たとえそれが独裁国であれ、北朝鮮あるいは中国に対する緩衝地帯があることが日本の安全保障にとっては重要だと考えられてきた。そういう判断が、「国家理性」として働いてきたと思う。 ただ、安全保障を最上位概念とする中で、一九七○年代、八〇年代に、民衆の問で日韓連帯運動のような様々な動きがあって、それは人権や民主主義を求める運動だったことは明らかです。政府もそれを無視できない状況をつくり出し、与党の中にもそれにコミットしていく人が出てきた。 それを見ると、人権の問題と緊張緩和は決して矛盾しない。まず北と交渉し、往来が出来るような関係を作ることが人権問題を解決するいちばんの早道ではないか。私は学生の頃は日韓の国交正常化による日韓条約締結に違和感をもっていたが、いまから考えると、いびつな形であれ、日韓の国交正常化が成し遂げられたことは、韓国の人権問題を解決していく大きなテコになったと考えます。 逆に北朝鮮は、国交が正常化されない限り、あのような「先軍政治」という名の軍事独裁政権が存続していくことになるでしょう。しかし、国交正常化されれば、変わらざるを得ない。もし変わらなければ彼らは崩壊すると思います。 和田 いまは、北朝鮮は人権抑圧国家であるという話しか、日本社会では聞かれない。左翼的な言論が支配していた時代には、まったくそういう話はなく、いまは右翼的な言論が支配していて、そればかりになっている。つまり、バランスのとれた考え方がない。人権問題が重要だということと、それを別の目的に使おうとしている人たちがいるということを、両方見ていかなければならない。 三八度線で南北が対立した状況の下で、人権を主張することは、韓国の中では利敵行為だといわれました。それを日本で応援することは、朝鮮半島の安定を損なうことにもなるとされたのです。しかし、韓国人は、そういう考え方を突破して、民主主義革命を実現していった。その民主主義革命から出て来た大統領は、金泳三氏は北に対して厳しかったけれど、金大中氏になって抱擁政策、太陽政策を出した。民主主義を苦しんで勝ちとり、それがいかに大事かを知っている韓国の人たちが、北朝鮮に対した時、違った形で北朝鮮の状況を変えていく方向に働きかけている。民主主義一辺倒で押しまくっていない。それは一つの知恵です。金大中氏は北の状況を容認していると批判されますが、いま姜さんが言われたように、取り巻く関係を変えていくことによって、北の内部的な変化、前進的な変化を促していくという方針でしょう。 現在の日本政府の基本方針は、拉致と核の解決なくして国交正常化なしというものですが、国交正常化した上で、拉致の問題、経済協力の問題、核の問題を積極的に交渉し、打開していくのが、私は北朝鮮の変化も促す現実的な道だと思います。 北朝鮮とどう向きあうか 藤原 米国政府は遥か以前から民主主義の拡大を求めてきましたが、冷戦期にはそれが中断します。というのも、冷戦期には反共でさえあれば、それが軍事政権だろうが何であろうが積極的に支援したからです。だからこそ、私が大学生だった頃には、民主主義というのは左翼の側のシンボルだった。それから、安全保障が日本政府の課題だったというのは、姜さんがおっしゃる通りで、しかもいまでも基本的に変わっていないと思います。 お二人と認識が違うのは、これは私が北朝鮮の体制に厳しい見方をしているからかもしれませんが、国交を正常化することで相手の政府の判断が大きく変わるというご判断で、私はこれは希望的な観測だと思います。また現在権力の継承期にある時に、次に来る指導者が現在の指導部よりも西側との緊張緩和に積極的であるという保証はない。ここで問題は、相手が十分な譲歩をする可能性が乏しい時に、どのように向き合うかということです。相手が譲歩をする可能性が乏しいから軍事的に恫喝をするという考え方は、もちろん論理的には考えられます。しかし、北朝鮮に関しては、軍事的な恫喝はすでに加えられている。核を含む米国の軍事的な脅迫があってこの状況であるというところから、考え始めなければいけない。 軍事的には先制攻撃によって相手を倒すこと以外に問題解決の道はないというところまで、議論は行きつく。しかし、この議論は、コストの点でありえない。北朝鮮は地中深くに基地を持っている国ですから、核エネルギーを使わなければ相手の軍事拠点を叩くことはできない。だから、脅威を取り除くためには、結局、通常兵器による先制攻撃だけでは不十分ということになる。軍事的な行動で北朝鮮に政策変更を期待するのは、最も愚かな行動だと思います。 つまり先制攻撃というオプションに意味がなく、軍事的な抑止によっても相手の妥協を引き出すことができないのが現状であり、それを受け入れざるをえない。北朝鮮の体制を外から変えることは、モラルに反するばかりではなく、現実的に実現可能性がないということを踏まえなければいけない。 とすると、北朝鮮の体制が続く中で、そこに住んでいる人たちの暮らしが破綻しないようにし、かつ北の政府が常に我々に対して譲歩する機会をつくっていくことが重要になります。結局そこで出てくるのは交渉です。交渉の場があること自体が大事で、クリントン元大統領の訪朝も、何かの政策を実現するということではなくて、交渉チャネルを確保することに目的があったと思う。これは方法として正しい。 その際、様々な形で自国の防衛というレトリックによって軍事的な示威行動を続ける相手に対して、こちらがエスカレートすることなく交渉のチャネルを確保することをしなければならない。ただ、これが限界だろうと思います。ここで国交正常化に向けての協議を交渉のアジェンダにすることに反対ではありませんが、国交正常化を入口にすれば拉致問題も核問題も解決するというふうには考えない。 様ざま言いましたが、人権や民主主義が誤った政策を正当化するレトリックに過ぎないのかと言えば、私はそうは考えません。また、そうであってはならないと思います。その社会内部での解放と人権保障と民主主義の実現は可能であり、そこに住む人たちもそれを求めているという前提の上で政策をつくるべきだということを言いたいのです。その点では、旧ソ連・東欧における支配が専制支配であったということを正視して、人権と民主主義の拡大が望ましいということをこちらから積極的に明確に伝える、同時にそれが軍事的な対抗とか封じ込めといった政策とは違うことを明示していく、ヘルシンキ宣言以後のヨーロッパの動きは大事だと思います。 姜 交渉をしなければならないところは賛成ですが、それを塩漬け状態にしていると、核開発はエスカレーションする。いまは、アメリカにとっては、たいした脅威ではないでしょう。どのくらいの年月があれば、確実に脅威となり得る水準に達するのか、誰にもわからない。それを完全にブラックボックスにしたまま交渉を続けていくこと自体が、問題を凍結することになるだろうか。 なるほど藤原さんが言う通り、核放棄とミサイル放棄、拉致問題が解決する確証は絶対的にあるわけではない。だから私は、金正日国防委員長と米日韓最高首脳との間で政治的な決断が必要だ、と考えるのです。盧武鉉政権時代、二〇〇七年一〇月の南北首脳会談で、三者もしくは四者による休戦協定にかわりうる平和協定の締結がうたわれています。こうした平和協定が締結され、日米との正常化が成し遂げられれば、北朝鮮が核を持つ理由はなくなるのではないでしょうか。もっとも、そうした想定を楽観的な予測たというなら、そもそもどうして彼らが、これほどまでに米国との国交正常化に血道をあげ、また実際、いくつかの交渉に応じてきたのか、その理由がわかりません。また初めから核保有国を狙っていたら、NPT体制に入ったり、脱退したりするような、ややこしいことをする必要はないはずです。つまり、静かに潜行して核開発を続け、ある日突然、核実験なり核保有宣言をする方がずっと効果的なはずです。 もちろん、これまで北朝鮮は、何度も前言を翻してきた「前歴」があります。しかし北朝鮮のことをすべて「嘘つき」だと決めつけるならば、そもそも交渉など成り立たないはずです。 私はこれまでの北朝鮮の変化というものを考えるのです。日朝平壌宣言はまだ生きているし、二〇〇〇年と二〇〇七年の二つの南北共同宣言もまだ生きている。二〇〇五年九月の六者協議の共同宣言文も生きている。彼らは反故にするとは言っていない。これまでの成果を元にして、パッケージにして政治決断をすれば、解決し得るのではないかと思う。 和田 過度に楽観的になってもいけないし、過度に悲観的になってもいけない。結局、現在の北朝鮮をどう見るかということがあるけれど、実のところ、よくわからない。それでも打開できることがあれば打開していこう、前進するしかないのです。目標を打ち出しながら交渉しないと交渉だけで終わってしまう。国交樹立のためには日朝基本条約を結びますから、その前文には植民地支配に対する評価が入ることになるでしょう。それは、北朝鮮にとってはメリットになる。さらに交渉をつづけて、経済協力についての合意ができるということになれば、さらに大きいメリットが生じる。そのためには北朝鮮も核問題での見返りを出す必要があります。私は、北朝鮮は打開できるものなら打開したいという気持ちは持っていると思います。 藤原 九〇年代、北朝鮮の体制はかなり早く倒れるのではないかという観測がありました。いまは逆に、みなさん今後かなり継続するだろうという前提で議論していますが、これは誤りかも知れません。 姜 結局、冷やかな理想主義と熱いリアリズムでいくしかないんじゃないでしょうか。 --- どうもありがとうございました。 (司会・編集部 岡本厚) 世界 一月号より
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